第1話⑤ すげえ名前してんな
ふらふらと歩いて回ると、今は授業の時間――それもそうだ。真剣な顔をした学生が黒板に向かい合っている。本来学校とは、こういう場所のことを言うのだろう。
「やあ! また会ったね! 君も二年生なんだ!」
「その声は……今朝の」
「うん、わたしだよ! 君も転校生なの? 一緒だね」
「……」
まだ何も言っていないのだが、彼女にとって既にそれは確定したことらしい。というより、随分距離感が近い――秘密の共有は、彼女にとって人と人の距離を近付けるための重要な要素になっているようだ。
「ところで、君、わたしの教室知らない?」
「残念ながら。俺も自分の教室がわからない状況でね」
「じゃあ、これもまた一緒だねえ」
口元に長い髪の一房を持ってきて、その奥でふふふと笑う彼女。年頃らしさとミステリアス、その両面が彼女の印象をより引き立てていた。
「あ、そうだ。エレベーターの中で――」
「……エレベーター?」
「ん、いや、なんでもない」
青年は変わったことがなかったか女生徒に聞こうとして、辞めた。もし何かあったら、彼女の方から言ってきていることだろう。無駄にエレベーターの中での出来事を伝えて怖がらせることもない。しばらく二人で歩いていると、授業の終わりのベルが鳴った。
「出てきた先生に聞こう」
「そうだね」
「その必要はないわ。わたしがここにいるのだもの」
「……!」
しんと身の奥に響くような冷たい声が耳朶を打ち、二人は振り返った。
そこには玲瓏に腕を組み、優雅にも制服の裾を揺らす冷徹の君、御鈴波途次がいた。目が覚めるような美人、彼女を形容するのはその一言でいい。御鈴波は二人のことを一瞥すると、付いてきなさい、と一言だけを発し、東棟に位置する一つの教室に二人を連れた。廊下には足音が三つ並んだが、一つはヒールの音だった。勿論、響かせているのは御鈴波だった。
「わたしは御鈴波途次。この学校で生徒会長をしています。既にあなた達のことは、今朝の事件も含め聞き及んでいます。迎えが遅れてすみません」
「い、いえっ、生徒会長さん直々にお出迎えいただけるなんて……恐れ多い」
「気にしないで。随分大変だったと思うけれど、次の授業の担当の先生にも連絡しておくわ。ぜひこの糺ノ森学園を楽しんで。
「ありがとな……」
青年は彼女が貼り付けた笑顔の中に、微妙に怒気の香りがすることを見逃さなかった――というより、見慣れているからわかってしまった。御鈴波途次という人間は、いつもこうなのだ。笑っている時が、一番怒っている。御鈴波のことを知らなければ、ただの美人な生徒会長がお迎えに上がってくれただけなのだが。ということは、今日はもう既に家に帰ったらお小言を頂くことが確定したということになる。
彼女が立ち去った後、青年は大きなため息を吐きながら一番うしろの窓側の席に座った。右隣には女生徒が座った。転校生といえば人だかり――というのがお決まりのパターンだと青年は認知している、というよりも、今までの人生がそうだったから、それはどこに言っても当然そうなのだと思いこんでいた。しかし、糺ノ森高校では、その常識はいともたやすく打ち破られてしまった。
……誰も、誰も自分や女生徒の周りに寄ってこない。誰しもが自らの領域で、あるいは友人と作り上げた領域から出ようとしない、よそ者にがっつくのは品がないと思われるから避けるのか――それとも、それほどに入れ替わりが激しいのか。女生徒は心細そうに青年の方を何度も振り返った。やがて休憩時間の終わるベルが鳴り響き、授業が始まった。
始まってしまいさえすれば、こちらのものである。青年は空を眺めるのが好きだった。ぼんやりと空を眺めているだけで何時間でも過ごしていることができる。それに、元から勉強は求められていない――青年が求められているのは、望まれた人間を始末する、ただのエージェント業務である。
青年は、この日々を気に入っていた。難しいことは何も考える必要がない。言われたとおりにしていれば温かい家に帰ることができ、食事に困らず、適当に遊んでいることができる。差し込む太陽の日差しの影に溶けながら、ぼんやりと過ごすだけで良かった。そして今日も、一日が終わろうとしている。授業は既に最終コマを回り、後は終礼を残すだけだ。
終礼では、ようやく自己紹介のタイミングが用意された。形式張ったものではあるが、教室の雰囲気自体は明るかった。
「それでは、今日からの転校生が二人いるから、自己紹介をお願いします。二人共前に出て。名前と、簡単な自己紹介を」
