彼女は台所にいた。廊下につながる戸へ背を向けたまま、冷たい水の桶に手を入れて洗い物をしている。


 有士は少しでも彼女を怯えさせようと、わざと足音を立てずに近寄った。華奢な手首を横から素早く掴み上げると、頼りなく力の抜けた指先からいくつかの水滴が跳ねて、細い体が自分の方へよろめく。振り返った頬は濡れていた。彼女の母の葬式でさえ見れなかった泣き顔に、有士の怒りが鎮火しかける。


 それでもまだ、溜飲は下がりきらなかった。彼は混乱して足を縺れさせた永久子を、彼女の寝室まで半ば引き摺って歩く。


 乱暴に障子戸を引く。やッ、と声を上げる彼女を、部屋の中央にある布団の上に投げる。帯を解けと命令すると、彼女は顔を凍り付かせた。


「……い、営みは、しないと……」

「俺の言葉が聞こえないのか? 帯を解け、これからあなたの体をあらためる。俺が留守にしている間、余所の男と親しくしてたと思うと不愉快で堪らない」


 有士が彼女の前にしゃがんで、膝を掴んで広げた。着物の裾が雑に開けて、冷たい空気が肌を撫でる。


「そのようなこと……ッどうか止めて……!」


 彼女が言う通りにならないことに焦れて、有士が無理矢理に帯を引っ張った。着物の合わせがあっけなく開き、ちらと胸の膨らみが覗く。帯で手首を縛り上げて、着物の中の襦袢にも手をかけると、卓上洋燈ランプの灯りが彼女の絹のような肌を照らして、その白さをまざまざと有士に見せつけた。


「……ッ、このような体で、あの男を誘惑したのか……」

「だッ断じてありません! 私はまだ、誰にも体を許したことなど、」


 有士が睨む。そして足を開かせ、体の隅々までをつまびらかに観察し始めた。


「あの通りにある八百屋の男だな?」

「い、いけませんッあの方に罪はございません! 妻子のいる方なのですよ、私とどうこうなるはずが、」

「そうか。あなたが言わないのなら自分で探し出す」

「お願い、止めて……」


 彼女が懇願するたびに柔い足を掴む手に力が入る。ここへ来てまだ二週間余りでこれほど庇うまでに惚れたのか。これは愈々仕置きが必要だと、有士は再び怒りに燃えた。


 嫉妬に狂う彼は彼女の柔らかい内太腿に噛みついて、血が滲むまで強く噛んだ。


 痛い痛いと叫ぶ永久子の口を押さえて黙らせる。血を舐め取ると自分のと同じ鉄の味がするというのに、その奥深くに不思議な甘さが感ぜられる気がする。


「明日、女中を一人雇う。そうすればあなたが外に出る必要もないだろう。この家の中でただ俺の帰りを待っていればいい。夫婦になるという自覚が足らないあなたには、それくらいの教育が必要なようだ」


 永久子はとうとう顔を手で覆って、声を上げて泣いた。


 だが有士はその間にも、彼女の体に触れる手を動かし続けた。


「ここで、咥え込んだのか……」


 しかしろくに慣らされてもいない女壺は、人差し指一本を挿れただけでも大層きつかった。永久子が再び痛みに喘ぐ。この具合なら流石に破瓜はまだらしい。有士は、密かに安堵して指を抜いた。


「もういい……服を直せ」


 手首の帯を解くと、永久子は喉を震わせながら、開けて脱げかけた着物を力なく集めた。袖を直す最中も鼻を啜る音が静かな部屋に響く。着物の上であっても、その体を、手首を、うなじを少しでも人前に晒したと思うと腹立たしい。


 なぜこの女はここまで自分を悩ませるのか、彼の中では最早、永久子が幼気な乙女にも、酷く有害な鱗粉を撒き散らす毒蝶のようにも思えた。


「……一週間の外出を禁ずる。今後のことは、それから考える」


 少し冷静になった頭でやっとそう告げる。


 永久子は眉を顰めて頬を濡らしながら、震える体で頷いた。それから頬を拭って、帯を結ぶ気力もなく、有士が出て行くのを黙って見つめていた。


 ――翌日の午後には、彼の言う通り一人の町娘が奉公にあがった。


 今朝の永久子は重苦しい空気の中で有士を見送ったあと、家の中を一通り掃除してから、自室に入って一頻り泣いた。泣きながら、有士へ抗議の置手紙を書いて、もう何を言っても聞く耳を持ちそうにもないから、いっそ出て行ってしまおうかとさえ思っていた。


