高架下のナナちゃん
くーくー
第1話
私の通う楡丘町立楡中学校への道は、高架橋の目の前で二股に分かれている。
左の道の高架下を通り抜ければ学校は直ぐ側なのだけれど、指定の通学路である右の道を行くと少し遠回りになってしまう。
でも、高架下を通る人はほとんどいない。
私がまだ小学生だった去年の事、楡中の生徒が高架下でぼさぼさ髭の中年の男に髪をいきなり引っ張られ中学の校門まで追いかけ回された。泣きながらやっと校門を通り抜けた生徒を見付けた体育の先生が直ぐに男を取り押さえ、高架下の怪人と呼ばれたその男は逮捕された。
それ以来、校則で高架下を通ることは禁止された。
そんな高架下から怪人は消えたけれど、私が中学に入学した先月と時を同じくしてまた別の人物が見かけられるようになった。
それは私たちと同世代に見える女の子で、いつも同じ黒のスウェット姿に裸足で、何をするでもなくただ高架下の隅っこでじっとしゃがみ込んでいる。
「おい、お前!何なんだよ!!裸足かよ、足の裏ちょっと見せてみろよ、うわ、きったねぇな真っ黒じゃねーか。」
やんちゃな同級生の男子が彼女をからかってるのを何度か見かけたけど、彼女は何を言われてもされても、一言も声を発することなく、ただじっとしゃがんでいた。
そんな彼女は、何時しか皆の間で高架下のナナと呼ばれるようになった。
勿論本名じゃない、名無しからのナナだ。
ナナちゃんは毎朝高架下にいるのだけれど、私たちの下校時にはもういなくなっている。
あの子は学校には通っていないのだろうか、一体どこの子なんだろう…
楡中に登校拒否をしている人がいるなんていう話は聞かないし、もしウチの生徒なら先生が高架下に行くはずだ…
ナナちゃんに対する疑問は益々深まるばかりだったけど、私にはとても彼女に直接接触するなんて気持ちは起こらなかった。
からかわれても、スウェットの裾を引っ張られても、ただじっとして地面を見つめて、悲鳴の一つも上げない彼女の事がちょっぴり怖かったからだ。
毎朝横目でちらりとナナちゃんの存在を確認しつつ日々は過ぎてゆき、学校は夏休みに入った。
夏休みにも、ナナちゃんはあそこにいるのだろうか?
どうしても気になった私は、夏期講習に行く予定の時間より少し早く家を出て高架下に向かった。
ナナちゃんは、何時も通りにそこにいた。
でも、何時もとは様子が違う。
猫を抱き上げて、微笑んでいたのだ…
ナナちゃんの抱いている猫には見覚えがあった。
地域猫のブチだ…
ブチは地域猫とは言っても、所謂地域のアイドル的な猫ではない。
ブチという名前も毛の模様からではなくて、ブチブチとところどころ毛が禿げていることから付けられた。
人に全く馴れず、餌を出しても傍に人がいると寄り付かず、人が去ってからやっと食べ、食べ終わるとさっさと何処かへ去ってゆく。
勿論、触った人も誰もいない。
それなのに、そんなブチがナナちゃんには何の抵抗も無く抱き上げられて、ゴロゴロ喉まで鳴らしている…
何か…何か…ナナちゃんて、すごい子なのかも!
