第7話 爛漫たる妃

 その夜、美緒は眠れなかった。怒涛の一日であったのだ、仕方あるまい。こんな大変な場所に送り込もうというのに、陰陽頭たる父上は、どうしてほとんど何も美緒に説明してくれなかったのであろうか。月光に照らされた美しい東宮の横顔や、彼の衣から香った爽やかな匂いが、頭の中をぐるぐると巡っている……

 ちょっと待て、なぜ東宮様のことばかり自分は考えているのか、と、美緒は頭をぶんぶん振った。今重要なのは、この東宮御所で起こっている怪異の原因を解き明かすことだ。明日からは北の御殿で謎多き東宮妃とその女房たちと対峙しなければいけない。

 美緒にくっついて寝ている犬の黒と猫の白の温もりが、今はありがたかった。温かくふさふさしていて、すうすうと寝息に合わせて動く二匹に合わせて深呼吸していると、美緒の瞼は重くなり、そして眠りに落ちた。


「わたしがご案内できるのはここまでです。あとはあちらの嵯峨野殿のおっしゃることに従ってください」

 行光はそう言って、渡り廊下の向こう側に立っている、中年の女房の方に目をやった。嵯峨野と呼ばれた女房は、美緒に向かって慇懃に一礼し、美緒もつられて頭を下げる。美緒は内心どきどきしながら渡り廊下を北の御殿の方へ歩いた。

「嵯峨野、でございます」

 低いながらもよく通るその声に、この女房の厳格な性格が滲んでいる。美緒は怖気て見えぬようにと背筋を伸ばし、

「美緒でございます」

と名乗り返した。

 嵯峨野は女房姿の美緒を頭から足元までじろりと見て、そして

「では、こちらへ」

と北の御殿へ通じる重い木戸を押し開けた。

 木戸の向こうには、昨夜行光から聞いた通り、見張りの女房のための小部屋があった。嵯峨野と美緒が通り過ぎる時には、見張りの女房は深々と頭を下げていたが、その間も横目でじっと美緒のことを伺っていた。

 小部屋の先にやっと北の御殿の本来の入り口があり、嵯峨野が扉の前で「開けよ」と低く呟くと、両の扉がゆっくりと開いた。その瞬間、むっと強い芳香が、まるで壁のように美緒に迫ってきた。上等な香木のような、あるいは満開の花畑のような、華やかだが強烈なその香りに、美緒は一瞬ふらついた。

「どうしました、美緒殿。さあこちらへ」

 足を止めた美緒を急かすように、嵯峨野は御殿の一室に案内した。嵯峨野が去り、四方を御簾で囲まれたその部屋に残された美緒は、至る所から人の気配がすることに気づいた。どうやら、御簾に隔てられた隣室から、女房たちが美緒を眺めては、ひそひそと話しているらしい。

 さて、恐ろしいところに来たものだ、と美緒が思案していると嵯峨野が戻ってきた。嵯峨野は美緒と相対するように座り、厳しい口調で話し始めた。

「あなたが何をしに来たかは、東宮様の側仕えのものから聞いています。我々としても、お妃様の下へ東宮様のお渡りがないのは大変困ったことですので、なんとか解決していただきたいところですが——」

 嵯峨野はふーっとこれ見よがしにため息をつき、

「我々からあなたに話せることなど、何もありません。そう東宮様にお伝えいただけますか。我々はこの頃の事件に何も関わりがございません、と」

と、言った。

 これには、さすがの美緒も困ってしまった。嵯峨野の言葉からは、これ以上自分達に関わってくれるな、という容赦のない態度がありありと伝わってくる。このような人には、懇願も御機嫌取りも通用しない。どうしたものか——

「嵯峨野、そのようにお客様を困らせてはいけませんわ」

 突然、御簾の向こうから、鈴を転がすような美しい声が聞こえた。御簾の向こうの人々がざわつき、嵯峨野までもが

「姫様!?」

と声を上げた。

「御簾をあげてちょうだい」

「いけません、姫様」

「構わないわ、ほら……」

 女房たちが慌てて御簾をあげ、それをくぐるようにして、一人の女性が美緒の前に現れた。その瞬間、北の御殿に入った瞬間香った強い芳香が、再びぶわっと美緒を襲った。

 まるで重いかさねの着物などまとっていないかのように軽やかに、その人は美緒の横に座った。新月の夜空のように真っ黒な髪と、きらきらと輝く大きな瞳、そして薔薇色の唇。顔かたちばかりでなく、仕草や声、言葉まで美しいこの人は——

「華奈と申します。嵯峨野がごめんなさいね。わたくしを案ずるあまり、外の人には厳しくなってしまうみたい」

 嵯峨野は、華奈の言葉に恐縮するようにうつむいている。

「わたくし、この方とお話ししたいわ。誰か、お菓子を持ってきてくれるかしら。東宮様が昨日くださったのが、あるでしょう?」

 女房たちが慌ただしく動く音がした。張り詰めていた空気が、みるみるうちに変わっていく。

「嵯峨野、悪いけれど、少し下がっていてくれる? わたくし、美緒殿と二人でお話ししたいの」

「しかし、姫様……」

「平気よ。どうせ、御簾の向こうで聞き耳を立てているつもりなんでしょう? 何かあったら飛んできてくれるのは、わかっているのだから」

 華奈はふわりと笑って、そして美緒の瞳をじっと覗き込んだ。

「それに、この方はわたくしを傷つけるような人じゃないわ。わたくし、わかるもの」

 嵯峨野は諦めたようにため息をつき、部屋を後にした。数人の女房が高杯たかつきに乗せた菓子と椀に入った湯を持ってきて、華奈と美緒の前に置いた。

 華奈はにこにこと機嫌よく、とりどりの菓子を指で突きながら、こう言った。

「そう、あなたは敵ではない。そうでしょう?」

 美緒は悟った。この場所で一番恐ろしいのは、この美貌のお妃であることを。

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