 そうして筆を走らせているところに、失礼しますと玄関の方から若い声が聞こえてきたのである。


 彼女は、慌てて頬を拭って表へ出た。


 戸を開けるとそこには、永久子と同じくらいか、少し幼いくらいの娘が立っていた。彼女はきちんと頭を下げて、「本日より奉公にあがります、サヨと申します」と告げた。


「まあ……。主人から話は伺っておりましたけど、本当に今日すぐだなんて驚いたわ」


 頬に手を当てて驚く彼女の、濡れた睫毛や赤い鼻の秘めたる苦悩の色香にサヨはポッと頬を染める。永久子はその不可思議な表情を特段気にも留めず、彼女を早速上げて、家中を説明をして回った。


「ここがあの人の部屋ですけれど、私には入るなと仰られるの。でもあなたならいいかもしれないわね。今日聞いてみるわね」


 痛々しげな瞼を緩ませて悠然と笑う様に、サヨは了解しきれない面持ちのままゆっくりと頷いた。


 あまりにも急な話だったので一体どんな忙しい家に使われるのかと不安であったが、蓋を開けて見ればこの若い婦人しかいないことに少し拍子抜けした。だが雇用の条件を思い返してみれば、特段不思議がることもない。


「あの人とは、どのようなお話をなされたの?」

「それが、旦那様とはお顔を合わせるなり、『妻の代わりに夕飯の買い出しをしてくれ』とだけ。あとは、奥様の願いを聞いて差し上げろとしか」

「まあ、……呆れた人」


 永久子は額を撫でて、首を振った。昨晩の喧嘩の言葉をそのままこの娘にぶつけたとは、図体は大きくなっても、大人げないところはそのままのようだ。


「あの、なにか町に出れない事情が?」


 サヨが疑問に思うのも当たり前のことである。


「あの人と、喧嘩をしてしまったの。よく行く八百屋さんがあって、そこの店主と気が合うものだから主人の話をしたのよ。篩那しなの生まれの人だから、なにか口に合う料理を作りたいと言ったの。それで煮物と、頂いたお酒を出してみたのだけれど、怒ってしまって」

「怒ったんですか? 何故です?」

「仲良くし過ぎてしまったのね、きっと」


 永久子はつい愚痴るような言い方になった己の口を押さえて、内緒よ、と言わんばかりに肩を竦めた。


「あぁ、つまりは奥様は若くて美しくてらっしゃるから、その店主が奥様に言い寄ったと勘違いなさったのですね?」

「まさか! 八百屋のあの方はそんな人ではないし、主人はそんなこと考えないわ。とっても冷たい人なの」

「お話を伺ってる限りでは、そうは感じませんけど……」

「でも、そうなのよ。夫婦の営みはしないだなんて言われたのだから」


 彼女があまりにあっけらかんとそう告げるので、かえってサヨの方が羞恥に頬を染めた。昼間からそんな、と諌めはしたものの、同情するように彼女を見つめる。


「勿体ないですわ、本当に……」


 白くてふっくらとした頬が、怒りで興奮したのか頬がやや赤く染まっている。ハリのある若い体も何もかも放っておくにはあまりに惜しいのだが、あの若旦那はその価値というのをちっとも分かっていないらしい。女のサヨでさえ、それでは八百屋の店主とやらに取られたって仕方がない、と思うくらいである。


「それだから、外には出るなと」


 それって、軟禁ではないのか。


 サヨは口には出さないまでも、心中でそう呟いた。気づいているのかいないのか、この嫁はよくもこうのんびりと眉尻を下げていられるものである。きっと相当な箱入り娘であったに違いない。彼女は心底、この浮世離れしたお嬢様に同情するのだった。

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