第1話⑥ 標的

 ――勘解由小路丁子。

 ゴッ太郎はその名前を知っていた。

 正しくは、既にその名前を『聞いていた』。

 標的の細かい情報は例のごとくいつも通り聞いていない、それはターゲットに情を移さないため――ゴッ太郎が行ってきた一種の精神的防御策であった。


 しかし、運命の悪戯があった。


 勘解由小路丁子――彼女こそが御鈴波からを依頼された標的なのだ。彼女を抹殺することが依頼の達成条件――しかし、ゴッ太郎は既に何も考えずに彼女を始末できるほどの軽い関係ではなくなってしまった。彼女に命を救われたのである。

 そうなれば、彼女をただ狙って殺す――その行動は、ゴッ太郎の最も忌避する『恩知らず』な行動であった。


 整列された街の夕暮れの中に溶けていくゴッ太郎の足取りは重い、しかし歩き慣れた汚い下町に辿り着いた時、駅前の騒然とした雰囲気に、なんとなく気分は軽くなった。草臥くたびれた町中華や、商品が剥き出しに置かれた八百屋、主婦用の安い二輪が店先に並んだ自転車屋、その全てが穏やかな時間を演出している。その適当な空気感が、ゴッ太郎の精神を育んだものだった。


 この街の中なら、ゴッ太郎はどこにでも行くことができる。躊躇わせるものは何もなかった。駅前のマンションの階段を登って、三階の四号室に辿り着く。ドアを開けると、リビングの方からは電子音が響いていた。上海が既に帰ってきているのだろう。玄関でひっくり返った小さな靴を拾い上げると、整えてかまちを踏む。


「上海、ただいま」

「おかえり、ゴッ太郎!」


 リビングでは、いつも通り上海がモニターにゲームを繋いで遊んでいた。棒の刺さった変な箱――アケコンというらしい――をガチャガチャいじくり回しながら、画面の中の筋肉隆々マッチョの大男を操って遊んでいる。


「どうだった? あたらしいガッコ」

「どうもなんも、超不気味だった。朝から死にかけた上に、学校のエレベーターの中で襲われたんだぜ?」


 ゴッ太郎の言葉を聞いた上海は、小さな頭の大きな瞳をぐりぐりと動かしてうっとりとしてこちらを見た。星でも降るような虹彩がうるうると動いて、嬉しそうに言葉を待っている。


「おいおい、心配してくれねーのかよ」

「ゴッ太郎、帰ってきてるもん」

「確かにそりゃそうだ」


 学生カバンを放り投げると、棚に刺さった菓子箱を取り出す。ほんの数日前にいっぱいに満たしておいたのだが、既に上海が殆ど食べてしまったらしい。小袋のマシュマロが少々残っている。


「上海、マシュマロ食うか?」

「食う! 上海も」


 マシュマロの封を開けて、ゴッ太郎は上海の後に座り込んだ。甘くて柔らかい石鹸の匂いがする。ゴッ太郎があぐらをかくと、上海は尻を引きずったまま器用にゴッ太郎の膝に乗り込み、マシュマロを口の中に放り込んだ。マシュマロの滑らかな表面と、上海の柔らかく肌理きめ細やかな肌は似ていた。


「んむ、おしい」

「おいしい、な」

「おいしい。ゴッ太郎、ちょっと、足開いて」

「ん」


 座り心地が良くなかったのだろう。彼女はおしりの位置を調整すると、そのまま遊び始めた。ゴッ太郎といえば、今日を振り返って大きなため息を一つ漏らした。


「オッ……ゴッ太郎、こしょばっ! あっ――」


 息が首元にかかったのか、背中をビンを張り詰めさせた上海の手は、アケコンからすっぽ抜け、画面では大きな文字で『K.O.』と文字が広がる。勝負は決していた。


「あーーー、ごめん上海」

「……もういい、今日は」


 アケコンをぽいと転がして、上海はゴッ太郎のお腹に転がり込んだ。同じ小学生の中でも、上海の体格はかなり小さい部類に入る。彼女にとっては、ゴッ太郎の体は十分な寝台になる。


「今日、どんなだった? 上海の方は」

「なあんにもないよ」

「そうか……そりゃあ、善哉ぜんざい善哉ぜんざい

「ぜんざい、いいな……食べたい」

「また今度な~」


 斜陽の差し込む窓際が、黄昏の終わりを告げていた。夜闇が徐々にリビングを満たしていく。二人は溶けるように床の毛足の長いカーペットに吸い込まれて、そのまま夢に吸い込まれていった。


「ゴッ太郎!」

「はいっなんでしょうか」


 暗い部屋の中に怒声が響き、浅い眠りにあったゴッ太郎の体は急激に縦になった。


「ぴっ」


 腹の上に乗っけていた上海が転がったが、どうもまだ眠っているらしい。辺りを見回したゴッ太郎は、玄関が開いて、電灯が点いていることに気が付いた。レジ袋がくしゃくしゃと擦れる音もある。――御鈴波が帰ってきたのだろう。ということは、お小言があるということでもある。


「御鈴波、おかえり」


 玄関に出ると御鈴波はレジ袋を框に下ろして、顔を真っ赤にしていた。恥ずかしがっているのではない。お冠なのである。


「ただいま、ゴッ太郎。あなた、遅刻した上に――何かしら、あの事件は」

「――あの事件、と言いますと、お嬢様。やはり今朝の俺がトラックに轢かれかけた一件でございましょうか……」

「それ以外にある? あるのかしら、ゴッ太郎」

「ない、ないです。すいません。いやでも、聞いて、聞いてもらえないですか、言い訳を……」


 御鈴波が怒っている時、ゴッ太郎はどうしてもたじたじしてしまう。彼女のことは好きだ。彼女のお陰で幸せな日常を送れている――その自覚があるから、余計に言い返すのも烏滸がましい感じがして、結局ゴッ太郎はいつもサンドバッグだ。言い返したいと思う日もないことはないが、言い返したところで御鈴波の口撃には勝てない、反論には反論が返ってくる。


 よって、受け容れるしかない……辛くも虚しいが、少しずつ時間をかけて改善していきたい。昔はこんな口うるさくなかったのにな――御鈴波と長年ともに在る、ゴッ太郎往年の悩みであった。

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