第17話 あなたが欲しい

 美緒は、東宮から少し離れたところに座した。東宮はそれを見て寂しそうに微笑んだが、すぐにまた夜空を見上げ、手に持った扇で星々を指した。

「美緒殿と、星を見てみたかったのだ。陰陽師の美緒殿には、この光のすべてに、意味が見えるのであろう」

 二日月は糸のように細く、その光に隠されることのない星々は、満天に輝いている。

「陰陽の道は国家に関わる一大事を予見するためのもの。東宮様とはいえ、その秘術を軽々しくお教えするわけには行かないのですよ」

 そう言いながら美緒は、ふふふ、と笑い出した。

「本当のところ、天文を使った占術は、難しすぎてわたしもよく説明できないのです。陰陽寮でも、一つのことを占うのに十人近くが寄ってたかって日輪や星の位置を調べ、たくさんの書物をひっくり返して、それでもわからずに頭を抱えて……

 そういうことの繰り返しです」

「美緒殿は、ご自分のお仕事がお好きかな」

 東宮が問う。

「そうですね…… 不思議と、幼き頃から陰陽師として生きると、決めて生きて参りましたから……

 父も母も、女だからと止めもせず、わたしの好きなように学ばせてくれました。

 今は、このように誰かに頼りにされ、皆をお守りできることが、嬉しいと日々思います」

 東宮は、優しい目でそれを聞いていたが、すっと腰を浮かせ、美緒のそばに座り直した。そして、美緒の手に、そっと自分の左手を重ねた。

「昨夜のわたしの振る舞いのせいで、行光に小言を言われてしまったのであろう。

 あれは、そうだな……非常に優しい男なのだ。わたしのことも、美緒殿のことも傷つけたくなくて、あのように言うのだよ。

 だが、わたしは、周りが思うような、善い男ではない」

 そう言うと、東宮は右手を美緒の頬に添えて、そして、美緒の唇にそっと口づけをした。

「あなたが欲しい。あなたから、その生きがいを奪うことになったとしても」

 東宮の眼差しは、見たことがないほどに、意思に溢れていた。美緒の目から、不意に熱い涙がこぼれ落ちた。

「……ただ、お寂しいのではなくて? 犬や猫を愛でるようなお気持ちで、わたしに触れられるのであれば、きっとそれはひとときのこと。もっと他にお妃や御側室に相応しい女君がいらっしゃるはず」

「寂しいさ、それは。家族と呼べるものも近くにはおらず、お妃もわたしの命を狙っている。

 だが、そんなことが、わたしのこの気持ちを説明できるとは思わない。

 幼い頃から、ただ父帝ちちみかど母后ははきさきのお心に叶う、よい皇子みこであろうと努めて生きてきた。

 そのわたしが、心から今望んでいるのだ。美緒、あなたが欲しいと。あなたに触れていたいと」

 そう言って、東宮は美緒の体に腕を回し、強く引き寄せた。もはや、それに抗おうという気持ちは美緒にはなかった。美緒の心には、感じたことのない温かな幸福と、地に落ちるような不安が渦巻いていた。


 誰かがゆっくりと近づいてくる気配を感じて、東宮は美緒から体を離した。二人が慌てて装束や髪を取り繕っていると、東宮の乳母である尼御前あまごぜが東宮のそばにやってきて、腰を下ろした。

 尼御前は東宮の背に手をやり、愛おしむようにとんとん、とその背を叩いた。

「見つけてしまったのですね、宮様は。ご自分のほんとうのお心を」

 そして美緒の方に向きなおり、意味ありげにうなづいた。美緒は思わず深く頭を下げた。

「さ、行光と美緒殿の兄上が首を長くして待っておりますよ。行光は心配性ですから、悟られぬように二人とも涙を拭いて行かれませね」

 そう言って尼御前は自らの衣の袖で東宮と美緒の目を順に拭った。


 寺の本堂に蝋燭を灯して、行光と美緒の兄——晴平はるひらが座って話していた。

「すまない、美緒殿に星の見方を教えてもらっていてね」

 東宮がやけに明るく言いながら入ってくると、行光は少し眉を顰めたが、すぐに普段通りの表情に戻った。

「今日の間に晴平殿が右大臣家の陰陽法師について調べて下さったそうです」

 行光が目配せすると、晴平が話し始めた。

「と言っても、わかったのはわずかなことばかりだがな。

 この頃まで右大臣家に仕えていた下男に話を聞いたところ、例の陰陽法師は異心いしんと言って、二年ほど前から右大臣の側近く使えるようになったという。その二年前というのがちょうど、右大臣家の側で下級貴族の男が死んだ、その頃だというのだ」

 美緒と行光、そして東宮はお互いに顔を見合わせた。

「その頃から右大臣殿の様子がおかしくなったと、下男は言っていた。どこに行くにも異心を伴い、いつでも異心が何かを右大臣に耳打ちしている。おかしなことはそれだけではない。

 関白であった父上と度々諍いを起こすようになり、それは一年前に関白殿が亡くなるまで続いた。

 そして最も奇妙だったのは——」

 晴平は声を低くして言った。

「一の姫がお屋敷から消えたというのだ」

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