毎朝、永久子は有士よりもいくらか早く起きる。


 軍人たる彼の朝は大層早く、それよりもさらに前の起床となると、寝室に漂う色はいつも夜の名残を残した紺色であった。


「はぁーあ……」


 まだ眠たい頭で、実家を出る前に女中のおツルから「良い奥様になりますように」と貰った簪で簡単に髪を纏める。それからとろとろと襷をかける。その頃には微かに地平線の向こうが赤くなり始め、濛々もうもうとした雲にも日の光が差し始める。


 つたない夫婦生活が始まって、やっと十日ほどが経った。


 出会った頃と何一つ変わらないまま、二人の間に笑顔はなく余計な雑談もない。


 ただ淡々と男子女子としてやるべきことをこなし、見知らぬ土地で気心の知れた友人は居ないではあるが、町に出れば親切な店主や町人らが物珍しがって、余所者の彼女の話し相手になってくれるのであった。


 朝、先ずは朝食の準備のために火を焚く。それから顔と歯を磨く。あの人が昨日、そろそろ冷えてきたと言うから、炭を幾つか挟んで火鉢にも入れる。


 朝食は、野菜のおひたしと町で買った干物と、漬物とお味噌汁。炊き立ての米を混ぜていると、重たい足音が近づいて来るのに気づく。


「……今朝も冷えるな」

「お早うございます。すぐに温かいお茶を淹れますね」


 彼の方へ振り向いてそういうと、有士は緩く頷いて、ぼうっと廁かどこかへ行った。


 戻ってくる頃には、またあのいつもの取っつきにくい、気難しげな皺を眉間に作っていることだろう。大体、あの人が笑ったところはまだ一度も見たことがない。


 彼女は心の中で滔々と有士について呟く。ここに来てから、家ではいつも心中独り言が止まらなかった。


 食卓に皿が並ぶ頃には空もすっかり白む。火鉢や熱いお茶のお陰で彼の体も少しは温まったらしかった。いつもの気難しい顔で、口をへの字に曲げて箸で干物を掴む。


「……この干物、味が薄い」

「では、もう少し塩が効いたのを探してみますね」


 そう返す永久子の目はまだ少し眠たそうである。


 彼女は、正面に胡坐を掻く有士から珍しくちらちらと視線が向けられるので何事かと不思議に思っていたが、ふと、雑に結ったままの髪のことを思い出して、すまなさそうに箸を置いた。


「ごめんなさい、髪が……」


 だらしなかったですね。そう言って彼女が慌ててそれを結い直すのを、有士は箸を止めないまま眺めた。はしたないから食事が終わってからにしろと叱っても良かったが、彼女の指や簪や器用に動いて、黒く長い髪がくるくるといつもの風に収まるのを見るのは少しだけ興味深かった。


「今日は帰りが遅くなる」

「分かりました。お気をつけて」


 永久子が玄関まで彼を見送る。有士はそれ以上は何も言わず、永久子のつむじを一瞥して出ていく。


 大したことじゃない。彼が男子として勤めに出るように、自分は黙って、妻としての本懐をこなせば良いのだ。彼女はそう自分に言い聞かせながら、扉が閉まっていくのを見つめた。


 永久子は有士の望んだとおり、余計なことは何一つ言わない寡黙な妻であった。


 それでも有士はこの若妻に対して、態々何かをしてやろうという気遣いはなく、ただ朝早くに出て夕方頃に帰り、飯と湯を済ませたあとは早々に部屋へ引っ込んでしまうのだった。


 さて朝に彼が出て行ってしまえば、あとは気楽な一人の時間である。


 大抵は午前のうちに掃除などを済ませて、軽く食事をしたあとは居間で本を読んだりただ寝転んだりする。


 町に出ることもあるが、あまりフラフラ出歩いても外聞が悪い気がしたし、それにもしも、本当に有士に別の想い人がいるのだとして、万が一にも逢瀬の現場に居合わせてしまったらまずいなど色々なことを考えてしまうと、かえって家で大人しくしている方が気が楽だった。


 それでも夕方の買い出しの時には、少しゆっくりと町を散策する。


 悲しいから、この夫婦関係についていっそはっきりと聞いてしまおうかと考える時もある。その日もそんなことを思い悩みながら歩いていると、気に入りの八百屋の旦那が、団子屋の表で休んでいるのが見えた。


「おう、お永久とわさんじゃねえの」


 そう気さくに手をあげられて、永久子もやっと笑顔を見せて縁台えんだいに駆け寄る。


「どうも、こんな時間に道端で会うなんて珍しいですね」

「そうだなぁ。最近はせがれがよく店に立っててよ、この時間帯はあいつが店番なのよ」

「まあ! そうですか」

「倅も俺も団子が好きでね。それで休んでたら、相変わらず悲しい顔して歩いてるお嬢さんを見つけたもんだから、つい声を掛けちまったって訳さ」

「うふふ、駄目ですね私ったら……悲しいのは伝染うつるんですって」

「へぇ。でも風邪とおんなじようなモンで、人に伝染しちまったら、すぐに治るんじゃねぇかな」


 話くらいなら聞くよと言われて、促されるまま横へ座る。


 俯くと耳にかけていた前髪が垂れて、彼女はそれを指でかけ直すと、ぽつりぽつりと語り始める。


「旦那が、夫婦の営みはしないというんです」

「えぇ? こんな別嬪を貰っといて、そらぁねぇだろう。なんかの間違いじゃねえのかい」

「ううん、はっきりと言ったんです。その心算はないと。だから、夫婦の寝室として作ったところが、私の寝室なんです」

「ひでぇ話だな、そりゃ」

「だから、きっと余所に好い人がいるんです。とっても冷たいんですもの。私のこと、疎ましいんだわ……」

「おいおい、そりゃちょっと考えすぎだな。ちゃんと聞いてみねぇと。にしても、女を泣かせるなんて男じゃねぇな。一体どんな旦那なんだい」


 八百屋の旦那の言葉に、永久子はなんの気なしに俯かせていた顔を上げた。そして正面を見て、目を見開く。


 通りの向こう側に、帯刀した有士が立ってこちらを見つめている。


 彼を見つけた永久子の表情は恐怖と驚きで凍り付いた。彼の双眸がとても冷たかったからである。隣に座っていた旦那もその異変に気付いて有士を見つけると、頻りに永久子を励ましたが、彼女の耳には通りを行き交う人々の雑踏同然だった。ただ有士の真一門に結んだ口と、疑り深くこちらを責めるような不満げな瞳に、深く胸を刺される。


 本当は、今すぐにでも駆け寄って飛びついて弁明をしたかった。しかし目が合っている間の、呼吸さえ儘ならぬほどの威圧感に膝が震えて、どうしても立ち上がることができなかった。


 そうしているうちに有士は戻ってきた部下に声をかけられて、ふいと永久子から視線を外して、兵営がある方へ歩いて行ってしまった。


 しかしその夜、彼女はてっきり厳しく追及されるものと思っていたが、勤めから帰って来た彼はまったくいつも通りの態度であった。


 視線はいつも以上に交わらなかったが、食事が終わってからごめんなさいと一つ謝ると、「後ろめたいことをしたのでないなら謝るな」と言われ、この日の会話は呆気なく終いとなった。

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