微笑まない人

 昨年の暮れに、貴舩家から新設する奇州きしゅうにある古室こむろの邸宅について、どのようなものがいいかという手紙があった。


 そこには住所も記されていて、彼女はそれを何度も読み返しながら、一抹の不安を抱え奇州へ渡った。有士がその地方にある十九聯隊へ配属されたのをきっかけに、永久子もそこへ越すことになったのである。


 あの幼き夏から三年、顔は一度も合わせていない。無論のこと寫眞しゃしんを送り合うこともない。つまりはあれ葬式以降挨拶もろくに済ませていない訳であるが、その不遜についてのおとがめが無いところを見るに、両家とも有士が永久子でいいと言ったのの通りにして放任でいるらしい。


 有士がまだ入隊したばかりで大変であるから、挙式にはそれなりの格好がつくまでは行わないことになった。一先ずは婚約のテイで、住まいだけ先に作ってしまおうということである。


 双方それで異論はなく、そんなことよりも永久子は、あの青年の気難しいところが一体どれだけ厄介になっているのかばかりが気がかりであった。


 某日、永久子を乗せた人力車が、古室市内の大通りの真中を駆け抜けていく。


 初めて訪れた奇州はやはりごちゃついた帝都とは違い空も広く、空気が透き通っているようで気持ちが良かった。


 あんまりにも物珍しげに景色を眺める彼女の為に、車夫は少しゆっくりと車を走らせてやった。大通りの真中を、愛らしくめかし込んだ若い娘が観光する様はこの古室では珍しくない。


 しかし邸宅の前へ来て、表で待っていた有士は彼女を見つけるなり、遅いッ! と唾を飛ばして叱りつけた。


 荷物は先に運ばれていて、あとはその身一つであるというのに何をそこまで遅くなることがあるのか。


 苛立ちを隠さない有士に、本来、箱入り娘であれば怯え縮こまるのも致し方なかった。だが永久子は存外図太く、まじまじと彼を、いや彼の顔に刻まれたここ数年の苦労と成長の気配を、つい無遠慮に眺めた。


「……なんだ」


 あまりにも熱心に見つめるので、流石の有士もやや語勢を弱めて問う。


 昔は目を合わすことも難しかったというのに、今は、彼が彼女を見下げるのにも物怖じしたところが無い。しかし彼の一言ですぐ、永久子はふと我へ返ったように、何でもありませんと顔を俯かせた。


「……視線を合わせるに足らず、隠し事をする度胸までついたのか。言いたいことがあるならハッキリと言えばいい」


 これから夫婦になるのに、今からそんなのでは困る、と彼にせっつかれて、永久子は羞恥に眉を顰めながら、それを逃がすように視線を横へ流した。


「その、以前よりも……随分と頼もしい風になっていて、驚きました」

「以前はそこまで貧相だったか?」

「ち、違います。歳なりに逞しくはありましたけれど、ただ、すっかり大人になってらして」


 彼女は言いながら、自分が大袈裟に貴舩有士という男を批評しているようで、そしてそれがとてもはしたない事のように思えて、徐々に語尾を弱めた。これくらいで勘弁してください、とそっと俯く。


「三年だ。あなたが変わったのと同じように、私が変わったのも当然だろう」


 その言葉に、永久子は自分も、彼の目には確りと大人の女性へ成長した風に見えたのだろうかと思った。


 どんな風に見えたのか聞いてみたい気もしたが、彼女は黙って一つ、こくりと頷くだけに留めた。


 さて案内された貴舩邸は、小さいながらに立派で、見てくれは流行りの洒落た西洋風建築であった。


 玄関を入るとまず真っ直ぐに廊下があって、左には庭と縁側が、右手側のすぐ横には空き部屋、数歩進んで応接間となっている。応接間の角を右に曲がった先の突き当たりが有士の書斎であるという。その周囲には他にも二、三の空き部屋があった。


 正面廊下の奥まったところにあるいくつかの部屋が居室らしい。縁側に面した最奥の座敷の前で、有士は足を止める。


「母に送った手紙に、自分の部屋が欲しいと書いたそうだが……それにはここを使え」


 そう言って彼が開けたのは、小部屋と言うには随分と広い和室であった。中には既に、永久子が先に送った荷物などが運び込まれている。


「まあ……。思ったより、随分と広いんですね」

「……母が夫婦の寝室は作っておけと五月蝿かった。だが私にその心算はない。ここはあなたの好きなように使って構わない」


 その言葉を聞いて、永久子は頭を金槌で殴られたような衝撃を受け、言葉を失った。


 何しろ、彼女としてもこの三年間、輿入れについて何も考えずに過ごしていた訳ではない。


 妻の先ず重大な仕事は、家を守ることと懐妊である。どちらかといえば、貴舩家の一人息子である彼の方こそ、一族存続のためにそうした考えを強く持っていると思っていた。


 そして永久子自身も、いづれそう遠くない未来には夜を共にすることもあるだろう、と漠然とした覚悟を持っていた。


 やっとの思いで固めてきた覚悟を頭ごなしに否定されて、打ち砕かれたような気分である。いや、事実そうされたに違いないのだ。


「……分かりました。では好いように使わせていただきます」


 夜伽よとぎを無しにしても、本来夫婦の寝室であるところを態々私室として与えるなんてなんの当てつけだろう。彼女はショックに震える唇を噛みながら、深く頭を下げた。


 その日、有士は昼休憩の間に兵営へいえいを抜けて来たというので、永久子は玄関まで彼を見送って、一人でやしきに取り残されたあと、まだ彩りのない庭を眺めた。


 茫然とする頭に色々な感想が駆け巡る。三年振りに会った自分は、若しや彼のお眼鏡に適わなかったのだろうか。それとも会わぬ間に、別に想い人でもできたのか。もしそうならば、それは奇州の人かしら。それとも本国本島の人かしら。どちらにせよこれから、


「……やっていけるのかしら」


 溜息と不安が虚空に溶ける。悶々と考えるのは、大人になって益々分からなくなってしまった有士のことばかりである。

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