参
あの夕方についてどちらともなく明言を避けてから数日が経った。貴舩夫妻の間には変わらない日常が続いている。
あの時に見た有士の陰鬱な瞳も若しや自分の考えすぎかもしれない。永久子はそうすっかり気を持ち直して、寧ろ何も言ってこないのだから本当に
「ふんふんー、ふん~……」
彼女は大きな桶に有士の
町に出て、いつもの八百屋へ行くと有士の話になったので、彼は南西にある
永久子は是非自分にも篩那料理を教えてほしいと頼み込み、先ずはごく簡単な野菜のごった煮の作り方を教わった。
その日に買った野菜も、ごった煮に使う物を全て揃えた。早速、今晩作ってみようと思ったのだ。むっつりと箸を進める彼の頬が、少しでも緩みますように、と願いを込めながら、彼女は祖母のレシピで埋められた食卓の中に一つ、野菜のごろついた味噌煮を並べる。
「……なんだ、これは」
「町で、篩那地方のごった煮の作り方を教わったので……」
「これは、山籠りしている猟師や山賊が手早く体を温めるために作るものだぞ」
暗に普通の食卓に並ぶものではない、と責められた気がして永久子が小さく謝る。彼は真顔のまま、それでも椀の中身を全て食べ尽くした。
「……そう言えば、焼酎も頂きましたの。今日あがられますか」
彼女の言葉に、有士は一瞬その出所を疑いながらも黙って頷いた。そして少し間をおいて、今しがた食べたごった煮をあてにするとも言った。
「は、はい!」
永久子は一度引っ込んでから、盆の上に、煮物の小皿と湯呑みを運ぶ。
横について酒を注ぐと、珍しく有士から「あなたは焼酎を飲んだことがあるか」と問われた。
「いいえ」
「なら試しに飲んでみろ」
「……でしたら、一杯だけ」
まさか晩酌に誘われるとは思わず驚いたものの、急いで台所から適当な湯呑みを取って来た。とはいえ、酒自体あまり飲んだことがない。有士の湯呑みに酒を注いだ後、自分のそれにも注ぐ。その間、彼は終始彼女の様子を観察していた。
「い、いただきます」
少し彼の方へ湯呑みを傾けてから、味を見てみる。
だが、喉を焼く強烈な焼酎の味に、思わず素直に顔を顰めてしまった。好かないかと聞かれ、慌てて首を横に振る。
「……随分、強いんですね」
ほんの僅かな一口だというのに、喉を通る刺激がよく分かる。体に火がついたように火照ってくる。彼は大丈夫なのだろうかと顔を上げると、ばちりと目が合った。
「飲めないなら置いておけ、私が飲む」
「でも、折角ですから……」
そう言って、彼女はまた湯呑みに口を付けてこくりと喉を動かす。頬が赤く染まって、早くも瞳が潤んでいるのが健気に見えて、有士も静かに自分の酒を煽った。
「お酒、お好きなのですか」
「特別は好まない。付き合い程度だ」
「そうですか」
「だが今日は気分良く晩酌できる」
「なぜです?」
こんなに長く会話が続いたのは初めてだった。永久子は慎重に質問を重ねていく。
「今日は上官が態々足を運んで、私の様子を見にいらしてくれた。昇進は早いとお墨付きまでもらったんだ」
得意満面に酒を煽った有士に、彼はこんな顔もできたのかと永久子は大層驚いた。
「良い一日だったんですね。その上官様は、一体どのようなお方なのです」
「とても厳しい人だが……その裏には優しさがあると私は思っている。少なくとも国や、市民のことを第一に考えられる人だ。……そのうちに会う機会もあるだろうが、あまり萎縮しすぎなくて良い」
「そうですか。とても軍人らしいお方なのですね」
永久子は酒気を帯びた、気分の良さそうな顔でまた舐めるように酒を口に含んだ。その様子を見てそろそろかと感じた有士は、勢い付けるように一つ酒を煽って口を開く。
「この酒は誰から貰ったんだ」
