闇夜の失明
@smiler
短編:「闇夜の失明」
とある晩のことである。
日はとっくに地へと顔を隠し、光源が道行く街灯だけとなった頃。
とある田舎で、まだ十五に満たないほどの女学生が車に撥ねられる事故が起こった。
被害者は、発見されたときには既に息を引き取っていたという。
僕はその事故を朝のニュースで耳にして知り、胸を打たれるような衝撃と辛苦を覚えた。
テレビの画面に映されたその被害者は、あいにくと僕の顔見知りだった。
僕はその訃報を聞いてすぐに車を走らせた。
辺りはまるで真っ暗闇と言っても事足りない程に、それは暗く、黒一色に包まれている闇夜だった。
四輪車を走らせ、都会に住む僕にとっては比較的小さいと感じる林に囲まれた一軒家に到着し、車を駐車させる。
僕は重い足取りで家の玄関前に立つと、固唾を呑み、一度大きく息を吐いてからインターホーンを鳴らした。
扉の奥から、女の啜り泣く声が聞こえた気がした。
「こんばんは。夜分遅くにお訪ねして申し訳ありません。」
「あら先生、こんにちは。どんなご要件で?」
家内で暫くバタバタと音がしてから、出てきたのは四十ほどのご婦人。
「急に押しかけるような真似してすみません。その、今朝例のニュースを耳にしまして…娘さん、残念でしたね…まだお若いのに…」
「えぇ…先生のご尽力もあり、最近は学校にも馴染めるようになって、来年高校に行くのを本人も楽しみにしてましたので親の私もとても心苦しい思いです。」
「あぁ…そうでしたか…僕にも十六の娘がいまして、お気持ちは良く分かります。」
僕は、哀悼の意を表しながら言葉を並べた。
「お辛いでしょう?…誰だって愛する自分の子を失えば、心に深い傷を負います。」
「えぇ、でもお気遣いは嬉しいですが、心配なさらないでください。私は大丈夫ですから。」
そうご婦人は言っていたが、下眼瞼にはしっかりと赤みを帯びていることを僕は見逃さなかった。
「………………」
二人の間にしばし沈黙が続いた。
僕は言葉を慎重に選んでいるつもりだが、こんな時にどんな言葉を掛ければいいか、どんな顔を合わせれば良いのか分からなかった。
しかし、唐突に現れて、長居する訳にもいかないので、少しでも顔合わせできたことだしとここから早く立ち去ろうと考えた。
「あの…そろそろ失礼しますね。やっぱりお邪魔だったかもしれません、時間も時間ですし。」
「時間ですか?…時間なら大丈夫です…まだ午前中ですし。」
「え?…」
空を仰ぎ、まだ日が落ちる時には到底早い時刻だという事を知る。
「きっと運が悪かったんだわ…あの子が交通事故なんて…」
婦人はこちらに語りかけているのか、はたまた独り言なのか分からない程に曖昧なトーンでぼそっと呟いた。
「あの子…目が見えないんです。生まれのつきの病気で…」
「えぇ、勿論存じてます。なにせ彼女は僕が今まで良く見てきた子ですので。」
「いえ、そういうことではないんです…そのせいで…わたしがあの子をちゃんと他の子たちと同じように正常に産んでいれば…」
ご婦人は自責する。
「ですが奥さん、そんな風に自分を責めちゃいけません。今は奥さん、あなたが病人なんですから。」
「わたしが…病人?」
「えぇ。ほら、心の病ってやつですよ。とにかく今は自分を労ってあげてください。」
「これ、僕薬持ってきましたから。これを飲めば少し心が落ち着くと思います。それに、何かあったら僕がいつでも話を聞きます。」
「ありがとうございます。」そう言ってご婦人は薬を受け取る。
「すみません…もうすぐお昼の時間なので失礼しますね。今日は娘の誕生日で、家族も僕の帰りを待っているので…」
「そうですか。娘さん、お大事になさって下さい。おやすみなさい。」
帰ろうとしたその時だった。僕はたしかに見た。
ご婦人の後ろに、哀愁そして憤怒を含んだ瞳をしたご婦人の娘の姿を…
********************
足早に車へ行き、すぐに乗り込んでエンジンを掛ける。
車を走らせて少ししてから振り返ると、玄関の前で婦人がいつまでも僕を見つめて立っていた。
暗く静まり返った林の中を、家へ向かって車を走らせる。
道中、一台の車とすれ違った。
何気なく車内を見やると、そこで凄惨な光景を目にした。
