第11話 獣の匂い

 次の日の朝、美緒が目覚めると、女房装束の一番上に着るうちきの上で犬の黒と猫の白がすやすや寝ていた。

 美緒が着替え終わる頃、行光の使いの少年が、美緒が書いた陰陽寮あての文を預かって、届けに行った。美緒の見立て通りなら、今日中には返事が来るだろう。何せ相手は真面目を通り越して、神経質極まりない人物なのだから。

 美緒を北の御殿に送りに来た行光は、少し面食らった顔をした。美緒の着ている着物には、ところどころに短く黒い毛と、長く白い毛がくっついている。

「あの…… よければ代わりの着物を用意いたしましょうか」

 そう言う行光に、美緒は不敵に笑って、

「いいえ、これでいいのです」

と言った。

 前日と同じく、渡り廊下のところで行光と別れて北の御殿に入った。今日は嵯峨野の出迎えはなく、美緒一人で見張りの女房がいる小部屋を通り過ぎる。見張りの女房は今日もこうべを垂れて美緒を出迎えたが、美緒が女房に向かって一歩踏み出すと、

「きゃっ」

と声をあげて、急いで北の御殿の中へ駆け入った。

 すると、北の御殿の中から女房たちが大騒ぎする声が聞こえ、どたどたと足音がして、顔面蒼白の嵯峨野が着物を抱えた女房を従えて出てきた。

 嵯峨野は髪を振り乱しながら、

「すぐこちらの着物に着替えていただきますっ」

と叫び、女房たちは瞬く間に美緒の袿を脱がせ、持ってきたものに着せ替えた。

「嵯峨野様、脱がせたこちらの着物はいかがいたしましょう?」

 と、女房たちが焦りながら尋ねると、嵯峨野は

「こんなもの、御殿の外に放り出してしまいなさいっ」

といきりたっている。

 当の美緒は平気な顔で、

「あら、こちらの着物は東宮様からお借りしているものですから、そんなふうに扱うわけにはいけませんわ。こちらの御殿で預かっていて頂かなくては……」

と宣う。嵯峨野は、蒼白だった顔を今度は真っ赤にして、

「こんなものをこの御殿にはおいては置けません! 行光殿を呼んで、持っていってもらいますっ」

と叫んだ。女房の一人が大慌てで行光を呼びにいき、きょとんとした顔の行光がやってきた。

「美緒殿の着物を、持っていって欲しい……ですか。見たところ、さして汚れたり破れたり、ということは無さそうですが……」

「こんなものっ、こんな獣くさいものっ、置いておけますかっ」

 嵯峨野はもはやなりふり構わず着物を行光に押し付けて御殿から追い出そうとする。

「申し訳ありません、嵯峨野殿。わたしが目を離した隙に、うちの犬と猫が、この着物の上で眠ってしまったのです。東宮様からお借りしている上等な着物だけあって、寝心地が良かったのでしょう」

 美緒はそう言って行光を振り返り、

「すっかりご迷惑をかけてしまったようなので、本日はもうお暇しますわ。ねえ、行光殿」

と微笑んだ。行光も何かを察した様子で、

「そうですね。美緒殿、参りましょうか」

と、美緒と共に北の御殿を後にした。

 美緒は部屋に帰ると、黒と白をたっぷりと撫で回して、

「黒と白のおかげで上手くいったよ! ありがとう」

と言った。

 行光も黒と白の鼻先に指を近づけながら

「そろそろ種明かしをしていただけませんか、美緒殿」

と尋ねた。

「昨日、北の御殿では着物を着替えるように、と言われたことが、ずっと引っかかっていたのです。この着物は東宮御所からお借りしたもので、わたしは細工など何もしていませんし、至って普通の——いや、普通の着物と言うには上等すぎる着物ですが、ともかくおかしいところは何もない着物です。では、北の御殿の方々はなぜそんなことをおっしゃったのでしょうか?

 わたしがこの東宮御所に来てからこの着物を着てしたことといえば、東宮様へ挨拶をしたことと、そして」

 美緒は愛おしそうに黒と白を見つめた。

「この部屋でこの子達と過ごしたこと、くらいですね」

 行光は何かを察したように頷いた。

「そこで、今度はこの子達の毛や匂いを、たっぷりこの着物に付けてみることにしたのです。と言っても、この子達はとってもきれい好きですから、行光殿からしたら、毛はともかく、匂いはあまり気にならないのではないですか?」

「確かに、この着物に近づいてみても、獣くさいとは思いませんね。しかし、嵯峨野殿はあの時——」

とおっしゃいました」

 行光と美緒は目を見合わせた。そこに、部屋の外から

「美緒様、陰陽寮から文のお返事でございます」

と、少年の声がした。

 行光が少年から文を受け取ると、美緒はにっこり笑って、

「こちらも来ましたね」

と言った。

「美緒殿、その文には何が書かれているのでしょう?」

 行光が尋ねると、美緒は文を読みながら言った。

「それは今夜、東宮様に種明かしをするといたしましょう」

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