第2話 宮仕えは突然に

「は?」

 美緒は思わず、ここが職場の陰陽寮であることも忘れて、目の前の陰陽頭——というより自らの父である男に、そう聞き返した。

「は、ではない。明日からそなたには東宮御所に出仕してもらう」

 美緒の目の前の初老の男は、いつも通り、職場でも家でも変わらぬその真面目くさった表情を変えることなく、そう言った。

「いや、父上、わたしの仕事は陰陽師であって、いまさらこの歳で女官になれなどと言われても……」

「それはわかっとる。そなたにいまさら東宮様の女官などというむつかしい仕事ができるとは思っておらん」

 それはその通りだが、そこまで言わなくてもと思いつつ、美緒は聞き直した。

「では、どういうことなのでしょう?」

「うむ。先の月、右大臣家の姫君が東宮様の妃となられたことは知っておろう」

 確かに、ここのところ、内裏は右大臣家の姫、華奈と東宮の婚姻の話で持ちきりだった。華奈姫はその身分はもちろんながら、類稀なる美貌が評判で、貴族の男であれば少年から老人までその顔を拝んでみたいと口にするような姫であるという。その姫が、これまた帝の皇子の中でも特に眉目秀麗、若くして教師役である大学寮の博士たちも舌を巻く聡明さの東宮と縁づくというのだから、婚約が決まった一年前から、みなその話ばかりしていた。

「その姫君が東宮御所に入られてから、御所では奇妙なことが度々起こっているというのだ」

「ははあ、なるほど。それでわれらの仕事というわけですね…… しかし、この陰陽寮にはわたしよりも経験を積んだ、優れた陰陽師が多くおるではないですか。東宮御所での事件となれば一大事。わたしなどより適任のものがいるのではないですか」

「そこなのだ、美緒よ——」

 陰陽頭は一瞬考え込むように黙り、そしてこういった。

「この仕事はそなたにしかできぬのだ。女であるそなたにしかな」

「は?」

 今日二度目の「は?」である。

「事件が起こり始めたのは、姫君が東宮御所に入られてからだと言ったであろう。その姫君と言えば……」

「あ、あー……」

 美緒にも、話が見えてきた。

「都の男どもがみな夢中になる美貌の姫君ぞ。たとえ東宮様の妃となったとて……いや、お妃であるからなおさらに、その近くに男の陰陽師なぞがうろちょろしては困る、というのが、お妃の実家の右大臣家の言い分なのだよ」

 言い切って、陰陽頭はふっと息を吐いた。

「この陰陽寮に、仕事中に東宮様のお妃に邪な気持ちを抱くものなどおりませぬ、とは申し上げたのだが……」

「まあ、右大臣様のご懸念は理解できます。あのようにお噂になるような美貌の姫君であれば、殿方を警戒してもしきれぬでしょう」

「そういうものかね。とにかくそういうわけで、そなたに行ってもらいたいのだ」

「承知しました。では明日の朝、東宮御所に伺いましょう。それでは……」

 そう言って美緒が立ちあがろうとすると、

「ああ、いやいや、そなたの女房装束はうちに手配してあるから、明日の朝はそれに着替えて牛車で向かってくれ。東宮御所に出入りする女房が徒歩かちで出仕するなど、見栄えが悪いからな。牛車は東宮御所の方で手配してくださるそうだから……」

「は?」

 ついに、今日三回目の「は?」が出る。

「このいつもの狩衣では駄目なのですか? あんな何枚も着物を重ねた重い格好……いざという時に動けぬではないですか」

「別に陰陽師の仕事で動きやすい必要はそこまでないであろう。今回は特に東宮御所の中を調べられればよいのだから、女房装束で問題あるまい」

 半ば白目を剥きながら、美緒は反論する。

「父上はあれを着たことがないからそんなことが言えるのです。女を家の中に閉じ込めるために意地の悪い奴が考えたのかと思うほど重いし、長いし……」

「仕方ないであろう。これも右大臣家からのお達しだ。とにかくそういうわけだから、明日からよろしく頼むぞ」

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