そこで見たものは、狂ったようにハンドルに頭を何度も何度も打ち付け、額からは血を流している男の姿だった。
僕は気味が悪くなり、すぐに目をそらした。
しばらくして家近くのトンネルが見え、もうすぐ家に着くことに安堵の念を抱く。
トンネルをくぐり始めたその時、地面を激しく振動させる大きな音と、まるで追われているような嫌な寒気を感じた。
そしてその音は徐々にこちらへ近づいてくる。
近づくに連れて音はさらに大きくなっていき……
遂にその音が僕の耳元まで届いたとき、
後方には巨大な体を前傾に倒した、四足歩行の異形な姿をした、あの娘が追いかけてきていた。
全長十メートルにも及ぶほどの巨体で、両目から赤色の涙を垂らしながらトンネルを呑むようにこちらへ掛けてくる。
僕は何がなんだか分からないまま、本能的に逃げようと必死になってアクセルを踏んだ。
気づいた時にはトンネルを抜けており、あの怪物はいなくなっていた。
「一体何だったんだ…彼女の怨霊か何かか?…」
息を切らしながら、かすれた声でそうぼやいた。
呼吸を整えようと自然に声が出てしまうほどに、心臓はバクバクと激しく鼓動し、呼吸が乱れていたことを今になって気づく。
こわばらせていた身体は和らぎ始め、徐々に安定を取り戻しつつあった。
しかしほっとするには些か早かったのかもしれない。
前方から、さっき見たハンドルに頭を打ち付けていた半狂乱の男が、物凄いスピードで走ってきた。
咄嗟に避けようと反応したが、向かってくる車はまるで速度を落とそうとせず、間に合わうことなく車は激しく衝突し、大きな重い音が響いた。
********************
「きっと運が悪かったんだわ…あの子が交通事故なんて…」
婦人はこちらに語りかけているのか、はたまた独り言なのか分からない程に曖昧なトーンでぼそっと呟いた。
「あの子…目が見えないんです。生まれのつきの病気で…」
「えぇ、勿論存じてます。なにせ彼女は…」
「でも、事故の原因は娘のせいではないと思うんです!」
僕の言葉を遮るようにしてご婦人はそう言った。
「でも、あなたの娘さんの目が見えないのは事実ですし…」
「娘を轢いた男はかなりのスピードを出していたと…」
ご婦人は車の速度に着眼点を置き、話を持ち出した。
「たしか…六十八キロでした。」
「まだ捕まっていないのでしょう?」
「えぇ。だとしたら許されませんね。まだ将来のある若者の一人を殺め、そして自分はのうのうと生きているなど、到底許されることではない…」
「それは私も思います。どうして娘が死ななければならなかったのかと。轢いた男が死ねば良かったのに。」
それまで終始落ち着いていた婦人の口から、そんな語気の強めた言葉が吐かれ、彼女の本当の心の内を心底知らしめられる。
「私は思うんです。なぜ真面目に生きてきた娘が死んで、事故を起こした当の本人が生きているのかと。」
「これって、皮肉じゃないですか?」
「僕だって真面目に生きてますよ。」
「はい?…」
「それに、皮肉っていくのは僕にとってもだ」
「何が言いたいんですか?」
「ですから、僕が言いたいのはのですね。予期せぬ事故は、加害者も被害者なんだってことですよ。」
「それに、あなたの娘さんを殺した男は不運にも生きてしまっている。それこそ皮肉なことだ。」
「話を聞いていれば、自分は悪くないみたいに。」
ご婦人は、少し口調を荒げて言った。
「いえ、僕が悪かったんです。いくら急いでいたからといって、制限速度を守れなかったろくでもない奴だ。」
僕は自責する。
「たしかに原因は僕だ。だけど、一時の気の迷いだったんだ…」
「気の迷いで許されることじゃないでしょう?!」
ご婦人はかなり苛立ちを抱いているているようだった。
その苛立ちの火が燃え移るかのように、僕の心もまた引火した。
「僕だってこんなこと望んでなかった!まさかこんなことになるなんて…」
「現実逃避してないで、早く目を覚しなさいよ…」
「それは無理だ…例え目を覚ましても、もう覚めることはない。目を開けたところで、見えるのは真っ暗な黒と、赤だけだ…」
「もう何も見えないし、何も見たくない。」
********************
日はとっくに地へと顔を隠し、光源が道行く街灯だけとなった頃。
