第8話 雪の日の訪問者

 美緒はしばし思案してから、慎重に口を開いた。

「さすがは東宮様のお妃様。人の心を動かすことに、長けていらっしゃるのですね」

 ここは回りくどいやり方は得策ではない。素直にこの御殿の女主人とぶつかり合おう、と美緒は思った。

「あら、随分意地悪な言い方をなさるのね。でも、そのように言われるのは慣れていますのよ。みな、わたくしを悪女と言ったり天女と言ったり、随分勝手なことだわ」

「申し訳ありません。わたしが知りたいのはお妃様のまことのお心です。そのためには、わたしも嘘偽りのない言葉でお話しせねばと思いました」

 ほう、と華奈は感心したように息を吐いた。

「なるほど。ではお望みの通りにいたしましょう」

 そう言って、華奈は椀の湯を一口含み、ゆっくりと飲み下した。

「あなたは、わたくしたちがこの北の御殿のことを東宮様たちにひた隠しにしていると、そう思っているのでしょう? 後ろ暗いことがあるから、隠すのだと。本当のところは、そのようなことはないのですよ。みな、ただわたくしを、と必死なのです」

「……守る? 確かにお妃様は高貴なお方、お守りせねばならぬのは道理ですが、味方であるはずの東宮様の側仕えのものからも遠ざけるのは、どういうわけなのでしょう」

 美緒が尋ねると、華奈は寂しげに笑いながら、話し始めた。

「それは、わたくしがまだ裳着もぎもすませぬ女童めのわらわだった頃のことです——」


「ある日、我が家のお屋敷に、ある下級貴族の男がやってきました。その頃は関白であったお祖父様に、仕事を世話してもらおうとやってきたのです。そういう人がやってくるのは、我が家では珍しいことではありませんでした。

 その日、わたくしはお屋敷のお庭で、妹たちや乳母、乳母の子たちと虫を追ったり花を摘んだりして遊んでおりました。お祖父様は屋敷の中からその様子をご覧になりながら、お酒を召し上がっていたそうです。そこに、くだんの下級貴族の男がやってきて、お祖父様へのお願いを述べ始めたそうです。しかし、気がつくと男は突然話すのをやめて、わたくしたちが遊んでいる庭の方に目をやっていました。そして、やおら立ち上がると、ふらふらとわたくしたちのいる庭の方に向かって歩き出したそうです。

 驚いたお祖父様が家人を呼び、男はすぐに屋敷から追い出されました。その日は、屋敷のものたちも、妙な者もいるものだと噂するくらいで、対して気にも止めていなかったそうです。しかし——次の朝、その男がまた屋敷にやってきたのです。

 門番も、前の日のことを聞いていますから、その男が追い出された男であるとわかると、追い返そうとしました。すると、男が妙なことを喚きながら、門の前に突っ伏して、頭を地面にぶつけはじめたのです。

 その男は、一の姫——つまりわたくしですね——を妻にもらいたい。できぬのならば、ここから動かぬ、と言うのです。

 驚いた門番は、すぐさま屋敷のものたちに報告し、そのことはお祖父様やお父様の耳にも入りました。家人たちが変わるがわる男に帰れと声をかけたり、遂には無理やり数人で遠くの方へ運んで行ったりしましたが、男は何度でも屋敷に戻ってきて、同じことを繰り返します。そうして、日が暮れて辺りが真っ暗になった頃、やっと男はすごすごと帰ってゆきました」

 美緒は話を聞いて絶句した。一目見ただけの童女に執着してそこまでするなど、恐ろしいと言うほかない。

「疲れ果てた屋敷のものたちは、やっと終わったかと安堵いたしました。しかし、終わりではありませんでした。男は次の日もやってきて、また同じ様に地に伏せ、一の姫を妻にくれと叫ぶのです。その声は凄まじく、お屋敷の中のわたくしたちにも聞こえるほどでした。それが、明くる日も、また明くる日も続くのです。結局何日続いたか、お分かりになるかしら?」

 美緒は、小さく首を横に振った。華奈は、遠くを見るような目で、

「千日です。ちょうど千日」

と、言った。

「千日目は、その冬の初めての雪の日でした。ひどく冷えて、屋敷の門番も藁の蓑を身につけ、さあ今日もあの男が来るかと待ち構えておりました。しかし、その日、男は来なかったのです。屋敷のものたちは、驚きながらも安堵いたしました。男が通ってきていた日々は、皆にとって地獄のようでしたから…… 検非違使に頼んで牢に入れてもらおうとしても、ただ尋ねてくるだけではどうにもできないと言われ、皆参っておりました

 しかし、一人の家人が文を他の屋敷へ届けに行った帰りに、屋敷に向かう道の途中で妙なものを見つけました。雪の中に、どうも人くらいの大きさの盛り上がりができていたのです。その家人が恐る恐る雪を掘り返すと、そこには息絶えた件の男が倒れていたのです」

 美緒の口から、思わず「ひっ」と言う声が漏れた。華奈は、高杯たかつきから干し棗をつまんで口に入れ、ゆっくり噛み砕いて、飲み込んだ。

「……屋敷の者たちは、恐れ慄きました。お母様など、半狂乱になって、なぜこうなる前に捕らえて追放しなかったのかと、お父様に縋りついて泣きました。乳母もわたくしをひしと抱きしめたまま、震えて泣いておりました。後から聞いた話では、お祖父様とお父様はお怒りのあまり、その男の家を焼き払い、亡骸は決して蘇らぬようにと首と体を切り離した上で舌と目と耳をそぎ、山に捨ててしまわれたそうです」

 美緒は、話のあまりの凄まじさに、言葉を失い茫然とした。

「それからのことです。わたくしは、お父様とお祖父様以外の一切の殿方の目に触れることを、禁じられました。お兄様や弟たちでさえ、御簾を隔ててしか話せなくなりました。ですから、東宮様へのお輿入れが決まった際も、夫である東宮様以外の殿方とは、決して会ってはならぬ、話してはならぬ、と言うことが取り決められたのです」

 華奈は、満面の笑みで美緒を見つめ、言った。

「これで、なぜこの北の御殿に殿方を入れることができぬのか、お分かりいただけたでしょう。どうぞ、東宮様の側仕えの皆様にも、よろしくお伝えくださいね」

 美緒は、体をこわばらせたまま、しばらくそこを動けなかった。

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