第9話 初めての気持ち
「関白の孫娘が、童女でありながらその美貌で一人の男を死なせた、と言う噂は、形を変えながら都を駆け巡りました。わたくしが男を誘惑したとか、男は前世からのわたくしの運命の人であるとか、男の亡霊が今でもわたくしに取り憑いているとか」
華奈は、美緒の手を取り、慈愛に満ちた目で言った。
「美緒殿なら、わかってくださると思います。わたくしの家族や女房たちが、わたくしを守るために、どれほどの苦労をしてきたか。そして、お優しい東宮様も、きっとわかってくださっているはず」
華奈は、女房を呼んで、文箱を持ってこさせた。螺鈿で飾られた美しい蓋を開けると、中にはたくさんの文と、乾いた花々が収められていた。
「東宮様は、こうして毎日のように文をくださいますし、もちろんわたくしもお返事を差し上げています。同じ東宮御所にいながらお会いできぬ日々が続いておりますが、東宮様の深いお心は、わたくしに伝わっておりますと、美緒殿からもお伝えしていただけますか」
華奈の瞳の奥に、わずかに勝ち誇ったかのような光が灯ったように、美緒は感じた。なぜだろう、胸の奥がわずかに、きゅっと痛んだ。美緒はその顔を華奈に見られまいと、深く頭を下げた。
「お妃様のお心、よくぞ聞かせていただきました。恐れ多いことでございます。この美緒は女の身でございますから、北の御殿にてお妃様をお守りすることができます。必ずや、この怪異の源を断ち、東宮様とお妃様が仲睦まじうお過ごしなされますよう……」
そう話しながら、美緒の心は乱れに乱れた。この美しいお妃と、光り輝く東宮様が仲良く寄り添う姿を想像すると、声はつまり、目は熱くなった。
「では、わたくしは失礼します。明日からも、何かお困りのことがあれば、おっしゃってくださいね。ああそれから、明日からは美緒殿が北の御殿にいる間は、こちらで用意した装束に着替えていただきます」
華奈はそう言って部屋を出て行った。美緒は嵯峨野に追い立てられるように北の御殿を後にし、自分の部屋へと戻った。部屋に入るなり、犬の黒と猫の白が美緒に駆け寄り、心配するように足元に座った。
「黒…… 白…… 本当に、大変なところに来ちゃったね……」
座り込んでため息をつく美緒の手の甲に、白が優しく頬を寄せた。黒は立ち上がって美緒の肩に前足を置き、涙を拭うように美緒の目元を舐めた。そこで初めて自分が涙を流していることに美緒は気づいた。なぜなのか、自分でも皆目わからなかった。華奈の身の上話を聞いたからなのか、それとも——
「美緒殿、美緒殿」
気づくと、部屋の外から行光が美緒を呼んでいた。返事をすると、戸が開き行光が部屋に入ってきた。疲れ切った美緒を見て、心配そうに行光は声をかけた。
「お加減がすぐれないのですか、美緒殿。東宮様がお呼びなのですが、今日はこのままお休みになっても……」
「いえ、参ります。申し訳ありませんが、湯を一杯いただけますか。それを飲んだら、東宮様に今日のことをお話に必ず参りますから」
「そうですか。すぐに湯を持たせます。東宮様にはうまくお伝えしますので、落ち着いたらおいで下さい」
なおも心配顔の行光が出ていくと、美緒は衣と髪を急いで整えた。まもなく、少年が椀に入った湯と、温かい甘酒を持ってやってきた。甘酒を口に含むと、体が温まり、心も落ち着くような気がした。行光と言う人は、人が今必要としているものが、その人自身よりもよくわかる人なのだなと、美緒は感心した。
月見台へ行くと、昨夜と同様に、東宮が脇息にもたれてくつろいでいた。その横に置かれたしとみに、美緒は今夜は素直に座ってみることにした。すると、思っていたよりも東宮との距離が近く、お互いの体温さえ伝わりそうで、美緒は戸惑った。しかし、座ってしまった以上、また距離を取って座り直すと言うのも、変だろう。美緒はどぎまぎしながら東宮の方を見た。
東宮は優しい瞳で、美緒を見つめていた。
「すまないね。今日は随分疲れさせてしまったようだ。華奈は、元気だったかな?」
労ってもらった嬉しさと、夫婦らしい親しさで東宮が華奈の名を呼んだことへの戸惑いで、美緒は俯いた。東宮はそれを肯定のしぐさだと受け取ったようだ。
「それはよかった。輿入れの夜以来会うこともできておらず、彼女にも迷惑をかけてしまっている」
「お妃様は、東宮様がくださるお文を、大層喜んでおられました。お心は届いていますと、言伝を伺っております」
美緒がそう言うと、東宮は月を見上げて、
「心、か」
と、言った。
「それで、北の御殿について、何かわかったかな」
美緒は、華奈の少女時代の事件について話した。
「そのことは、わたしも少しばかり耳にしていたが、そのように凄まじいことだったとは。華奈や女房たちもわたしや行光たちには直には言いにくかったであろう。美緒殿がいてくれて助かった」
「しかしながら——」
美緒は、まっすぐに東宮の目を見据えて言った。
「やはり、北の御殿の方々は、何かを隠しているように、わたしには思われます」
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