残業を終え、遅くなってしまい、何としても十二時までには帰宅しなくてはと車を走らせ、家近くのトンネルを抜けたところだった。
微睡みから覚めて次に目に入ってきたのは、闇夜を照らす赤い光と真っ赤な液体。
目の前には、自分が担当していた女学生が頭から血を流し、道路に投げ出されたように横倒れていた。
今自分の手によって無惨にもそうなってしまった少女が…
目の前のとても信じ難い、否、信じたくない光景を前に、もはや器具を使わなくても充分すぎるほどに己の心臓の激しい蠕動が伝わってくる。
そして、今までしっかりと水晶体を通った光の像を、視神経が感じ取って脳に信号を伝達していた目は盲目となる。
外傷から見て、即死だろう。助からないことは一目瞭然だった。
それは、自分の人生が一瞬にして崩れ去り、真っ暗な闇になった瞬間。
僕が、救済者ではなく殺人者になる瞬間だった。
僕は前のめりになるようにして体重をハンドルにかけ、顔を伏せる。
これが悪夢なのだとしたら、どれだけ良かっただろうか。
しかしこの悪夢が覚めることはない。
しいて事を仕損じ、本末転倒。
瞳からは雨天の如く涙が絶えず垂れてくる。
夜を静寂が包みこんでいた中、その静寂を打ち破るようにして、僕の携帯の着信音が鳴った。
不安定な状態の中、着信音が鳴ってしばらくしてから携帯を手に取る。
"いつ帰って来れるの? 今日はあなたの娘の誕生日なのよ。
去年は仕事であなたが家にいなくて、あの子も悲しんでいたんだから。早く帰ってきて'
それは妻からの一通のメールだった。
僕は心の目で家族の心内を見るあまり、人間が元より有する、視覚器官としての目でものを見ていなかった。
その事象が、この悲劇を偶発的に招いた導因とも言えるだろう。
"ごめん、今日は帰れない。'
僕は幾度も返信の旨を熟考してから最後のメールを送った。
辺りはまるで真っ暗闇と言っても事足りない程に、それは暗く、黒一色に包まれている闇夜だった。
********************
闇夜の翌日、"旦那が帰ってこない'という通報があり、
警察は出動した。
通報があった家の周辺を捜索したところ、トンネル近くの道路で二人の遺体が発見された。
死亡推定時刻は昨夜十一時五十分頃。
一人は十四歳の女学生で、車に撥ねられ即死。
もう一人は三十六歳の男性で頭からの出血多量で死亡していた。
事故現場と死亡者の状態から、女学生が男の乗っていた車に撥ねられ死亡し、男は事故を起こしたショックから自責の念に駆られて自殺したと思われる。
また、タイヤ痕があったことから、男性は事情があって帰宅を急いでおり、スピード超過して車を走らせていたことが分かった。
ご家族によれば、ご主人は正義感が強く、人を助けたい一心で医者を志し、仕事にも非常に熱心な人だったと語られた。
とある晩のことである。
日はとっくに地へと顔を隠し、光源が道行く街灯だけとなった頃。
とある田舎で、まだ十五に満たないほどの女学生が車に撥ねられる事故が起こった。
被害者は、発見されたときには既に息を引き取っていたという。
僕はその事故を朝のニュースで耳にして知り、胸を打たれるような衝撃と辛苦を覚えた。
テレビの画面に映されたその被害者は、あいにくと僕の顔見知りだった。
僕はその訃報を聞いてすぐに車を走らせた。
辺りはまるで真っ暗闇と言っても事足りない程に、それは暗く、黒一色に包まれている闇夜だった。
四輪車を走らせ、都会に住む僕にとっては比較的小さいと感じる林に囲まれた一軒家に到着し、車を駐車させる。
僕は重い足取りで家の玄関前に立つと、固唾を呑み、一度大きく息を吐いてからインターホーンを鳴らした。
扉の奥から、女の啜り泣く声が聞こえた気がした。
「こんばんは。夜分遅くにお訪ねして申し訳ありません。」
「あら先生、こんにちは。どんなご要件で?」
家内で暫くバタバタと音がしてから、出てきたのは四十ほどのご婦人。
「急に押しかけるような真似してすみません。その、今朝例のニュースを耳にしまして…娘さん、残念でしたね…まだお若いのに…」
「えぇ…先生のご尽力もあり、最近は学校にも馴染めるようになって、来年高校に行くのを本人も楽しみにしてましたので親の私もとても心苦しい思いです。」
「あぁ…そうでしたか…僕にも十六の娘がいまして、お気持ちは良く分かります。」
