第4話 月下の東宮

 目の前の男が、東宮その人であることが明かされた瞬間、不思議と美緒に驚きはなかった。もちろん、美緒のような身分のものが御簾も隔てずにこうも高貴な人々と相対することなど、普通はありえない。また、美緒は朝から東宮のそのさらに家来たちからえらくぞんざいに扱われたところである。それなのに、まるで昔からの友人のようにくつろぎながら美緒に優しく微笑みかけているこの人が、東宮様だなんて変な話だ。

 しかし、月明かりではなくまるで自らのうちから光を放つような、純粋無垢な少年にも、慈愛に満ちた菩薩にも見えるようなこの人は、美緒が今まであった中で、間違いなく一番高貴な存在であった。だから、きっとどんな辺鄙な田舎にいようと、美しい着物に身を包んでいなくても、きっとこの人が東宮様だとわかったに違いないと、美緒は思った。

「ありがとう行光ゆきみつ。美緒殿、どうぞこちらへお座りください」

 東宮は、そう言って自分の側に置かれたしとみを手で示した。

 美緒は思わずはっとして、しとみよりも東宮から離れたところに頭を垂れて平伏した。東宮のあまりの高貴さ、美しさにあてられてぼんやりと突っ立っていたが、本来自分が直に目にすることさえ許されない人である。頭をできる限り深く深く下げながら、美緒は混乱していた。

(この人、美緒殿って言った!? 隣に座れって言った!?)

 昼にあった舎人の男は、美緒の名前をついぞ呼ぶことなく、お前呼ばわりし続け、何もない部屋でまたせ続け、ろくに話も聞いてくれなかった。それでも東宮様の舎人なら仕方ないかと思っていた。それなのに、東宮本人の、この腰の低さはなんなのか。

「美緒殿、どうぞ、頭を上げて。昼に我が家の者が失礼したようで、申し訳ない。自分に仕えるものも、自分で選べない立場なものでね。御所の隅々まで目が届かず、歯痒く思っているのですよ」

 そっと美緒が顔をあげ、東宮を見上げると、その言葉の通り東宮は少し悲しげに見えた。

「御所で起きることは、この行光が知らせてくれるのだが……」

 そう言って、東宮は美緒を連れてきた青年に目配せした。

「この行光は、わたしの乳母の子で、わたしにとっては兄のような者でね。とても頼りにしているのだよ。あなたに調べてもらう怪異についても、この者に聞いたらよい。ただ……」

「わたしにも、立ち入れない場所が最近御所の中にできてしまいましてね」

 行光の言葉に、美緒ははっとした。

「わたしの側近とはいえ、妃の華奈とその女房たちが暮らす北の御殿には、行光も廊下までしか足を踏み入れることができない決まりになっていてね」

「北の御殿には、東宮様以外はお妃様のお身内であっても男性は入れない決まりです。東宮様が北の御殿にお渡りになる時でも、わたしは部屋の外の廊下で待つことしかできません。しかし、怪異……奇妙な出来事はどうも北の御殿でも起こっているようなのです」

 「起こっている」という言葉に美緒は首を傾げた。それを察して東宮が続ける。

「北の御殿で奇妙なことが起こっているのは確かなのだが、そこを管理しているお妃付きの女房、嵯峨野殿は、何も起こっていないの一点張りで、何も知らせてはくれないのだ」

「東宮様がお一人でそのような場所に行かれるわけにはいきませんので、お妃様が北の御殿に入られてから、一度も東宮様はお妃様に会いにいくことができないでおられます」

「そこで美緒殿、あなたをお呼びしたというわけだ」

 東宮は、その透きとおるような瞳で美緒を見つめた。美緒は一瞬たじろいだが、今聞いた話への興味の方が勝った。

「つまり、わたくしが北の御所へ入り、何が起こっているか、なぜお妃様たちがそれを隠しているか調べよというのですね」

 それを聞いて、東宮は頷き、微笑んだ。

「やはり、噂に聞いていた通りの方だ、美緒殿。さて、まずはこの御所で起こった怪異について、行光に詳しく聞くところから始めてもらいたい。明日から北の御殿に入る手筈も、行光が整えてくれている。この御所にいる間は、万事行光に頼るといい。それから——」

 東宮は話しながら立ち上がり、美緒を見つめた。

「毎晩、ここでわたしにその日あったことやわかったことを話してほしい。頼んだよ」

 そう言って、東宮は御殿の中へと入っていた。その時、東宮の直衣のうしの裾がふわりと翻り、蓮の花のような、甘く、しかし清らかな香りが美緒の鼻をくすぐった。内裏の公達きんだちたちが意中の女の気を引こうと、こぞって衣にたきしめているどんな香とも違う、澄んだ優しい香りだった。


 東宮を見送ったのち、行光が美緒に声をかけた。

「では、このひと月の間に、この東宮御所で何が起こったか、お話ししましょう」

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