結婚のすゝめ

郡楽

十五歳

「賢い子におなりなさい。十五になったらお嫁さんへ行くんだよ。失礼のないように上手くおやり」


 そう言って聞かせる祖母の後ろで、母はいつももの言いたげな唇をじっと噛んで永久子とわこを見つめていた。そして祖母が去るとやっと愛娘の小さな手に触れて、「なによりも先ずは優しい人におなりなさい」と言う。


 けだし母との記憶を遡ってみても、永久子が覚えていることはそのただ一つである。


 陰ゝたる雨の日々が過ぎて、やっと屋敷全体に陽光が届いたという時分にそんな気弱だった母が眠るように息を引き取った。


 永久子が十五になったので、梅雨が明けた頃にでも両家顔合わせを致しましょう、とちょうじ合わせていたところであったので、しかすると葬式の方は慌ただしく済まされるかもしれない。そう心配した永久子は、自分も手伝うと言ってなるべく祖母の側について、ことある毎に色々の話を盗み聞きしていた。


 その日も同じく、祖母が町の葬儀屋と話し合う最中には永久子も庭に出て、暑さに参っている庭内の景色を眺めながら、遠巻きにも耳を大きくして祖母らの会話に耳を澄ませていた。


 そこへ、道に面する古い木の門が開いて、とある青年が八幡やわた家の土を踏む。


「あら! まあまあ、もうお着きなさったのね」


 門戸もんこを見た祖母が、途端に調子を変えて声を高くして言う。


 庭池の側にしゃがんで花に触れていた永久子も、声につられて後ろに体をひねった。そこには姿勢の正しい、よく日に焼けて浅黒い肌の青年が立っている。遠目なので顔つきまでは分からない。だが彼が身につけている士官学校の制服はまだ新品で、折り目正しく皺一つないように思える。


「……おツルさん? あのお方はどちらの将校さんなの、まさか母のお知り合い?」


 こんな時だから、親戚のどちらかがわざわざ来てくれたのだろうか。知り合いにしてもあんな若いのがいるとは知らなんだ。そう言いたげな彼女へ、側にいた女中のツルが驚愕の面持ちで口を開く。


「まあッ、貴舩きふね源次郞大佐のご子息でございますよお嬢様。先日大奥様が仰ってたではございませんか」

「貴舩……?」


 聞き覚えのある姓にハッとして、永久子は一気に怒りで頬を赤く染めた。


 母の葬式は明日であるのに、見合い相手なぞが何の用で来たのか。まさか、当初の予定通りに見合いをするつもりなのか。いやまさか、あの祖母に限ってそんな、相手方にも失礼になるようなことはするはずがない。しかし、でも。


 混乱した永久子は逃げるように、御手水おちょうずに行ってくるわと立ち上がった。


「えぇ、今ですか? 後ではなりませんか?」

「どうしても我慢なりません。ここで垂らしても良いと言うならそうするけれど」

「まあッ、お下品なッ」


 おツルは口に手を当てて、この会話が聞こえてやしないかと慌てて祖母の方へ振り向く。だが向こうも随分と話し込んでいて、こっちの声までは聞こえていないようである。


 安堵するおツルの隙を見て、永久子はするりとかわやの方へ行ってしまう。その姿のないところにいくら祖母が愛孫を呼んでも、当然の如く返事はないのであった。


「あら、永久子はどこへ行ったの」

「それが、少し御手水に……」

「まあ、おほほ。きっと照れたのね。あの子ったら昔から引っ込み思案でして、どうかお気を悪くなさらないでね」

「気にしとらんです。……そんで、何か手伝えることはないですか」


 貴舩大佐の息子、貴舩有士ゆうしが軽く庭内を見回す。確かに両親から聞いた通り、慌ただしく動く中に男手は殆どいない。


 実のところ、有士の来訪は二人の見合いの段取りとは直接の関係はなかった。


 確かに見合いは永久子が十五になってからすぐにという取り決めだったが、こうなってしまっては、少なくとも四十九日が終わるまでは何もできない。


 だが何の縁か、有士の通う士官学校が割に近くにあったので、彼が貴舩家を代表して葬列することになったのである。ついでに夏休暇であるから、少しの間顔を出して手伝いでもしてきなさい、と。父親同士が士官学生時代からの親友であったので、子供らの扱いは大変大らかであった。


 永久子の父、八幡恒三やわたこうぞうが戦死したのは今から六年ほど前のことである。それから今まで、八幡家では何事にも女性が活躍せざるを得なかったので、今回の申し出は非常に有難かった。


「お暑いでしょう、ずは中へ」


 祖母は女中に茶の用意と、それから急いで永久子を呼ぶようにと小声できつく言いつけて、有士を客間へ案内した。


 八幡家の家屋は昔ながらの、純和風な日本建築である。本家といってもこちらは祖父母の為に建てた小さな屋敷で、そこへ、戦争未亡人の母と幼い永久子が移り住んだのである。


 そんな訳を、有士は移動の最中に聞かされた。それを語る祖母の横顔は心配げで、彼は不憫なあまり、大した考えも無しにこんなことを口走った。


「心配せんでください。もうお孫さんを一人にはさせません」


 そう言って初めて、有士の胸には、それまでは実感のなかった結婚という二文字が重く圧し掛かった。


 勿論、いつかは自分も嫁を取るのだろうと考えてはいたが、まさかこんなに早く見合いをするとは思ってもみなかったし、両親がそこまで結婚をいているなんて思いもしなかった。彼は信奉心に厚く仕事や勉学にも熱心であったが、ごく個人的な生活や人生については能天気に構えているところがあった。