僕は、哀悼の意を表しながら言葉を並べた。
「お辛いでしょう?…誰だって愛する自分の子を失えば、心に深い傷を負います。」
「えぇ、でもお気遣いは嬉しいですが、心配なさらないでください。私は大丈夫ですから。」
そうご婦人は言っていたが、下眼瞼にはしっかりと赤みを帯びていることを僕は見逃さなかった。
「………………」
二人の間にしばし沈黙が続いた。
僕は言葉を慎重に選んでいるつもりだが、こんな時にどんな言葉を掛ければいいか、どんな顔を合わせれば良いのか分からなかった。
しかし、唐突に現れて、長居する訳にもいかないので、少しでも顔合わせできたことだしとここから早く立ち去ろうと考えた。
「あの…そろそろ失礼しますね。やっぱりお邪魔だったかもしれません、時間も時間ですし。」
「時間ですか?…時間なら大丈夫です…まだ午前中ですし。」
「え?…」
空を仰ぎ、まだ日が落ちる時には到底早い時刻だという事を知る。
「きっと運が悪かったんだわ…あの子が交通事故なんて…」
婦人はこちらに語りかけているのか、はたまた独り言なのか分からない程に曖昧なトーンでぼそっと呟いた。
「あの子…目が見えないんです。生まれのつきの病気で…」
「えぇ、勿論存じてます。なにせ彼女は僕が今まで良く見てきた子ですので。」
「いえ、そういうことではないんです…そのせいで…わたしがあの子をちゃんと他の子たちと同じように正常に産んでいれば…」
ご婦人は自責する。
「ですが奥さん、そんな風に自分を責めちゃいけません。今は奥さん、あなたが病人なんですから。」
「わたしが…病人?」
「えぇ。ほら、心の病ってやつですよ。とにかく今は自分を労ってあげてください。」
「これ、僕薬持ってきましたから。これを飲めば少し心が落ち着くと思います。それに、何かあったら僕がいつでも話を聞きます。」
「ありがとうございます。」そう言ってご婦人は薬を受け取る。
「すみません…もうすぐお昼の時間なので失礼しますね。今日は娘の誕生日で、家族も僕の帰りを待っているので…」
「そうですか。娘さん、お大事になさって下さい。おやすみなさい。」
帰ろうとしたその時だった。僕はたしかに見た。
ご婦人の後ろに、哀愁そして憤怒を含んだ瞳をしたご婦人の娘の姿を…
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足早に車へ行き、すぐに乗り込んでエンジンを掛ける。
車を走らせて少ししてから振り返ると、玄関の前で婦人がいつまでも僕を見つめて立っていた。
暗く静まり返った林の中を、家へ向かって車を走らせる。
道中、一台の車とすれ違った。
何気なく車内を見やると、そこで凄惨な光景を目にした。
そこで見たものは、狂ったようにハンドルに頭を何度も何度も打ち付け、額からは血を流している男の姿だった。
僕は気味が悪くなり、すぐに目をそらした。
しばらくして家近くのトンネルが見え、もうすぐ家に着くことに安堵の念を抱く。
トンネルをくぐり始めたその時、地面を激しく振動させる大きな音と、まるで追われているような嫌な寒気を感じた。
そしてその音は徐々にこちらへ近づいてくる。
近づくに連れて音はさらに大きくなっていき……
遂にその音が僕の耳元まで届いたとき、
後方には巨大な体を前傾に倒した、四足歩行の異形な姿をした、あの娘が追いかけてきていた。
全長十メートルにも及ぶほどの巨体で、両目から赤色の涙を垂らしながらトンネルを呑むようにこちらへ掛けてくる。
僕は何がなんだか分からないまま、本能的に逃げようと必死になってアクセルを踏んだ。
気づいた時にはトンネルを抜けており、あの怪物はいなくなっていた。
「一体何だったんだ…彼女の怨霊か何かか?…」
息を切らしながら、かすれた声でそうぼやいた。
呼吸を整えようと自然に声が出てしまうほどに、心臓はバクバクと激しく鼓動し、呼吸が乱れていたことを今になって気づく。
こわばらせていた身体は和らぎ始め、徐々に安定を取り戻しつつあった。
しかしほっとするには些か早かったのかもしれない。
前方から、さっき見たハンドルに頭を打ち付けていた半狂乱の男が、物凄いスピードで走ってきた。
咄嗟に避けようと反応したが、向かってくる車はまるで速度を落とそうとせず、間に合わうことなく車は激しく衝突し、大きな重い音が響いた。
