【番外編】田片新
俺は真っ白な世界にいた。
何もない空間。
どちらが上でどちらが下かもわからない、光しかない世界。
そこはとても静かで心地が良かった。
俺はその場で膝を畳み、丸まった。
もう、誰の声も聴きたくない。
ただ、一人でいたかった。
俺があの瞬間に望んだのは、ただの安寧だった。
心穏やかに過ごしたい。
たったそれだけの願いでさえ、かなえられない世界。
自分で自分の命を奪うだなんて間違っているとはわかっていた。
それでもこの苦痛から逃れる方法がこれしか浮かばなかったのだ。
生きていたら、また誰かに好きに言われる。
聞きたくない心無い声が聞こえてくる。
それがたまらなく嫌だった。
そうでない世界なんて、なんの嫌な事のない世界なんて存在しない。
なぜなら、世界には俺以外の人間がたくさん生きているから。
俺だけの都合で世界は作られてはいない。
なら、もうそこから逃げ出すのは世界から俺自身が離脱するしかないと思ったのだ。
だから、この世界は安心できた。
光の中はどこか温かい感じがして、母体の中にいるようだった。
ああ、これでやっと安らかに過ごせる。
そう思った時、何処からか微かに声が聞こえた。
「田片新、聞け! もうあんたは解放された。もう、新じゃない。あんたはテオだ。オルガルド王国の王子として生まれ変わったんだ!!」
なぜ、この人物は俺の名前を知っているのだろうかと思った。
ああ、教えたことがあったのかな。
オルガルド王国?
おとぎ話でしか聞いた事がないような名前だった。
そこの王子って、本当に笑える。
俺の中にもそんな願望があったのだなと思った。
「あんたのその苦しみは終わったんだ。テオは王子として新たな人生を歩み、前の人生を覆すほどの努力をしてきた。その時間をこんなことで無駄にしないで。過去の自分を忘れることが出来ないのは、私が一番理解している。それでも、私たちはどんな運命がまっていても前に進まないといけない。誰に何を言われたって自分の人生は自分で掴まなければいけない。惑わされるな。自分の内面を見つめて。自分の声を聞いて。そして、自分が側にいたい相手を思い出すの」
一瞬、この人物が何を言っているのかわからなかった。
そう、過去なんてそう簡単に忘れられない。
それが生まれ変わったとしても、その記憶がある限り、その苦しみからは逃れられないのだ。
わかっているから苦しい。
そんなこと忘れて、前進しろって?
簡単な話じゃないだろう。
でなければ、俺はこんなに苦しんではいない。
自分の人生なんて、他人にあっさりぶち壊されるものだろう?
そんなものを掴んでおくなんて不可能だ。
それに俺には側にいてほしい人なんていない。
俺はいつだって独りぼっちだ。
いや違うな。
人は誰もが孤独なんだ。
でも……。
俺は知りたかった。
彼女の言う答えを。
俺は感覚を失いかけていた口を小さく開けて、声を懸命に出してみる。
「……側に……いたい……、相手?」
「そう! あんたがこの世界で守りたい相手だよ!! 失いたくない相手を思い出してよ」
彼女は俺の声に答える。
俺にそんな相手がいるのか?
「守りたい……相手……、失いたくない……相手……」
今まで一度だって、人に好かれたことなんてない。
ましてや恋愛なんて、俺には縁遠いものだと思っていた。
それでも、心からそう思える人がいればいいなと憧れていた気持ちもある。
その時だ。
俺の耳に彼女の声が飛び込んできたのは。
「テオ様! わたくしです! パルスティナです!!」
俺はその声がする方に顔を向ける。
「思い出してください、テオ様! わたくしはあなたの妻です。どんなお姿になっても、どのようなお立場になっても、わたくしはあなたの永遠の妻です。テオ様、わたくしを追いていかないでください!!」
はっきり聞こえる彼女の声。
俺はこの人物を知っている。
いつもおどおどしていて、自信がなさそうで、何かを言いたげに俺の顔をじっと見ている。
怯えているように見えるのに、話しかけると嬉しそうで、最初は変な奴だとしか思わなかった。
ただ、彼女の好意に気づいた時、今までに感じたことのない温かさと喜びが胸に沸いた。
誰かに必要とされることがこんなに嬉しい事なのかと実感した瞬間だった。
最初は俺が王子だから、こんな容姿に生まれ変わったから、彼女は俺を気に入ったと思っていた。
でも、彼女は立場を失い、形を失った俺でさえ、求めてくれる。
それが嬉しくて、愛おしくて、彼女の側に行きたくて、そのもたつく手を伸ばしてみる。
「皆さん、避けてください!」
そこにまた別の人の声が飛び込んできて、再び俺の周りの光が強くなっていくのを感じた。
しかし、その直前に今度は別の影に包み込まれた。
そして、光の世界から一転、闇の世界に変わったのだ。
長い長い夢を見ていた気がする。
それは俺が夜間学校に通い始めた頃、こんな俺にも友達と呼べそうなクラスメイトがいた。
一人は三十代後半の北秀さんという社会人男性。
そしてもう一人は、いつもおどおどして、喋るとどもってしまう年下の平氏という女の子だった。
夜間学校に来ている生徒の殆どが、中学卒業後仕事をしながら高校に通っている年下ばかり。
俺のように高校中退して、改めて卒業を目指す生徒も何人かいたけど、北秀さんのように中学を卒業してから随分時間が経って高校に通う人は稀だった。
「僕ってこの中じゃ、随分おじさんじゃない? よく、若者に囲まれて勉強するのは恥ずかしくないかって聞かれるのよ。ほら、別に夜間学校じゃなくても、通信教育とか卒業するだけなら方法は他にもあるでしょ? でもね、僕はちゃんと毎日学生らしく学校に通って、他の生徒たちと一緒に勉強がしたかったんだ」
