第6話 夕暮れの獣

 行光ゆきみつの眼の奥に、一際厳しい影が宿った。

「東宮御所の中で、獣が目撃されるようになったのです」

「獣……?」

 美緒は眉を顰めて聞き返した。確かに、都の中とはいえ時には往来には鼠や猫、狸や野犬がいることもあるし、民家や寺社に入り込むこともある。しかし、ここは東宮御所である。周囲には簡単な堀に高い塀、東西南北の門は昼夜常に門番が立っている。庭の池の魚を狙う烏や鷺ですら、屈強な男たちが長い竹竿で追い払うようなところである。もし外の獣が入り込んでも、すぐに見つかって叩き出されてしまうだろう。

「しかも、獣だということはわかっていても、なんの獣か、いえ、その姿かたちも、何匹いるのかすらも、まったく分からないのです」

「見間違い、ということはないのですか? それとも、御所の中のどなたかが買っている猫や犬が逃げ出したとか……」

 行光はかぶりを振る。

「獣を見たのは、一人や二人ではありません。御所の中で働くものたちのうちでも、東宮様のそば近く使えるものから、牛馬の世話をする下男まで、両手で足りぬほどのものが、夕暮れ時に御所の中をものすごい速さで駆けてゆく獣の影や、御殿の屋根の上から目を光らせて見下ろす姿を見ています。それに……」

 行光は、さらに声の調子を落として続ける。

「この御所で飼われている獣は、たった一匹です。いや、たった一匹でした」

 行光の言葉はいやに意味ありげだ。

「お妃様との婚姻の記念に、東宮様は美しい狆の仔犬をお妃様にお贈りになりました。長い毛に黒い模様が映える可愛らしい仔犬で、東宮様がお子様の頃に可愛がっておられた犬のひ孫にあたります。しかし、お妃様は犬や猫が苦手でいらっしゃるということで、結局東宮様がご自分の側に置かれることになりました」

 美緒は、ふわふわで目がくりくりとした、可愛らしい犬を思い浮かべた。しかし、行光がいう通りであれば、その犬はもうこの御所にはいないことになる。

「東宮様はたいそう可愛がられて、この犬も東宮様はもちろん我々側づかえの者にもよく懐きました。まだ幼いながら目立った悪さもしない賢い犬だったのですが……」

 燭台の蝋燭の火が大きく揺らぎ、部屋を照らしていた光が一瞬途切れる。美緒は背筋を寒くした。

「幾人かのものが獣を目撃するようになってから、この犬が、夕暮れになると何もいないところに向かって激しく鳴くようになったのです。まるで、人の目には見えぬ何かを感じとっているように。それは庭の方であったり、御殿の床下であったり、人気のない暗がりであったり、北の空であったり……」

 確かに、獣は人よりもはるかに鋭敏な感覚をもっている。それは匂いや物音だけでなく、妖の気配であったり、何者かの「悪意」であったりといったものにまで及ぶ。だからこそ美緒も犬の黒と猫の白を側に置いて、仕事を手伝ってもらっているのだ。東宮様の飼い犬が、御所の中の異変を感じとってもおかしくない。

「初めは、みな気にしていなかったのですが、十日も続くと気味が悪くなってきました。何より、毎日のように夕暮れ時になると吠えたてる犬を東宮様は哀れにお思いになり…… 原因を突き止めるために、一人の下男が犬の吠える方を調べることになりました。とは言っても、犬の吠える方向にはいつも何もいるようには見えません。調べ始めて最初の数日は当然のように何も見つかりませんでした。ある日、犬が北の御殿に向かって吠えたので、下男は北の御殿の裏手へ様子を見にいきました。いつものように何も見つからないだろうとたかを括っていた我々がその後に耳にしたのは——その男の悲鳴でした」

 その時のことを思い出しているのか、行光の指は微かに震えている。

「驚いて見にいくと、下男が倒れており、もう息はありませんでした。あたりには人の気配も、獣の気配もなく、ひっそりとしていて、それなのに……」

 行光は大きく息を吸い、ゆっくりと

「身体中に、鋭い獣の牙で噛まれた後があったのです。手足など、引きちぎれそうなほどに深くまで傷が及んでいて……」

と、言った。

 美緒は顔を引きつらせた。確かにこの御所には「何か」がいるのだ。美緒が怯えていると思ったのか、行光ははっと目を伏せた。

「このようなお話を聞かせてしまって、申し訳ありません……」

「いえ、陰陽師ですから、恐ろしいこと、むごい人の死にようはいくらでも見てまいりました」

 美緒は努めて冷静に話そうとしたが、喉が乾き、声が掠れる。

「しかし、ここは東宮御所です。父をはじめ陰陽寮の精鋭が結界を張り、また毎日祈祷をして大内裏と同様にお守りしている場所です」

 美緒はきっぱりと顔をあげ、行光を見つめた。

「わたしは不甲斐ない。東宮様をはじめ、都の方々をお守りするのがお役目なのに、このような事件が起こってしまった。なんとしてでもわたしが原因を突き止め、東宮様をお守りします」

 行光は驚いた顔で美緒を見て、そしてひと時固まり、ふっと破顔した。

「なんと頼もしい。わたくしは美緒殿を見くびっていたようです。ご無礼をお許しください」

「あ、そういえば、その仔犬はどうなったのですか?」

「事件の後、さすがに御所に置いておくのは憚られると、さる寺へ引き取っていただきました。その寺から貰った文では、寺に来てからの犬は元気にしており、夕暮れに激しく鳴くこともなく、寺の者に可愛がられて暮らしている、ということです」

「ほっとしました。が、すなわち、犬は御所の中にいる『何者か』に向かって吠えていた、ということがはっきりしたのですね」

 行光は頷いた。

「さて、すっかり遅くまで美緒殿を付き合わせてしまいました。明日は朝から北の御殿に行っていただきますから、もうお休みください。それと……」

 行光は燭台の火を手燭に移しながら、にっと目を細めて言った。

「東宮様は、美緒殿とお話しなさるのを、なかなか楽しみにされているようですよ」

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