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「きっと運が悪かったんだわ…あの子が交通事故なんて…」
婦人はこちらに語りかけているのか、はたまた独り言なのか分からない程に曖昧なトーンでぼそっと呟いた。
「あの子…目が見えないんです。生まれのつきの病気で…」
「えぇ、勿論存じてます。なにせ彼女は…」
「でも、事故の原因は娘のせいではないと思うんです!」
僕の言葉を遮るようにしてご婦人はそう言った。
「でも、あなたの娘さんの目が見えないのは事実ですし…」
「娘を轢いた男はかなりのスピードを出していたと…」
ご婦人は車の速度に着眼点を置き、話を持ち出した。
「たしか…六十八キロでした。」
「まだ捕まっていないのでしょう?」
「えぇ。だとしたら許されませんね。まだ将来のある若者の一人を殺め、そして自分はのうのうと生きているなど、到底許されることではない…」
「それは私も思います。どうして娘が死ななければならなかったのかと。轢いた男が死ねば良かったのに。」
それまで終始落ち着いていた婦人の口から、そんな語気の強めた言葉が吐かれ、彼女の本当の心の内を心底知らしめられる。
「私は思うんです。なぜ真面目に生きてきた娘が死んで、事故を起こした当の本人が生きているのかと。」
「これって、皮肉じゃないですか?」
「僕だって真面目に生きてますよ。」
「はい?…」
「それに、皮肉っていくのは僕にとってもだ」
「何が言いたいんですか?」
「ですから、僕が言いたいのはのですね。予期せぬ事故は、加害者も被害者なんだってことですよ。」
「それに、あなたの娘さんを殺した男は不運にも生きてしまっている。それこそ皮肉なことだ。」
「話を聞いていれば、自分は悪くないみたいに。」
ご婦人は、少し口調を荒げて言った。
「いえ、僕が悪かったんです。いくら急いでいたからといって、制限速度を守れなかったろくでもない奴だ。」
僕は自責する。
「たしかに原因は僕だ。だけど、一時の気の迷いだったんだ…」
「気の迷いで許されることじゃないでしょう?!」
ご婦人はかなり苛立ちを抱いているているようだった。
その苛立ちの火が燃え移るかのように、僕の心もまた引火した。
「僕だってこんなこと望んでなかった!まさかこんなことになるなんて…」
「現実逃避してないで、早く目を覚しなさいよ…」
「それは無理だ…例え目を覚ましても、もう覚めることはない。目を開けたところで、見えるのは真っ暗な黒と、赤だけだ…」
「もう何も見えないし、何も見たくない。」
***************************
日はとっくに地へと顔を隠し、光源が道行く街灯だけとなった頃。
残業を終え、遅くなってしまい、何としても十二時までには帰宅しなくてはと車を走らせ、家近くのトンネルを抜けたところだった。
微睡みから覚めて次に目に入ってきたのは、闇夜を照らす赤い光と真っ赤な液体。
目の前には、自分が担当していた女学生が頭から血を流し、道路に投げ出されたように横倒れていた。
今自分の手によって無惨にもそうなってしまった少女が…
目の前のとても信じ難い、否、信じたくない光景を前に、もはや器具を使わなくても充分すぎるほどに己の心臓の激しい蠕動が伝わってくる。
そして、今までしっかりと水晶体を通った光の像を、視神経が感じ取って脳に信号を伝達していた目は盲目となる。
外傷から見て、即死だろう。助からないことは一目瞭然だった。
それは、自分の人生が一瞬にして崩れ去り、真っ暗な闇になった瞬間。
僕が、救済者ではなく殺人者になる瞬間だった。
僕は前のめりになるようにして体重をハンドルにかけ、顔を伏せる。
これが悪夢なのだとしたら、どれだけ良かっただろうか。
しかしこの悪夢が覚めることはない。
しいて事を仕損じ、本末転倒。
瞳からは雨天の如く涙が絶えず垂れてくる。
夜を静寂が包みこんでいた中、その静寂を打ち破るようにして、僕の携帯の着信音が鳴った。
不安定な状態の中、着信音が鳴ってしばらくしてから携帯を手に取る。
"いつ帰って来れるの? 今日はあなたの娘の誕生日なのよ。