仲良くなって最初の頃、北秀さんが俺にそう語ってくれた。
前の席にいた平氏さんも話に入って来る。
「わ、わかります。わ、私はその、は、働かないといけない環境ではなかったのですが、そ、その、い、いつもうまく話せなかったから、つ、通常の高校に通う自信がなくて、や、夜間学校にしたんです。ほ、かの人達とは、す、こし、違うかも、しれません……」
平氏さんは淀みながらも、一生懸命話してくれた。
「ここにはいろんな事情で通ってくる生徒達がたくさんいる。僕らは普通の人とは違うかもしれないけど、気にする必要はないんだ。だって、真面目に勉強をしているのは同じだし、卒業証書をもらえば変わりないじゃない? 自分のあり様に拘る必要はないと思っているんだ。自分の事は自分にしか、決められない」
やはり北秀さんは大人だなと思った。
俺が最初に通い始めた時はものすごく不安で、自分より年下の子ばかりいる事を知ると恥ずかしくて逃げ出したくなった。
けど、そんな俺に北秀さんが話しかけてくれたから、俺はこうやって今も学校に通っていられる。
北秀さんは電車が大好きな人で休み時間は、それぞれの趣味の話をすることが多かった。
年齢なんて関係ない。
仲良くなる切っ掛けなんて人それぞれなんだと知った。
しかし、そんな中でも俺には苦手な人がいた。
それはいつも態度の悪い唐沢くんという男子生徒だ。
年齢は俺とそれほど変わらない。
彼も以前、昼間の高校に通っていたが、途中で登校拒否になり高校中退したという。
彼はいじめられっ子というより、苛めている方に見える。
目が合うたびにメンチを切ってくるし、授業中も態度が悪い。
真面目に勉強をしに来ているようにも見えないし、授業中寝ていることも少なくなかった。
その事をいつの日か北秀さんに話した事があった。
「そっかぁ。田片君には唐沢君がそう見えているんだね。でも、人を表面ばかりで判断してはいけないよ。深く関わって見ると見えて来るものが必ずあるから。君が感じていたイメージとは違うかもしれない」
最初はその北秀さんの話を信じられないと思っていた。
大人の良く言う綺麗事だと。
でも、それを理解したのはそれから、数日後の事だった。
ある日の帰り道、目の前に唐沢君が歩いていて、鞄からノートが一冊落ちたのが見えた。
以前の俺なら、落ちたと知っても無視をしていたのだけれど、この日の俺は何となくそれを拾い、勇気を振り絞って彼に話しかけたのだ。
「あ、あの、唐沢君。ノート落としたよ」
俺は震える手を必死に抑えて、彼にノートを突き出した。
「ああ?」
相変わらず柄の悪そうな返事をする唐沢君に、俺は目線を合わせられなかったけど、彼は俺がノートを拾ったと気づくと、いつもの威圧感のようなものが消えた気がした。
ひとまず黙ってノートを受け取って、鞄に詰める。
そして、消えてしまいそうな小さな声で答えた。
「……あんがと……」
その時、初めて俺は顔を上げて、彼の顔をしっかり見たんだ。
彼の目はどこか怯えていて、怖がっていたのは俺だけではないのだと知った。
素行の悪い彼だから、俺みたいな陰キャの男にビビったりしないと思っていた。
彼だって本当は人と関わるのが怖いんだ。
あんな態度を見せているのも、俺の想像する理由とは本当は違うのかもしれない。
俺はこの時、自分の見えている世界がとても狭いことを知った。
知ったはずなのに、社会人になって、仕事に追われて、心に余裕がなくなると人はまた視野が狭くなるのかもしれない。
もしかしたら、あの瞬間も、あの選択以外で自分を救ってやれる方法があったのかもしれない。
全てを終わらせないとどうしようもないなんて、勝手に自分が決めたことだ。
そして、それは今も同じなのかもしれない。
また、彼女の声が聞こえる。
優しくて心地の良い声。
「テオ様、聞いてください。また、お庭で新しい野鳥を見つけたんです。見たことのない小さくて可愛い野鳥です。テオ様にも見せてあげたかったです」
彼女は嬉しそうにそう語る。
「後、知っていましたか? カルチャットさんが作ったシチュ―とても美味しいんです。あれは王宮でも食べたことのない味でした。有名な料理長が作ったものでなくても、あれだけの美味しいものが食べられるんですね」
カルチャットさんって誰だよ。
寝たきりの俺がわかるわけがないだろうと笑ってしまいそうだった。
「それとですね、わたくしが種を蒔いた野菜なのですが、最近やっと芽を出したんですよ。最初は失敗してしまったのかと心配していましたが、ちょっとだけのんびり屋さんだっただけみたいです」
「お前とそっくりだな」
「そんな、ひどいです! 私はのんびり屋では――」
その時やっとパルスティナが俺の目が覚めたことに気が付いた。
目を丸くして、硬直している。
そして、そこから大粒の涙を流しながら、顔を近づけて来た。
「テオ様ですよね? わたくしのことはわかりますか? どこか身体は痛くないですか?」
目覚めた瞬間、彼女にいろいろ質問されて、俺はまいってしまう。
「そんなにいろいろ聞くな。答えられない」
すると彼女はそんな俺に抱き着いて叫んでいた。
「テオ様です! 良かった。目を覚まされたのですね。もう目覚めなかったらどうしようかと思いました」
彼女はそう言って俺の上でわんわんと泣いた。
こんな寝たきりになった自分にさえついて来てくれた彼女の存在に俺は、ここが今の自分の居場所なのだと実感した。
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