突然の質問に、永久の顔がぎくりとする。酒気を帯びているとかえって探偵めいた直感を発揮するものであるが、そのように疑るまでもなく、最早この酒にやましいことがあるのは誰の目にも明白であった――少なくとも、有士の目にはそう見えた。
「やはり、この前団子屋で話していた男からもらった酒か」
「……よく行く八百屋の店主なんです」
「だから慣れぬ焼酎なども嬉々と飲んだのか」
彼は永久子の言い訳も聞かないうちに、早合点して眉と目尻を吊り上げた。それに彼女が恐縮すればするほど、有士の心はじりじりと焦げていく。
「それ以上飲むな!」
そう言って彼女の湯呑みをひったくり、残りのすべてを自分で飲み干してしまうと、乱暴に座卓へ叩き置いた。
永久子は目を白黒させながら、そんな有士を見ることしかできないでいる。
何も言われないから、すっかり許されたのだと思っていた。大体からしてあの日、やましいことが無いなら謝るなと言ったのは彼の方である。それであるから自分も後ろ暗いのがあるなどと思われぬよう、
だが有士の方はかえって、そんな彼女の必死な様子を見て疑り深いでいた。特に今日などは、ずっと永久子の機嫌が良いのが疑問だった。それについて、妙に嫌な予感もしていた。
「こんな酒、今すぐにでも捨ててしまえ」
「そ、そんな……、折角の頂き物を」
「ふんッ、はしたない女だ、そんなに酒が好きか? それとも、あの男からの貰い物だから大切なのか」
「ち、違います! それに、あの人には嫁も子供も居るんですよ」
「それがどうした! 人の妻に無遠慮に物を贈るような男だッ、程度の知れた下らん奴に決まってる」
声を荒げて立ち上がった有士は、今にもそのまま軍刀を引っ掴んで飛び出しそうな勢いであった。それでも永久子を見下ろして、彼女の赤い唇が酒で濡れているのが、驚きと恐怖で瞳まで湿り気を帯びているのが、嫉妬に燃える彼の目には、純潔と貞淑さを失ったなによりの証拠に見えた。
「その顔で、その男にも色目を使ったのか?」
「そ、そんな……、それは誤解で……」
唖然として有士を見上げる永久子は、あまりの剣幕に腰が抜けたと見え、酒気のせいか無防備に足を放り投げている。有士の脳裏には記憶に染み付いた、三年前の熱帯夜に覗き見た彼女の悲哀が蘇る。
少し冷静になった様子で軍刀を置き、無言で居間を出ていった彼に、追い縋る勇気などは永久子にはなかった。彼女は自分が軽率なせいで彼を怒らせてしまったと、口を押えて静かに涙を流した。
「――クソッ……」
部屋へ戻って一人になってみても、有士の苛立ちは一向に治まらなかった。
これまでの人生の中で、有士は今ほど強烈な怒りを抱いたことはない。それに、学生時代に
三年前、八幡夫人に告げた「永久子を一人にさせない」という言葉は確かに本心であったが、またそのためにも己に厳しく勉学に励んだのではあるが、守りたいという
初めて彼女を見た時分、有士は彼女の中に何か神聖なものを感じた。守らねばならない人を見つけたと。素直さを隠しきれない永久子のあどけなさが、彼女の持つ純粋さや処女性をさらに潔白なものに見せていた。
それが今では、彼女の口から無防備に八百屋という単語が出るばかりか、怯え、呆気に取られ、
彼女と正式な夫婦になるために自分がこれほど励んでいるというのに、当の本人がこのような不義理を働くとは。どうにも収まりがつかない。昼間、自分が不在の間にもあの男の元へ行って不貞行為を働いたのではないか。有士の脳内にはありもしない淫猥な既成事実が作り上げられていく。
あの薄汚い中年男が永久子の肌を目にしたかと思うと、口汚く罵って、不浄な体を今すぐにでも縛り上げて確かめたくなる。そんな嫉妬に焼かれ、彼はとうとう永久子を探しに部屋を出た。
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