去年は仕事であなたが家にいなくて、あの子も悲しんでいたんだから。早く帰ってきて'
それは妻からの一通のメールだった。
僕は心の目で家族の心内を見るあまり、人間が元より有する、視覚器官としての目でものを見ていなかった。
その事象が、この悲劇を偶発的に招いた導因とも言えるだろう。
"ごめん、今日は帰れない。'
僕は幾度も返信の旨を熟考してから最後のメールを送った。
辺りはまるで真っ暗闇と言っても事足りない程に、それは暗く、黒一色に包まれている闇夜だった。
********************
闇夜の翌日、"旦那が帰ってこない'という通報があり、
警察は出動した。
通報があった家の周辺を捜索したところ、トンネル近くの道路で二人の遺体が発見された。
死亡推定時刻は昨夜十一時五十分頃。
一人は十四歳の女学生で、車に撥ねられ即死。
もう一人は三十六歳の男性で頭からの出血多量で死亡していた。
事故現場と死亡者の状態から、女学生が男の乗っていた車に撥ねられ死亡し、男は事故を起こしたショックから自責の念に駆られて自殺したと思われる。
また、タイヤ痕があったことから、男性は事情があって帰宅を急いでおり、スピード超過して車を走らせていたことが分かった。
ご家族によれば、ご主人は正義感が強く、人を助けたい一心で医者を志し、仕事にも非常に熱心な人だったと語られた。
とある晩のことである。
日はとっくに地へと顔を隠し、光源が道行く街灯だけとなった頃。
とある田舎で、まだ十五に満たないほどの女学生が車に撥ねられる事故が起こった。
被害者は、発見されたときには既に息を引き取っていたという。
僕はその事故を朝のニュースで耳にして知り、胸を打たれるような衝撃と辛苦を覚えた。
テレビの画面に映されたその被害者は、あいにくと僕の顔見知りだった。
僕はその訃報を聞いてすぐに車を走らせた。
辺りはまるで真っ暗闇と言っても事足りない程に、それは暗く、黒一色に包まれている闇夜だった。
四輪車を走らせ、都会に住む僕にとっては比較的小さいと感じる林に囲まれた一軒家に到着し、車を駐車させる。
僕は重い足取りで家の玄関前に立つと、固唾を呑み、一度大きく息を吐いてからインターホーンを鳴らした。
扉の奥から、女の啜り泣く声が聞こえた気がした。
「こんばんは。夜分遅くにお訪ねして申し訳ありません。」
「あら先生、こんにちは。どんなご要件で?」
家内で暫くバタバタと音がしてから、出てきたのは四十ほどのご婦人。
「急に押しかけるような真似してすみません。その、今朝例のニュースを耳にしまして…娘さん、残念でしたね…まだお若いのに…」
「えぇ…先生のご尽力もあり、最近は学校にも馴染めるようになって、来年高校に行くのを本人も楽しみにしてましたので親の私もとても心苦しい思いです。」
「あぁ…そうでしたか…僕にも十六の娘がいまして、お気持ちは良く分かります。」
僕は、哀悼の意を表しながら言葉を並べた。
「お辛いでしょう?…誰だって愛する自分の子を失えば、心に深い傷を負います。」
「えぇ、でもお気遣いは嬉しいですが、心配なさらないでください。私は大丈夫ですから。」
そうご婦人は言っていたが、下眼瞼にはしっかりと赤みを帯びていることを僕は見逃さなかった。
「………………」
二人の間にしばし沈黙が続いた。
僕は言葉を慎重に選んでいるつもりだが、こんな時にどんな言葉を掛ければいいか、どんな顔を合わせれば良いのか分からなかった。
しかし、唐突に現れて、長居する訳にもいかないので、少しでも顔合わせできたことだしとここから早く立ち去ろうと考えた。
「あの…そろそろ失礼しますね。やっぱりお邪魔だったかもしれません、時間も時間ですし。」
「時間ですか?…時間なら大丈夫です…まだ午前中ですし。」
「え?…」
空を仰ぎ、まだ日が落ちる時には到底早い時刻だという事を知る。
「きっと運が悪かったんだわ…あの子が交通事故なんて…」
婦人はこちらに語りかけているのか、はたまた独り言なのか分からない程に曖昧なトーンでぼそっと呟いた。
「あの子…目が見えないんです。生まれのつきの病気で…」
「えぇ、勿論存じてます。なにせ彼女は僕が今まで良く見てきた子ですので。」
「いえ、そういうことではないんです…そのせいで…わたしがあの子をちゃんと他の子たちと同じように正常に産んでいれば…」