私はナナちゃんに対する興味が今まで以上に沸いてきて、ブチに対する優し気な微笑みを見ると怖さもすっかり消え去ってしまい…ナナちゃんに近づき、サッと横に座ってみた。
私が近付くとブチはシャーっと歯を剥いて逃げてしまい、ナナちゃんはまた無表情になってしまった。
けれど、横に座っている私を拒否する様子も無かった。
「こんにちは、私、白川唯って言うの…あなたは…」
おずおずと話し掛けてみたけど、ナナちゃんはチラリともこちらを見ない。
やっぱり…近づくべきじゃなかったかも…
後悔し始めた私の目に映るナナちゃんは、すごく痩せていて、顔やスウェットから見える足は擦り傷だらけだった…
「これ、痛そうだね…」
私はナナちゃんの足の甲にあるまだ血も乾いていない真新しい擦り傷をウェットティッシュで拭き、絆創膏をピトンと貼った。
されるがままだったナナちゃんは絆創膏の絵柄をまじまじと見詰め…
「ファビュラスガール…」
とポツリと呟いた。
ファビュラスガールは私が小学校低学年の時から放送されているファビュラススーパーファイブというヒーロー物のアニメの紅一点で、他の四人の男の子よりもずっと強く一番活躍していて、女の子に絶大な人気があった。
勿論、私の通っていた楡小も同じで、ファビュラスガールの柄の洋服やお揃いのヘアゴム、ロゴのついた通学鞄で全身まとめた女の子たちでいっぱいだった。
私も大好きなファビュラスガールだらけの格好だったのだけれど、学年が上がるにつれ、どんどん仲間が減ってゆき、アニメの話題をする子もいなくなり、背が伸びて服がきつくなったのを機に私もファビュラスガールグッズから卒業した。
でも、ファビュラスガール柄の絆創膏は小さな巾着袋にお守りみたいに忍ばせて、何時も首から下げていた。
身に着けていると自分も強くなれるような気がしたから。
もしかして、ナナちゃんもファビュラスガールのこと好きなのかな…
小さく掠れたその声を聞いて、私はすごく嬉しくなってしまった。
「ねーねー、私、ファビュラスガール大好きなんだよ!今でも録画したの毎日観てる!!あなたも好きなの?」
ペラペラ喋りかけたが、ナナちゃんは一度小さく頷いただけで、もう口は開かなかった。
それでも偶に口の端がきゅっと上がっているように見えて、何だかほかほかした気持ちになった。
夢中になって話していると、突然スマホのアラームがジリジリ鳴った…
「あっ、やばっ、夏期講習始まっちゃう!またね!」
立ち上がろうとすると、ぎゅるぎゅると変な音が耳に響いた…
ナナちゃんのお腹の音だ!
あっ、食べもの…ファビュラスガールのキラキラシール目当てで買ったチョコバーしかないよ…
「あの、これ、良かったら…」
バッグの中のチョコバーをナナちゃんに差し出してみたけど、ナナちゃんは受け取ってくれない…
「これ、ファビュラスガールのパワーチョコバーだよ!美味しいよ、強くなれそうじゃない?ねぇ一緒に食べてよ!」
パッケージの絵柄を目の前に近づけてチョコバーをパキッと折り、半分を自分の口に入れ、もう半分を差し出すとやっとナナちゃんは受け取ってくれた。
「ありがと…」
私の背中を追いかけるような小さな声は、とっても可愛らしくて、私の胸の中はぽわぽわとあったかくなった。
それから私は、夏期講習の前に高架下に寄るのが日課になった。
こっそり早起きして作ったおむすびをバッグに忍ばせ、いそいそとナナちゃんの元に向かう。
ナナちゃんは相変わらず全然喋ってくれないけれど、おむすびを並んで食べた後は、少しだけ口の端を上げて…
「ごちそうさま」
と言ってくれる。
名前も知らない、年も、住んでいる場所も知らないけれど、ナナちゃんとの距離がどんどん縮まってゆくような気がして、私は少し嬉しかった。
猫のブチは相変わらず私には絶対触らせてくれないけれど、ナナちゃんと同じ時間を過ごすうちに、私が来ても少々距離を取ってはいるけれど、逃げないようになった。
私はブチにあげる煮干しも持っていくようになった。
夏の朝、二人と一匹の時間はとても穏やかで、私にとって何よりも心休まる時間になっていた。
けれど、夏の終わりは着々と近づいて来ていた。
新学期が始まってしまったら、ナナちゃんはどうするんだろう…
おむすび渡せない…お腹減るよね…
悶悶と考え込んだ私はお小遣いでありったけの栄養バーを買い漁り、夏休み最後の日にナナちゃんに渡そうとした…
「あの、これ、明日からの…」
ナナちゃんは栄養バーの詰まった紙袋を受け取らず…ぷいっと外方を向いて、走り去ってしまった…
どうしよう…どうしよう…私、すっごく失礼なことしちゃったんじゃ…
ナナちゃん怒ってたんだよね…謝らなくちゃ…でもどうしよう
新学期最初の朝、私は早起きをして高架下に行ってみたけど、そこにナナちゃんはいなかった…
