第19話 叫び

 東宮御所・北の御殿。狩衣姿の美緒は、東宮妃・華奈と対峙していた。

「それがあなたのいつものお姿なのね」

 華奈は相変わらず艶然と笑んで、美緒の装束を舐めるように見た。

「こちらの狩衣には、犬や猫の匂いや毛はついておりませんから、どうぞご安心ください」

 美緒がそう言うと、華奈はふふっと破顔して、

「それはどうも。で、今日は何をしにここへいらしたの? まさか凛々しいそのお姿をわたくしたちに見せて、心を慰めてくださろうなどと言うわけではないでしょう?」

と言った。

 美緒はかぶりを振って華奈を見据えた。

「いえ、お妃様にお伺いしたいことがあって参りました。

 先日、東宮様が方違えのためにお妃様のご実家である右大臣様のお屋敷にお出かけになられたのは、ご存じですね」

 右大臣、と言う言葉が出た途端、その場の空気は一瞬にして緊張感に包まれた。華奈は手にしていた扇を広げて顔の鼻より下を美緒から隠した。その目は微笑んだままだが、瞳の奥にちりちりと赤い炎のような怒りが閃く。

「その際に、お屋敷の中をさまよう少女の声が聞こえました。不思議なことに、少女の泣く声ばかりが聞こえ、その姿は見えません。

 そして、その少女は自らを『華奈』と呼んだのです」

 華奈の扇を持つ手がわずかに震えた。美緒は続ける。

「右大臣様のお屋敷には、お妃様の他に『華奈』という名の姫君がいらっしゃるのでしょうか。それとも、側仕えの女童めのわらわだったのか……

 お妃様は、何かお心当たりはないですか?」

 華奈は叩きつけるようにして扇を閉じ、毅然とした態度で言った。

「さあ、そのような女童など、わたくしは知りません。おおかた、屋敷の近くをたまたま通りがかった子どもの声でも聞こえたのでしょう。

 お聞きになりたいのはそれだけでしょうか」

 華奈の顔色をじっと見ていた美緒は、一層淡々とした調子で、

「そうですか。それにしても奇妙な声でした。

 すすり泣きながら、その声は繰り返しこのように言うのです。

 『母さま、助けて』と——」

 その時、華奈は崩れるように前のめりに倒れ、怒りと苦しみのこもった目で美緒を見上げると、

「気分が、すぐれぬ。出ていかれよ……」

とうめくように言った。

 御簾の向こうにいた女房たちが部屋の中になだれ込むように入ってきて、華奈を支えたり、背をさすったりしている。

 美緒は静かに立ち上がり、華奈に背を向けて退出しようとしたが、ふと思い出したように、

「そういえば、右大臣様にお仕えしている異心いしんとかいう法師、随分と呪術に通じているようでしたね」

と呟いた。

 華奈がいる方から、ぐるるる、と獣が唸るような声がした。美緒は振り向くことなく北の御所を後にした。

 美緒が北の御所と本殿を結ぶ渡り廊下を歩いていると、北の御所から、ぐうおーーーん、と、獣のような叫びが聞こえた。まるで、猟師の矢を受けながらも死ぬことができないでいる獣の、怒りのような叫び。美緒は北の御所の方を振り返り、悲しげに目を閉じた。


 その夜。本殿の東宮の寝所近くに、闇に紛れぬるぬると動き回るいくつもの影が忍び寄っていた。足音もなく、護衛の舎人の目を盗んで寝所の前まで迫ったその影が、寝所の御簾を押し上げようとしたその時——

「わんっ」

 低く短い犬の鳴き声が聞こえ、それとほぼ同時に熊ほどの大きさもある巨大な白銀の毛の猫が東宮の寝所から飛び出した。そうして、獣のような影の一つに噛みつき、あるいは他の影を前足の鋭い爪で切り裂いて、「ふーっ」とあたりを睨み回した。

 大猫の一撃を逃れた影たちは一目散に逃げ散ったが、これまた巨大な真っ黒の犬が疾風はやてのような速さでそれを追いかけ、首筋に食らいついた。

 行光と美緒が松明を手に現れた時には、大犬と大猫の足元に六、七匹ほどの銀色の毛の狐が息絶えて倒れていた。

 美緒はその一匹を持ち上げると、

「狐、でしたか」

と呟いた。そして大きな犬と大きな猫の額に指を当てて、何やら呪文のようなものを唱えた。すると大犬と大猫は見覚えのある黒い犬と白い猫の大きさに戻った。二匹とも身体中についた狐の返り血が気になるのか、しきりに体を震わせたり、毛繕いをしたりしている。

 行光は深くため息をついた。

「もはや、猶予はない、ということですね」

 美緒は頷いた。

「覚悟を決めねばならないようです。すぐに陰陽寮に使いをやり、支度させます」

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