ご婦人は自責する。
「ですが奥さん、そんな風に自分を責めちゃいけません。今は奥さん、あなたが病人なんですから。」
「わたしが…病人?」
「えぇ。ほら、心の病ってやつですよ。とにかく今は自分を労ってあげてください。」
「これ、僕薬持ってきましたから。これを飲めば少し心が落ち着くと思います。それに、何かあったら僕がいつでも話を聞きます。」
「ありがとうございます。」そう言ってご婦人は薬を受け取る。
「すみません…もうすぐお昼の時間なので失礼しますね。今日は娘の誕生日で、家族も僕の帰りを待っているので…」
「そうですか。娘さん、お大事になさって下さい。おやすみなさい。」
帰ろうとしたその時だった。僕はたしかに見た。
ご婦人の後ろに、哀愁そして憤怒を含んだ瞳をしたご婦人の娘の姿を…
***************************
足早に車へ行き、すぐに乗り込んでエンジンを掛ける。
車を走らせて少ししてから振り返ると、玄関の前で婦人がいつまでも僕を見つめて立っていた。
暗く静まり返った林の中を、家へ向かって車を走らせる。
道中、一台の車とすれ違った。
何気なく車内を見やると、そこで凄惨な光景を目にした。
そこで見たものは、狂ったようにハンドルに頭を何度も何度も打ち付け、額からは血を流している男の姿だった。
僕は気味が悪くなり、すぐに目をそらした。
しばらくして家近くのトンネルが見え、もうすぐ家に着くことに安堵の念を抱く。
トンネルをくぐり始めたその時、地面を激しく振動させる大きな音と、まるで追われているような嫌な寒気を感じた。
そしてその音は徐々にこちらへ近づいてくる。
近づくに連れて音はさらに大きくなっていき……
遂にその音が僕の耳元まで届いたとき、
後方には巨大な体を前傾に倒した、四足歩行の異形な姿をした、あの娘が追いかけてきていた。
全長十メートルにも及ぶほどの巨体で、両目から赤色の涙を垂らしながらトンネルを呑むようにこちらへ掛けてくる。
僕は何がなんだか分からないまま、本能的に逃げようと必死になってアクセルを踏んだ。
気づいた時にはトンネルを抜けており、あの怪物はいなくなっていた。
「一体何だったんだ…彼女の怨霊か何かか?…」
息を切らしながら、かすれた声でそうぼやいた。
呼吸を整えようと自然に声が出てしまうほどに、心臓はバクバクと激しく鼓動し、呼吸が乱れていたことを今になって気づく。
こわばらせていた身体は和らぎ始め、徐々に安定を取り戻しつつあった。
しかしほっとするには些か早かったのかもしれない。
前方から、さっき見たハンドルに頭を打ち付けていた半狂乱の男が、物凄いスピードで走ってきた。
咄嗟に避けようと反応したが、向かってくる車はまるで速度を落とそうとせず、間に合わうことなく車は激しく衝突し、大きな重い音が響いた。
***************************
「きっと運が悪かったんだわ…あの子が交通事故なんて…」
婦人はこちらに語りかけているのか、はたまた独り言なのか分からない程に曖昧なトーンでぼそっと呟いた。
「あの子…目が見えないんです。生まれのつきの病気で…」
「えぇ、勿論存じてます。なにせ彼女は…」
「でも、事故の原因は娘のせいではないと思うんです!」
僕の言葉を遮るようにしてご婦人はそう言った。
「でも、あなたの娘さんの目が見えないのは事実ですし…」
「娘を轢いた男はかなりのスピードを出していたと…」
ご婦人は車の速度に着眼点を置き、話を持ち出した。
「たしか…六十八キロでした。」
「まだ捕まっていないのでしょう?」
「えぇ。だとしたら許されませんね。まだ将来のある若者の一人を殺め、そして自分はのうのうと生きているなど、到底許されることではない…」
「それは私も思います。どうして娘が死ななければならなかったのかと。轢いた男が死ねば良かったのに。」
それまで終始落ち着いていた婦人の口から、そんな語気の強めた言葉が吐かれ、彼女の本当の心の内を心底知らしめられる。
「私は思うんです。なぜ真面目に生きてきた娘が死んで、事故を起こした当の本人が生きているのかと。」
「これって、皮肉じゃないですか?」
「僕だって真面目に生きてますよ。」
「はい?…」