私は渡そうと思ってきて持ってきた手紙を、そっと高架下の隅っこに置いてみた。
ナナちゃんのことを大切な友達だと思っていること、お腹を減らさないか心配になってあんなことをしてしまったけど反省しているということ、また一緒に会ってたくさんたくさんお話してみたいこと、自分の気持ちを真摯に文字に込めた。
でも、次の日も、そのまた次の日も、高架下にナナちゃんはいなかった。
手紙は何時の間にか無くなっていたけど、恐らくお掃除の人が捨ててしまったんだろう…
私はナナちゃんのプライドを傷つけてしまったんだ…
悔やんでも悔やんでも悔やみきれないほどの失敗をしてしまった…
もう、ナナちゃんには会えないのかも…
そう思うと、ナナちゃんのブチに向ける笑顔、私といる時の少しはにかんだような笑顔とも真顔ともつかないような微妙な顔、そして走り去る後ろ姿が目に浮かんできて、ぽろぽろと目の端から涙が零れた。
ナナちゃんが高架下に現れなくなってから、ブチも姿を消していた。
「あの禿げ猫、とうとう死んだんじゃね。」
男子が適当なことをゲラゲラ笑いながら言っていたのを耳にしたときは、掴みかかりたいぐらい怒りが湧いた。
あの穏やかな時間を共有した一人と一匹は、どちらも私の前から去ってしまった…
ナナちゃんに会えなくなってから数週間が経ち、友達に話しかけられても上の空で、抜け殻のような日々を私が送っていた頃…
私たちの住む楡丘町を、衝撃のニュースが駆け巡った。
中学二年生の娘を、十年間家に閉じ込め学校にも行かせていなかった父親が捕まったのだ。
娘本人が窓から抜け出し、交番に駆け込んで発覚したのだという。
内容が内容なだけに、実名報道はされなかったが、私にはその娘がナナちゃんだと分かった。
まぁ、ナナちゃんも本名ではないけど…
私は保護されたナナちゃんがどうなったのかどうしても気になって、ニュースに映っていた近所の家まで行き、周囲にいた野次馬のおばさんに詳しく話を聞いて来た。
おばさんはウキウキしながら、知っている話をしてくれた…
少しむかむかしたけれど、事情を知るためだ…
「まさかねー、あの家に子供がいるなんて全然分からなかったわ、いつもカーテン締まってるしね、人影も見えないし、声も聞こえなかったのよ、どうやら書類上はあの捕まった父親の実家にいることになってたみたいでね、誰も調査にもこなかったみたい、あの子のお母さんが事故で亡くなってねーそれから娘を閉じ込めてたそうよ、怖いわねぇ。」
「あの、それで…娘さんは、どこに保護されたかわかりますか?」
「さぁ、それはわからないわね、ところであなた…あの子の知り合い?一体どこで?」
おばさんの目が、興味津々にギラギラ光って来た…マズい…
「あの、私そろそろ…」
走って家に帰りながら、私の目からは大粒の涙が溢れ出してきた。
ナナちゃんは、そんな辛い思いをしてたんだ…
でも…すっごく勇気があって、強い子だったんだ…
それなのに私は何も知らずに、呑気に穏やかな時間とか思って…
いい気になってたんだ…
謝りたい…
でも、もう会えない…苦しくて仕方なかった…
事情を全部知ってからも、私は通学途中に高架下を確認するのが癖になっていた…
ナナちゃんはもういないのに…
中学を卒業し、高架橋の側を通ることがなくなっても、私の中にはナナちゃんが住み着いていた。
誰も知らない、ひと夏の大事な友達…
二度と会えることなはいだろうと諦めきっていた高1の初夏、私の元に一枚の葉書が届いた。
差出人は町田ゆずき、住所は東北の見知らぬ町…
不思議に思いつつも、私の胸はやけにざわついた…
ひらがなばっかしで、でも一字一字とっても丁寧に書かれているのが伝わってくるその短い手紙には、
【おてがみありがとう、わたしのファビュラスガール、ゆうきをいっぱいくれてありがとう、だいすきだよ。】
と書かれていて、文字の横には猫の小さな手形まで付いていた…
ナナちゃんとブチだ!
その夜、私は葉書を抱き締めて眠った。
夢の中にはナナちゃんもとい…ゆずきちゃんが出て来た。
ゆずきちゃんは背が伸びて、こけていた頬はふっくらとして薔薇色で、にこにこにこにこ顔をくしゃくしゃにして笑っていて、足元ではブチが楽しそうにぴょんぴょん跳ねている…
あぁ…夏休みになる前に頑張ってバイトして、お金を貯めてゆずきちゃんに会いに行きたい…
それで、いっぱいいっぱい…今までの分お喋りするんだ…
勿論、ブチも一緒に…
大好きな、大好きな、私のファビュラスガールにきっと会いに行くんだ!
高架下のナナちゃん くーくー @mimimi0120
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