第1話④ エレベーターの怪

 ……災難な一日だった――。

 そうつぶやく青年を、白昼の天道を鈍色に反射したコンクリートがまるで鏡面のように上下から焼いていた。


「腹が、減ったな」


 通報からの、聞き取り三時間コース。あれほどの大事故だ、無理からぬことだろうが見聞きしたこと全編を嘘で通す必要があったというのが厳しかった。あんまりにもしつこく益体のないことを聞かれ続けたものだから、一時は『あの女生徒が飛び出してきて助かったんです』――そう言ってしまおうか、本当にそんな風にさえ思った。どうせ言ったって信じてもらえるわけがないのだから。学校関係者は一応交番までやってきたらしいのだが、どうも生徒に怪我がないことを知るやいなや帰ってしまったらしい。


 交番から随分歩き――ようやく踏み入った糺ノ森高校の敷地は、見上げれば白の孤城めいてどこまでも高く、大きな時針と秒針が設えられた楼閣のような場所だった。正門は部外者を拒むようにピタリと閉じて、品の良さそうな受付の女性が守衛のようにこちらを見ている。不審がられているついでに質問をしておくか、と首をそちらに向けた途端、あちら側から声が飛んできた。


「……あの、お困りでしょうか?」

「ああ、すいません。自分、今日からの転校生なんですけど、二年の教室ってどこにあるんスか?」


 彼女は大きな蝶のバレッタで明るい色の髪を留めた大人っぽい女性だった。彼女は青年を見ると少し首をかしげて怪訝そうな顔をしながら、受付から身を乗り出して奥に続くホールを指差した。


「二年の教室でしたら、奥のエレベーターで六階に移動してください。学生証は持ってますか?」

「あ、それならあります。ありがとッス」


 青年は足早に受付を去った。既に遅刻どころの騒ぎではない――きっと担任にも連絡が行っているだろう。しかしそれ自体が問題な訳では無い、問題はそのことによってほぼ間違いなく御鈴波が怒るだろうということだった。

 奥に進むと、やけに広い円形のホールが現れた。真上から見ると首の長い花瓶のような形に見えるだろう。花瓶の底面に見立てられる部分には合計六つのドアが並んでいる。物言わぬドア達に圧倒されながら、呼び出しボタンを押して学生証をかざすと、静かにそれはやってきた。

 ほぼ無音で開いたエレベーターの中はかなりの大きさで、学生なら詰めれば三十人くらいは入れそうなくらいだった。過剰に大きいと行って差し支えないだろう。昨日まで階段しかない学校に通っていた青年にとっては六階、しかもここまで大きいエレベーターというのは当惑の一言に尽きる。

 静かに閉じたエレベーターが上昇していく中で、薄っすらと誰も居ないはずの背後が気になった。間接照明のぼんやりとした光に翳されるように、何かの影が動いたような気がしたのである。


「……なあ、そこ、誰かいる?」


 返答はない。耳を澄ましても呼吸音はない。


「なあんだ、俺の勘違いかなあ……」


 青年はポケットから手を引き抜いた。エレベーターは上昇していく、階層を表す電子板は既に三から四へと数字を進め、六階まではもう十数秒たらずで着くだろう。青年の背後には、清浄に設えられた無機質な学園都市が映っていた。美しく、単調で、どこか嫌味っぽい。


「一人ぼっちじゃ寂しいしよぉ、歌でも歌っちゃおっかなァ~~~、おッきぃ声でよぉ~~~!」

「……やめろ! 動くな。無駄なことはしたくない」


 声は背後から響いた。冷たく低い、男の声だ。同じ学生だろうか。青年は静止を嘲笑うように振り向いた。舌をちろりと見せて、ほとんど臨戦に近い。


「やァだよ。なんで俺のことコソコソ追尾けてるヤツの言うことなんか聞かなきゃいけねンだよ」


 電子板の文字は五階を示した。目当ての六階まで、後五秒あるかないか――。


「目的はなんだよ、言いやがれっ――」


 天井に、二つの金色の瞳が光っている。同じ学生服だ。その男は白無垢ののっぺりとした仮面を付けて、黒髪に金細工の蹄のピアスを付けていた。まるでムササビやコウモリが枝にぶら下がるみたいに、なんの取っ掛かりもない天井に張り付いてこちらを見つめている。