「それに、皮肉っていくのは僕にとってもだ」
「何が言いたいんですか?」
「ですから、僕が言いたいのはのですね。予期せぬ事故は、加害者も被害者なんだってことですよ。」
「それに、あなたの娘さんを殺した男は不運にも生きてしまっている。それこそ皮肉なことだ。」
「話を聞いていれば、自分は悪くないみたいに。」
ご婦人は、少し口調を荒げて言った。
「いえ、僕が悪かったんです。いくら急いでいたからといって、制限速度を守れなかったろくでもない奴だ。」
僕は自責する。
「たしかに原因は僕だ。だけど、一時の気の迷いだったんだ…」
「気の迷いで許されることじゃないでしょう?!」
ご婦人はかなり苛立ちを抱いているているようだった。
その苛立ちの火が燃え移るかのように、僕の心もまた引火した。
「僕だってこんなこと望んでなかった!まさかこんなことになるなんて…」
「現実逃避してないで、早く目を覚しなさいよ…」
「それは無理だ…例え目を覚ましても、もう覚めることはない。目を開けたところで、見えるのは真っ暗な黒と、赤だけだ…」
「もう何も見えないし、何も見たくない。」
***************************
日はとっくに地へと顔を隠し、光源が道行く街灯だけとなった頃。
残業を終え、遅くなってしまい、何としても十二時までには帰宅しなくてはと車を走らせ、家近くのトンネルを抜けたところだった。
微睡みから覚めて次に目に入ってきたのは、闇夜を照らす赤い光と真っ赤な液体。
目の前には、自分が担当していた女学生が頭から血を流し、道路に投げ出されたように横倒れていた。
今自分の手によって無惨にもそうなってしまった少女が…
目の前のとても信じ難い、否、信じたくない光景を前に、もはや器具を使わなくても充分すぎるほどに己の心臓の激しい蠕動が伝わってくる。
そして、今までしっかりと水晶体を通った光の像を、視神経が感じ取って脳に信号を伝達していた目は盲目となる。
外傷から見て、即死だろう。助からないことは一目瞭然だった。
それは、自分の人生が一瞬にして崩れ去り、真っ暗な闇になった瞬間。
僕が、救済者ではなく殺人者になる瞬間だった。
僕は前のめりになるようにして体重をハンドルにかけ、顔を伏せる。
これが悪夢なのだとしたら、どれだけ良かっただろうか。
しかしこの悪夢が覚めることはない。
しいて事を仕損じ、本末転倒。
瞳からは雨天の如く涙が絶えず垂れてくる。
夜を静寂が包みこんでいた中、その静寂を打ち破るようにして、僕の携帯の着信音が鳴った。
不安定な状態の中、着信音が鳴ってしばらくしてから携帯を手に取る。
"いつ帰って来れるの? 今日はあなたの娘の誕生日なのよ。
去年は仕事であなたが家にいなくて、あの子も悲しんでいたんだから。早く帰ってきて'
それは妻からの一通のメールだった。
僕は心の目で家族の心内を見るあまり、人間が元より有する、視覚器官としての目でものを見ていなかった。
その事象が、この悲劇を偶発的に招いた導因とも言えるだろう。
"ごめん、今日は帰れない。'
僕は幾度も返信の旨を熟考してから最後のメールを送った。
辺りはまるで真っ暗闇と言っても事足りない程に、それは暗く、黒一色に包まれている闇夜だった。
***************************
闇夜の翌日、"旦那が帰ってこない'という通報があり、
警察は出動した。
通報があった家の周辺を捜索したところ、トンネル近くの道路で二人の遺体が発見された。
死亡推定時刻は昨夜十一時五十分頃。
一人は十四歳の女学生で、車に撥ねられ即死。
もう一人は三十六歳の男性で頭からの出血多量で死亡していた。
事故現場と死亡者の状態から、女学生が男の乗っていた車に撥ねられ死亡し、男は事故を起こしたショックから自責の念に駆られて自殺したと思われる。
また、タイヤ痕があったことから、男性は事情があって帰宅を急いでおり、スピード超過して車を走らせていたことが分かった。
ご家族によれば、ご主人は正義感が強く、人を助けたい一心で医者を志し、仕事にも非常に熱心な人だったと語られた。
闇夜の失明 @smiler
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