弐
しかし母の葬式は、そんな憂鬱など吹き飛ぶほど目まぐるしかった。
初めはぎこちなかった永久子と有士も、あちこちへ奔走するうちにあっという間に心の壁は取り払われた。
その日は初夏の中でも特に暑い日暮れだったので、通夜が始まる直前、永久子が台所で休憩しているところに廊下を行く有士の背を見つけると、つい心配になって彼を呼び止めた。
「あの、お暑いでしょう。コレ冷たいですから、どうですか」
言いながら、たっぷりと水の入った湯呑みを差し出すと、額に前髪を張りつけた彼は素直にそれを受け取った。その折に彼女の手を見やる。暑い暑いと言う割に汗の一つも感じさせないさらりとした手である。白すぎず、かと言って農作業に励む者の手でもない。令嬢特有の柔らかくほっそりとしている。
有士は一息に水を飲み干して、彼女の手の中へ湯呑みを戻すと、もう式が始まるぞ、と言って廊下の奥へと消えて行った。
永久子が湯呑みを片して座敷へ入ると、参列者は既に概ね揃っていた。
自分はてっきり祖母の横に座るものと思っていたのだが、そこには親戚の誰かが既に座している。
困って座敷を見回すと当たり前のように有士の隣が空いていたので、永久子はおずおずと、彼の横の座布団に座った。それから間もなくして、通夜は始まった。
枕経が終わると、永久子が寝ずの番をすると言って聞かなかったので彼女と伯父とで順番に母の棺を守ることになった。
その日は一日中、どこかじっとりと蒸し暑い日であった。
蝉も声を静める夜半、寝苦しさに目を覚ました有士は一度廁へ立った。
屋敷全体の風通しが悪く、どことなく気持ちの落ち着かない感じがする。
借り物の夜着の肌蹴るのを適当に直しながら廁へ急いでいると、どこも暗い座敷の中で、一ヵ所の障子だけがほの明るく色づいているのを見つけた。永久子が寝ずの番をしている居室である。
何となく、有士は足音が立たないように気をつけながら、ゆっくりとそこへ近づいた。蝋燭の
そっと廊下から障子の隙間を覗く。
中では、揺れる蝋燭の側で永久子が足を崩して座って、棺桶にしな垂れかかっていた。
投げ出した白い足は無防備で、誰にも見られてないと思って気を抜いているのだな、と有士は思った。そしてその後に見た光景は、何年経っても忘れないだろうと思う。
永久子はそっと、まるで幼子が未知の穴へ手を入れるように、恐るゝゝ棺の中へ手を伸ばした。その手のゆくところは、母の動かぬ白い手のひらである。
「お母様……一体どうすればいいの。……一人は辛いわ」
寂しい少女の声に有士の胸までつきりと痛む。
しかし悲痛な表情と同時に、
有士はそっと隙間から身を離した。
さてやっと廁で用を済ませてから部屋へ戻り、布団へ潜るとやがてまた微睡みが襲ったが、二度目はあまり気持ちの良い眠りではなかった。
おまけに目覚めた朝の空は曇っていて、寝ずの番を終えた永久子は透けるような肌に不健康な隈をくっつけている。どこか虚な瞳に、昨晩の光景がちらりとよぎる。
「若い娘がそんな隈、こさえるモンじゃありませんよ」
祖母はそう言いながら、彼女の顔に
祖母は寺へ着くまで暫くは憔悴した永久子を気に掛けていたが、常に横に有士が立っているのを見てやがて心配を止めた。
葬式は火葬で、夜に行われたので、骨は翌朝に拾った。骨上げの時、折角だからと永久子も箸を渡されたが、彼女は勝手が分からずに酷く困惑した。
「只、掴めばいいのかしら……」
隣にいた有士が手本として箸で骨を掴み上げる。こうして掴めと急かされた永久子は、慌てて自分の側の骨を箸先でつまみ上げた。
やっと全てを終えて屋敷に戻ったのは、昼過ぎのことである。
家に着くと皆流石に疲れた様子で、糸が切れたようにどっと体の力を抜く。永久子は有士さんと休んできなさいと五月蝿い祖母の横を抜けて、一人縁側の隅へ逃げる。
「……はぁ」
彼女が通りがかったツルを引き留めて、桶にたっぷりと水を溜めてくれと頼む。
それはすぐに庭へ運ばれた。縁側の縁に立って、着物の裾を開いて持ち上げて、ちゃぷりと音を立てて素足を冷や水に突っ込む。そうすると、歩きっぱなしで熱く痺れた足やふくらはぎが、じわぁ、と水に揉まれるような何とも言えない良い心地になるのである。
彼女は日陰に腰かけて、気に入りの詩集を横においたまま、そうして、暫くぼうっと庭の木を眺めていた。
「一体何をしてるんだ、こんなところで」
横から声が聞こえたので見やると、有士が彼女を見下ろしていた。
「……涼んでいます。とても気持ちが良いんですよ、ご一緒にいかがですか」
そんな無防備な誘いへ、彼は両眉を上げて頬を染めた。永久子のつるりとした膝が、有士の視線を惹き付ける。
「いッ、いい!」
彼は羞恥に
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