「……お前にそれを伝える必要がどこにある」


 エレベーターは遂に鳴った。


「時間切れだぜ、コウモリ野郎」

「お前のな。今朝のような幸運は、二度も続かない――!」

「……おっとぉ? 耳が悪いみたいだなァ。もう着いちまったぜ! やれるもんならやってみなァ」

「扉はまだ、開いてない」


 ギシ、エレベーターが鳴った瞬間、男が青年の背後に向かって跳躍し、再び視界から消えた。エレベーターの中がいやに広いせいで青年は男のことを見失った。首を反対側に回した時、目の端に男が映り、再び消えた。体をそちらに反転させようと左足を軸に回転をしようと体重を移動させる。扉は開きつつあった。再び静寂がエレベーター内を支配する。しかしこれは、嵐の前の静けさだ。


「どこに……どこに行った?」

「貴様の負けだ。この学園に、貴様の居場所はどこにもない――異端者め。我が美しさに溺れて消え去るが良いヒョゥァ!!!」


 声とともに、青年の真上から氷のような鋭い鉤爪が降った。体重移動の最中だったこともあり、青年は動けない――男の爪はまっすぐと青年の頸に近付いてくる。

 あろうことか、青年は必要以上に動かなかった。そのまま、前傾して沈み込んだ。


「バカめ……! この鉤爪から、しゃがむ程度で逃れられるとでも――? この闘牛士の爪カルメン・マタドールの爪術は、怯えた獲物を狩るための……」

「そんなことして逃れる必要はない……必要なのは、こうだァ!」


 青年は跳躍していた。沈み込んだのはしゃがんで避けるためではない。前跳びするための移行動作だったのだ。勢いよく飛び上がった体は、既に男の爪の射程ではなかった。天井から放たれる爪は下方向に向けて強いのであって、上に強いわけではない。跳ばれた時点で狙いは外れ、ダメージは最小になることが決まっていた。

 爪は青年の腹部に掠り、制服に破れを起こした。背後に立っていた男がすぐに二段目の攻撃に移ればその背中はがら空きだったろう。しかし青年が着地した時、既にエレベーターのドアは開いていた。


「開いたけど、続きやるか?」

「クッ……貴様! どこまでも耳障りなとぼけた男! しかし見ていろ、今に貴様のようなマータは滅びる――覚えているが良い!」

「すげぇなアンタ、言ってることが負け犬の遠吠えの見本市みたいだぜ」

「黙れ! 最後に笑うのはワタシだ――!」


 男はエレベーターホールに向かって跳躍すると、やけに広い天井を伝ってどこかへ消えた。

 青年は一つため息を吐く――もう少し御鈴波に話を聞いておくべきだったかもしれない。ここまで変なやつばっかりの学校とは知らなかった。さっき出てきた男は今朝の女生徒のようなトンチキパワーではないようだが、こちらのことを知っている。


「まあ、いつもどおり行こう。事を荒立てねェように――」


 青年は首をひねる。こちらは何もしてないはずなのだが――ものすごく狙われているらしい。しかもあの言い分だと、『これからも襲います』と言っているようなものだ。他の人が巻き込まれないと良いんだけどなあ――青年はどこまでも牧歌的であった。

 エレベーターホールを抜けると、環状の通路が見えた。中心に大きな柱があり、それを取り巻く円状に教室が配置されている。中心部には品の良いソファや小さな本棚、どう見ても生きているようには見えない観葉植物など、その光景は学校というよりもモデルルームに近かった。東向きと西向きの通路には渡り廊下があり、その先にも大きな柱が見えた。どうもこの建物はいくつものセクションに隔てて建物が作られているらしい。

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