第20話 決戦

 その日、夜も明けぬうちに、使いの者が東宮御所から右大臣家へと走った。

 右大臣はその使いからの一報を聞くと、少しの友のみを連れ、まるで待ちかねていたように東宮御所へと急いでやってきた。


 東宮の寝所は、御簾の内から聞こえてくる祈祷の声だけが響き、側仕えの者たちはそれぞれに顔を伏せ、あるいは着物の袖で顔を隠してうだれている。

 廊下からどかどかという足音とともに、右大臣のけたたましい声が聞こえた。

「東宮様がご危篤とのこと、いてもたってもいられず、この右大臣、急ぎ馳せ参じました!」

 右大臣の後ろには例の通り法師の異心が付き従い、黄色い歯を剥き出しにしてにやにやと笑っている。

 右大臣が東宮の寝所に入っていくと、東宮妃の華奈姫が深々と頭を下げたまま、声をかけた。

「父上。東宮様のお見舞い、いたみいりまする。我ら皆こうしてご快癒をお祈り申しておるところでございます」

 右大臣は、うむ、と頷いたのち、華奈姫にそっと耳打ちした。

「なぜ仕留めきれなかった。我らが来たからには、わかっておろうな」

 華奈姫は顔を伏せたまま、一層深く頭を下げた。

「これは右大臣様。このような朝早くにご足労いただき恐れ多いことでございます」

 行光が東宮の寝所にやってきて、右大臣に挨拶した。右大臣は薄笑いを浮かべて、

「実は、我が家に使える優れた陰陽法師を連れてまいりました。このものが祈祷を行えば、東宮様のお患いもたちどころに消え失せましょう。ささ、異心、行って祈祷して差し上げろ」

 右大臣が言い終わらぬうちに、異心は立ち上がって東宮が伏せっている御簾の方に歩み寄り、中に押し入ろうとした。老人にも関わらず、その動きは俊敏で、行光が振り向いた時にはもう御簾に手をかけ、押し上げようとしていた。

 その瞬間、御簾の中からピイイーンと鋭い音がして、何かが飛び出し、異心はそれを避けようとして足を取られ、転んで尻餅をついた。

 床に倒れ込んだ異心に向かって、御簾の中から出てきた人物が弓を構え、狙いを定めた。その瞳は厳しく、怒りに満ちている。

「だ、誰だ!?」

「わたしは陰陽寮の陰陽師、鴨居美緒。右大臣および陰陽法師異心、東宮様への謀反の企て、すべて明らかである!」

 美緒が手にしているのは、矢をつがえていない空の弓だが、どうしたことか、その弓を向けられた異心は身動きできずにいる。右大臣が焦って御簾を引きちぎると、中には大人の男ほどの大きさの人型をした藁人形と、それに向かって祈祷する一人の男がいた。

 驚く右大臣に向かって、男は祈祷を続けながら振り返り、立ち上がると、右手の人差し指と中指で右大臣の額をそっと撫でた。すると、右大臣は仰向けにひっくり返り、目をかっと見開いたまま、倒れて動かなくなってしまった。

「兄上!」

 美緒は晴平に向かって目配せした。

 異心は美緒に睨まれたまま、口を開いた。

「なるほど、見事な術だ。東宮がここにいると、まんまと思い込まされたわい。しかしお主ら、陰陽師と言っても所詮小娘と若造であろう。わしはこの程度の苦境ならいくらでも逃げおおせてきたわ」

 異心はそう不敵に笑いながら言うと、

「尾花! わかっておるな! こいつらを始末し、東宮を探し出して息の根を止めろ!」

と、東宮妃に向かって叫んだ。

 俯いていた東宮妃の体は震え、耳は鋭く伸び、目は吊り上がり、口は大きく裂けた。全身から金色の毛が伸び、それが逆立って、体が大きくなったように見えた。もはや美貌のお妃の面影はなく、巨大な金色の化け狐の姿となり、その目尻からは真っ赤な血の涙が溢れている

「ぎゃおおおおおおん!」

 妖狐は、悲しみとも苦しみとも怒りとも取れる、けたたましい叫び声をあげた。金色の毛からは、ばちばちと雷雲のような音が聞こえる。

 晴平は腰に佩いた剣を構えた。美緒の袖からは、犬の黒と猫の白が飛び出し、巨大な山犬と真っ白な虎の姿となって、妖狐に牙を剥いている。

 妖狐はグルグルと唸りながら美緒を睨みつけている。もはやその正体を隠す必要がなくなった妖狐が放つ妖気は凄まじく、美緒は対峙するだけで押し戻されるような感覚を覚えた。しかし、この殺気を前にして、少しでも隙を見せたら、あっという間に首を噛み切られでもして終わりだろう。

 美緒が静かに腹に息を溜め、妖狐に向かって霊気の矢を射かけようとしたその瞬間、妖狐は高く飛び上がり、その鋭い牙を、まっすぐに美緒の首元に突き立てた。

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