 祖母は有士の言葉に少し驚いた様子であったが、まだまだ幼い青年の至りに微笑を浮かべて、ありがとうございますと頭を下げた。


「ここで少々お待ちくださいね。今お茶を運ばせますから」


 客間にて一人待たされる。彼はじっと正座の上に拳を乗せて、座卓の木目を眺めていた。


 通夜、葬儀等で少なくとも三日はここに泊まることになる。


 永久子の話は聞いていたが、寫眞しゃしんはあえて見なかった。


 余程でもない限り、どんな娘が来てもお国の為に生きる自分の道に変わりはないのだから拘る必要はないと思ったのだ。


 実際、引っ込み思案と聞いて安堵さえ覚えた。女子はそれくらいで構わない。寧ろ余計な口出しをして五月蠅いよりかは、女子らしく静かな方がずっと良いとさえ思った。


「……失礼致します」


 初夏の蒸し暑さを忘れさせるように涼しげで、清風の如くよく通る声が無音の中に響き、有士は弾かれたように思案の海から顔を上げた。


 正面を見ると、少女が綺麗に三つ指をついてこうべを垂れている。つむじがゆっくりと上がり、緊張が走る。


 彼女のおもてはどんな想像とも違う、強いて言うなれば声によく似合った、汗粒かんりゅうを感じさせない造りであった。


 自分とは全く違う白い肌を、真っ黒い髪が余計に引き立てている。頬はまだ幼さが残ってふっくらとしている。しかし伏せている長い睫毛が目元に影を落として、気重そうな瞳を余計大人びて見せている。


 全てがいとわしいとでも言いたげな面持ちは母を失った憂いからか、それとも突然やって来た婚約者をうとんでいるのか、有士の目にはどちらのようにも映った。そして自分が嫌厭されていることで、余計にこの少女のみやびやかさを引き立てているという事実に暫し動揺した。


 傍からするとほうけて見えるほど彼女を注視している有士とは逆に、永久子は目が合うなりすぐに視線を下げた。


 彼が彼女の寫眞を見なかったように、彼女も有士の寫眞を見てはいなかった。


 そもそもが乗り気でないのに、見た目さえも嫌ならば余計憂鬱になってしまうと思ったからだ。そして彼女は、見なくて良かったと心底から思った。決して彼が醜男しこおだった訳ではない。


 寧ろ初めて見た有士は、その存在や、何もかもの全てが強烈に感ぜられた。


 硬い表情のまま意志の強そうな整った眉を顰め、これまた意志の強そうな瞳でじっとこちらを見つめてくるのが恐ろしく、また、未来の責務を強いられているようで酷く窮屈だった。


 彼女は静かに入室して、座卓の、有士の前へ冷たい湯呑みと茶菓子を並べた。


「……この家では、息女が自ら茶を出すのか」

「いえ……先ほどはお迎えに上がれませんでしたので、ご挨拶も兼ねてわたくしが」


 そう言いながら、手元に視線を落としていた永久子が顔を上げると、有士の視線が思ったよりも近くにあって驚いた。間近に見るとやはり永久子の肌は一層きめ細かく、そして有士の頬もやはり少しの愛想も見せなかった。


「そうか」


 それ以上の会話はなかった。


 彼は一気に茶を飲み干して湯呑みを置く。


「休憩はもういい。私ははなにをすればいいのだ」

「先ずは女中がお部屋へご案内致しますから、それからのことは祖母に伺って下さいまし」


 言葉だけ聞けば随分と素っ気ない物言いに感じるが、滑らかな話し声が不思議と棘を消した。有士も気に障った素振りはなく、ただ頷いて腰を上げる。


 女中を探そうと廊下へ出ると、案外すぐ側に控えていた。


 彼は永久子について、この短いやり取りの中で十分に納得がいった。視線があまり合わないことも、会話が少ないことも、“引っ込み思案”と聞いているから気にはならなかった。


 対する永久子は、どうにもやるせないでいた。


 少し時を遡って、彼女が廁から戻った時分。彼女を探していた女中のおツルに捕まって、台所まで引っ張られて茶を出して下さいませと頼まれた時は心底苦々しく思ったものだ。


 なんでも祖母の言うには、これから長く連れ添うのだから、挨拶くらいはきちんとしておきなさいとのことである。それはつまるところ、もう見合いという形式などはいいから、若い者たちでいようにおやりなさいと。


 永久子は茶の乗った盆を持たされて廊下に立ち尽くしながら、それが一番困るのだと途方に暮れた。


 確かに門戸を潜った彼を見た時は、遠目ながらに好青年だと思った。しかし、それだけだった。元々結婚に気がないのだから、いっそ筋書き通りに周りがどうにでもしてくれた方が余程良かった。彼の釣書も、永久子は斜めに読んですぐ伏せたというのに。


 それでも台所で女中から、彼は手伝いに来てくれたのだと聞いた時、彼女は感情的に逃げ出した己を恥じた。


 聞けば、彼は母の葬式にまで参列してくれるという。そんな人を一方的に嫌って、挨拶もせず引っ込んでしまって、どうにも決まりが悪い。そんなものだから案の定、会話など全く弾まなかった。


 どころか、彼はさっさと茶を飲み干すと早々に腰を上げてしまった。本当に自分は彼と結婚をするのだろうか、大丈夫なのだろうか。彼女は小さく溜息を吐きながら、一つも想像のつかない未来を憂いた。

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