名前、自己紹介――その言葉は、青年と女生徒、両方の表情を変えた。
「名乗るほどのものでは――」
先に拒否を繰り出したのは、案外女生徒の方だった。
「なにいってんの。これから一緒の教室で学んでいくんだよ? いくらお高く止まったって、名前くらいは告げるのが礼儀――。それが
「い、いや、そういうつもりじゃ……」
すっかり困った顔の女生徒。何が彼女をそこまで駆り立てるのか――青年には、思い至る節があった。もしかすると、彼女は同じなのかもしれない。青年は眉間に皺を寄せ、険しい顔のまま立ち上がった。ここは、男を見せる時である。
「じゃあ、俺からやるッス」
「あ。あ――そんな、わたしも、同時でお願いします」
遂に退路を失った彼女は顔色を失くして、やぶれかぶれに同時宣告を申し出た。
名前――彼女が極めて過敏に反応したのはそこだ。つまり、彼女の知られたくない部分。
『名乗るほどのものではない』その口癖には、理由がある。
二人は黒板に、大きく横書きに名前を書いていく。一方は険しい顔で、また一方は目尻に少々の涙を浮かべ――
二人が名前を書き終わった時、教室はざわめいていた。
おい、こんなことあんのかよ。
偶然にしたってよ、よく出来すぎだろ。
誰しもがひそひそとその名前に困惑の感想を寄せていた、そしてそれは、顔を見合わせた青年と女生徒も同じだった。
「俺の名前は、
「わたしは、
爆発的に教室が笑いに包まれた。おどおどしていた丁子は、やや乗り遅れる形になって、圧倒されていた。
「『ゴッ太郎』って、面白すぎるだろ! どんな名前なんだよ? 本名か? 本名なのかァ?」
一人の男子が爆笑を堪えきれずゴッ太郎の方を指差しながら聞いた。
「ゴッ太郎は、マジです。マジゴッ太郎です」
青年は、マジだった。マジでゴッ太郎という名前なのだ。生まれきってのゴッ太郎なのである。
「ゴッ太郎って……ゴッは本当にカタカナでいいの~?」
派手な金髪を上品に巻いた育ちの良さそうな女生徒が興味深そうに聞いた。
「はい、ゴッのゴッは半角カタカナのゴッです」
「きゃははははサイコ~ゴッ太郎くん~!!!」
「山田太郎なら普通に居るのによお、なんでお前『後』付いて『ゴッ』まで付いてるんだよ!」
「インパクトぉ、ですかねえ」
「特技は?」
「日常の中の思いがけないシーンで五七五を見つけることです」
「お前、サイコーだな!」
「ゴッ太郎に比べたら、勘解由小路丁子、長いけど普通の名前に見えるな。感覚狂うわ」
「お二人とも良いお名前ですね~」
ホームルームは思いがけずの大盛況だった。妙な名前が二人続いたというのに、ゴッ太郎が全てを持って行ってしまった形である。終礼が終わりみなが家路に着く中、校門を出たゴッ太郎に、丁子は近付いて手を握った。
「……なんだァ」
「ありがとう、ゴッ太郎くん」
「なんのこったよ」
「わたしが怖がってるの見て、前出てくれたんだよね?」
「いや、そういうアレでもない」
「そうなんだ! でも、ありがとう。わたしね、自分の名前、変だって思って、やだなあって思って生きてきてて――それで、前の学校でも名前ですごく嫌な思いしたから……」
「そっか。大変だったんだな。なんだ――もし恩に感じてくれてるなら、明日、放課後空いてるか?」
丁子の顔は、りんごのように紅潮した。人生十六年、丁子は初めて男の子にデートに誘われているのである。本日初対面で、助けられたり助けたり、またまた助けられたり――これって、運命!? 年頃の乙女にとって、その誘惑は大きかった。
「えっと、空いてる、よ」
「じゃあ、遊ぼうぜ。決まりな」
「――ッ゙!!!」
丁子は衝撃で吹き出しそうになりながら、人生初めてのデートの約束を取り付けた――。彼女の脳内は、既に花畑が満開になっていた。
ゴッ太郎のポケットの携帯端末が鳴り響き、彼は誰かと話していた。丁子にはその横顔がなんとも仕事人に見えた。
「わりィ、ちょっと急ぐわ。また明日な」
彼が足早に立ち去ってしまうのを、丁子は追いかけたくって仕方がなかった。けれどここで追いかけるとしつこいと思われそうで――それはできなかった。けれど明日学校に行くのが、本当に楽しみになっていた。
「ゴッ太郎くん……いい人だなあ……ちょっとかっこいい、かも……」
家に帰ってから夜が更けるまで、丁子のカワイイへの追求は続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます