第10話 東宮の夢
「ほう……」
東宮の顔から笑顔が消えた。
「何ゆえそのように感じた?」
東宮の問いに、美緒は淡々と答える。
「まず、やはり北の御殿の方々の警戒心は只事ではないと感じました。わたしの一挙手一投足を、皆が見逃すまいとしているような異様な緊張感がございます。お妃様の子ども時代のことを考えに入れたとしても、嵯峨野殿や女房たちがまるで北の御殿からわたしを追い出そうとするように振る舞うのは、何か他の理由があるのではないでしょうか。この度の怪異は、事によってはお妃様や他の女房たちも危ない目に遭うかもしれないのに、なぜここまで調べを拒むのでしょう」
なるほど、と東宮は頷く。
「それから、匂い、です」
「匂い?」
東宮は意外な顔をした。
「北の御殿、そしてお妃様からは、強い香のような匂いがいたしました。よい香りではありますが、これももしかすると何かを隠すためのものやもしれません」
東宮と行光は顔を合わせた。
「強い香り……か。わたしが婚礼の夜に妃と座を並べた時には、そのような香りは感じなかった。行光は、時折北の御殿の渡り廊下まで使いに行ってくれているが、どうかね」
「わたくしも、今まで北の御殿からそのような匂いを感じたことはありません。お妃様は、今日美緒殿とお会いになる時だけ香を焚きしめていらっしゃったと言うことなのでしょうか」
美緒は東宮と行光の言葉に考え込んだ。普通であれば、香を纏うのはむしろ恋人や夫のような相手に会う時ではないだろうか。美緒に会うのに香をあんなに焚きしめる必要はない。行光の言うことが本当なら、北の御殿で日常的に強い香が焚かれていると言うわけでもなさそうだ……
あ、と声を出して、美緒は顔を上げた。
「もしかしたら、と思うことがあります。明日の朝に、陰陽寮まで文を出したいのですが、お願いできますか」
「構いません。使いを用意いたしましょう。何か、手がかりがありそうなのですね」
行光は微笑んで答えた。
「しかし——」
東宮は物思いするように、庭の池に映る月へ目をやった。
「北の御所の者たちが何か隠している、とするなら、やはり右大臣はまだわたしのことを——」
「東宮様、今はあまりそのことをお考えになられぬ方がよいかと」
行光は心配そうに東宮に声をかける。
「そのこと、とは?」
東宮は悲しげな目で美緒を見た。
「右大臣殿は、わたしが東宮であること、すなわち次の帝となることに、まだ納得がいっていないのかと思ってな」
「そんな、だって姫君をお妃様としてお輿入れなされたのですよ。普通ならば、舅として親しくするのがその家の利となるのでは……」
美緒は訝しげに聞き返す。
「わたしもそう思っていたのだが……
わたしが東宮に決まる前、右大臣はわたしではなく、右大臣の姉が産んだわたしの弟宮を東宮に望んでいたのだ。わたしの母は右大臣家とは血のつながりのない内親王だからね。しかし、父上は皇后である母が産んだ長子であるわたしを東宮にお決めになった。
その後、右大臣は今度は娘の華奈姫をわたしに嫁がせる、と申し出てきたのだ。
わたしや父上、母上、他の大臣たちは、これでわたしと右大臣家とのわだかまりがなくなるならありがたいこと、と受け入れたのだが……」
美緒は、かける言葉が見つからず、寂しい表情の東宮の横顔を見つめることしかできなかった。美緒が戸惑っていることに気づいたのか、東宮はわざとらしく笑って、
「わたしも、本当なら東宮などというややこしい身分は捨てて、諸国を旅でもして暮らしたいのだがね」
と言った。
「東宮様、そのようなことお言いになるものではありません」
「すまない、行光。だが、美緒殿の前なら、構わぬ気がしてな」
行光は困り顔だが、東宮は空を眺めながら話し続ける。
「この
「しかし、この国には、東宮様のような聡明な帝が必要なのではないですか」
美緒がそういうと、東宮は一際優しい表情で、美緒を諭すように言った。
「わたしはそうは思わない。王や帝が聡明でなければ治まらぬ国は、いずれ滅びる。西の大陸には、優れた賢帝が治めた国の伝説が、いくらもあるが、そのどの国も残ってはおらぬ。王や帝の才ではなく、つつがなく国が治まる仕組みの方が、はるかに肝要なのだ」
美緒が驚いた顔をしていると、東宮はからからと声を立てて笑った。
「しかし、これをわたしが言うと、ただ自らの才のないことの、言い訳のように思われるだろうが……」
そしてまた東宮は寂しそうな表情に戻り、
「とはいえ、
美緒は、たまらなくなって、東宮の手を握り、強い調子で言った。
「ではその東宮様のお役目を、この美緒が、必ずお助けいたします」
東宮は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに優しい微笑みに戻って、
「ありがとう、美緒」
と、言った。
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