第3話 月見台の男
あくる朝、夜着の袖を何かに引っ張られて、美緒は目覚めた。外から差し込む光はまだ淡く、夜明け前であるようだ。
「……まだ日も上ってないじゃない。なんでこんなに早く——」
袖を引っ張っていたのは、頭のてっぺんから尾の先まで真っ黒だが、額に星のような白い点がある、仔犬であった。寝起きで不機嫌そうなご主人を見上げながら、なぜか満足げな様子である。その顔を見て、美緒は思い出した。
「そうだった、準備しなきゃ……」
ちょうどそこに、今度は輝くほどに真っ白な毛に全身を覆われた猫が、これまた自慢げな顔で美緒のもとにやってきた。続いて、大量の着物を重そうにもった女が二人、部屋に入ってきた。どうやら白い猫は、自分が二人を呼んできてやったのだからほめろと、美緒に要求しているようだ。
「黒、白、ありがとう。はあ、憂いなあ……」
美緒がそう嘆息すると、着物を持ってきた女のうち、若くてふっくらしたほうが、からからと笑った。
「こんな上等なお着物を着られるというのに、お嬢様は贅沢ものですねえ」
もう一人の、年嵩で痩せた女も、
「このお仕事のためにわざわざ東宮御所で用意してくださったそうですよ。さあ、ぐちぐち言っていないで、寝間着くらい自分で脱いでください」
こうして、あっという間に美緒は色とりどりの布でぐるぐる巻きにされ、いつもは束ねている髪も、丁寧に湯で洗って櫛でとかされ、いっぱしの女房姿に整えられた。
そして、着物の重さに美緒が辟易している間に、東宮御所から迎えの牛車がやってきた。御者に促されて牛車に乗り込む美緒に続いて、仔犬の黒と猫の白も乗り込もうとする。
「ちょっと、獣が乗るのは困りますよ。東宮御所によその獣が入るなんて、聞いたこともないし……」
と御者は慌てたが、
「この子達はただの獣ではないから。今度の仕事ではついてきてもらわないと困る。この子達を連れていけないのなら、今日は東宮御所へはいけません」
と美緒がいうので、仕方なく牛車へ乗せた。
牛車がゆっくりと東宮御所へ向かう間、やはり美緒は憂鬱であった。なんでこんな仕事を引き受けたのか。いや、陰陽寮の公務員である自分に、拒否権はない。膝に乗った白を撫で回し、狭い牛車の中ではしゃぎ回る黒を目で追いながら、気を紛らわせた。
さて、そうして東宮御所についたのだが、そこからは散々だった。まず、牛車を降りると、門のそばにある殺風景な部屋に通され、そこで随分な時間待たされた。朝の早いうちに東宮御所についたはずなのに、小さな窓から差し込む日の光の角度はどんどん急になっていき、ついに真南に上って真昼となった。そのころになってやっと、気難しそうな男が一人やってきて美緒に言った。
「お前の部屋に案内する。来い」
随分と横柄な物言いだが、美緒はやっと窮屈な部屋から出ることができた。
しかし、通されたのは先ほどの部屋より狭く、さらには窓もない小さな部屋だった。置いてあるものも、薄いござのようなしとねのみである。
「東宮御所にいる間はここで寝泊まりしろ」
そう言って出ていこうとする男に、思わず美緒は言い返した。
「ちょっと待って、ここで怪異の調査をするのならば、せめて文机や燭台がないと…… それに、怪異を目撃した人たちにも話を聞かなくてはならないのに、どこに誰がいるかも分かりませんよ」
それを聞いた男は、ひどく面倒そうな顔をしながら、
「わかった、用意しておく。それと、お前は命じられていない時はこの部屋を出て東宮御所の中をうろちょろすることは許されておらん。目撃者に話を聞く時には、東宮様の側はこのわたし、舎人頭の瀧川尚道を通してもらわねばならぬ。また、お妃様の側は女房を束ねている嵯峨野殿を通さねばならぬ。いずれにしろ、明日以降のことになるだろう。ここで命令を待つんだな」
と一息に言った。
美緒があっけに取られている間に尚道は去り、薄暗い部屋に美緒と、黒と白が残された。黒も白も、主人が酷い扱いを受けていることはわかっているらしく、尚道の背に向かって牙を剥いたり、睨みつけたりしている。
美緒はといえば、ただ移動して待たされただけとはいえ、疲れ果てて座り込んでしまった。黒と白を撫でながら、
「東宮様の近侍のお方たちの前では、陰陽師などこんな扱いなのかもしれないね」
とため息をついた。
夜。特にやることもないし、燭台もない美緒の部屋は真っ暗である。お呼びがあるかもしれないと、女房装束を着たまま待っていたが、いい加減その様子もなさそうだ。もう寝てしまおうかと着物を脱ぎかけた時、部屋の外から声がした。
「美緒どの、お呼びでございます」
すっかり油断していた美緒は、驚いて脱ぎかけた袿を着直し、慌てて部屋の戸を開けた。
そこにいたのは昼の感じの悪い舎人ではなく、もっと若い、穏やかそうな青年で、
「どうぞ、こちらへ。お待ちでございます」
と美緒に告げた。
青年に案内されてついていくと、広々とした中庭に面した月見台に、一人の男が脇息にもたれながら座っていた。
男が、美緒たちが来たことに気づいて振り向くと、満月がその横顔を煌々と照らし出した。その顔はまだ少年のようにあどけなく、しかし、青白い月の光を受けて輝く瞳は、この世のすべてを知っているかのように澄んでいた。彼は、美緒を見て、ふっと微笑んだように見えた。
美緒を案内してきた青年は、月見台の男に向けて告げた。
「東宮様、陰陽寮の美緒どのをお連れしました」
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