第四話・「無意味に無情に(2)」


 「はっァ―、はっァ―、はっァ―、はっァ―……」


 過呼吸。滝のように汗が漏れる。鼓動が狂ったように波打つ。痛みが超過する。希薄な感覚。脳が白ける。心が綻ぶ。体躯たいくが砕ける。形が霧散する。ほどける、壊れる、崩れる。震える震える、震えた。零下に落ちる。境界がぼやける。止まる止まった、動かない動けない。頭が割れる、砕、ける、壊れ、レ、れレレ……――


 思考が定まらない――

       ――――嫌だ。


 意識が纏まらない――

       ――――めろ。


 状況判断がつかない。

 一体何が起きて……一体どうなったのか?

 わからない、分からない、わからない、わからない……――

 間違ってる――こんなことが在っていいわけがない、この世界/現実は間違ってる。

 こんなのが結末だなんて嘘だ!

 「勇夫さんッ!」

 グチャグチャになった己を無理やり動かし、そこにいるであろうモノへ駆ける。

 現実を直視できない目で現実を見て――崩れる。

 「はっァ―、はっァ―。うあっぁあ、……あッ゙、ああぁぁぁアアアアァァ――ッ゙」

 ――発狂。

 頭を押さえつけその場に項垂れ、足元を濡らす赤い液体に絶望した。

 とても受け入れられない現実。

 それはあまりにも残酷に――

 それはあまりにも冷酷に――

 残ったモノと共に突きつけられる。

 「うっあッ、あああああああああああああ!!! どうしてッ! どうしてこんなことにッ!」

 すぐさま俺は勇夫さんを抱き抱え、これ以上血が溢れてしまわぬように震える手で傷口を押さえつける。

 地面には赤い水溜りと骨や肉が散らばっている。

 噎せ返るほどの血の匂い、弾き飛んだ下半身からこぼれる内蔵。これ以上飛び出ないように強く押さえつけ、彼を助ける方法を必死に考える。

 生暖かい血液が手を濡らし、死を明確に感じ取る。

 「ああぁあ……ああああああッ、クソクソ!」

 無力さに項垂れている暇もなく、俺は思考をこの人を救うために費やす。

 考えろ考えろ! 大丈夫だ! きっと……きっと何とかなる筈だ。

 荒れる心を鎮めるように何度も大丈夫と唱え、可能性を見出せるようにする。

 ゴドンゴドン、と背後の建物で何かが暴れている。どうやら、あの何かは勇夫さんにぶつかった後、建物に突っ込み抜け出せなくなったようだ。倒壊した建物から破砕音――抜け出そうと必死に暴れているのがわかる。

 しかし、そんなことは今はどうでもいい。今は一刻も早く勇夫さんを助ける方法を考えなければならない。

 「はっァ―、はっァ―、はっァ―、はっァ―……」

 過呼吸な息。冷静さを欠いた今、自身の状況など理解できていない。どんなに身体が異常な状況にあろうと、ただ無理やり脳を回し、この状況を打破する方法を思考する。

 考えれば考えるほど――絶望的な状況。

 一秒経過する毎に頭が真っ白になる。


 「はっァ―、……」


 一呼吸毎――世界が色を失う。


 「はっァ―、…………」

 

 周囲の音が耳鳴りに掻き消される。


 「はっァ―、…………――」


 張り裂けそうな心臓の音だけが響く。


 「はっァ―、…………――――」


 全ての感覚が希薄になる中、そのの温かさだけを明瞭めいりょうに感じた。


 次の瞬間――頭の中で言葉が溢れた。

 無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ――


 ――――


 非情な現実――

 俺の力では何もできない、俺では救えない。

 どんなにくしても、どんなにしても――何もできない。

 手から伝わる命の熱が、無情にも現実を知らせ、無価値な逆刃大叢真は、その現実を受け入れることもできずに、ただ茫然とのぞくくことしかできない。

 震える体は今も必死に抵抗を続ける。意思とは無関係に、その死に体を必死に抱え続ける。

 ――俯き項垂れる。

 見たくない現実から目を背けるように、瞳をギュッと閉じる。

 「うぅっ……、っ――!」

 不意に下半身を押さえる左手に、優しい〝ぬくもり〟を感じた。

 驚き目を見開くと、左手には勇夫さんの右手が握られていた。

 「い、勇夫さん!」

 すぐにそう呼び掛ける。

 「ああ……良かった」

 か細く力のない声でそう呟いた。

 今にでも溢れてしまいそうな涙を押さえ、声を掛け続ける。

 「大丈夫です! 絶対何とかなりますから! だから、だから頑張ってください!」

 そんな現実は――

 でも、俺はそんな言葉を投げ掛け続ける。無意味でも、無価値でも、それでもそんな言葉を繰り返し、何度も言い続けた。

 すると、勇夫さんは優しく笑みを作った。

 「誠臣まさおみ……良かった、お前が生きていてくれて」

 「え」

 「今回は、助けられたのか。ああ……本当に、良かった」

 意識が混濁こんだくしているのか、彼は俺のことを息子――誠臣さんだと思っているようだ。

 俺を見る勇夫さんの表情はとても安らかだった。

 ずっと後悔していたんだろう。ずっと自分を呪っていたんだろう。

 何もできない自分を殺したいほど憎んで――でも、残ってしまった自分は、それでも生きなければならなくて。死者と生者の間で葛藤した。

 もしかしたら、この人は……のかもしれない。

 …………。

 もう〝俺〟が言葉を送ることなんてできない。

 もう生きてほしいなんて言えない、もう――なんて言えない。だって、それらの言葉は足枷になって、せっかく救われる命を無価値にしてしまう。

 だから、俺は――

 「……。助かったよ――

 「そうか」

 勇夫さんの口元が綻び、はにかむような笑った。

 「父さん、ありがとう……父さんはこれからもずっと、俺の尊敬する父親だよ」

 「ハハ、それは、嬉しい、な……誠臣、これからも、お前は、ずっと私達の、自慢の、息子だ。胸を張って……

 「ああ、わかってる。父さん達を心配させないくらいしっかり生きる。だから――さっきに逝っていてくれ。俺もその内、往くからさ」

 「あん、まり……早くは、来るんじゃ、ないぞ……」

 小さく笑いながら、俺の左手を握っていた右手でそっと俺の頬を触れた。

 すると、俺は押さえていた涙を堪えられなくなり、瞳から数滴の雫を落してしまった。同時、勇夫さんの目が少し見開いた気がする。

 溢れた感情の栓を閉められず、必死に嗚咽を押さえていると、愛しい息子を見る目を見せながら、優しく頬を撫でた。そして――


 「……――」


 ニッコリと満面の笑みを浮かべて、勇夫さんは息を引き取った。

 「ありがとう……ございました」

 頬を触れる手から力が抜けたのがわかる。足元の水溜りはすっかり冷たくなった。周囲の熱気が凄まじい分、その冷たさはより強く俺の中で傷に変わる。

 この人からは多くのモノを貰った。もういい――あとはあの世で、また家族と一緒に安らかに休んでほしい。

 カチリ――と自身の中で何かが切り替わる。

 俺はそっと地面に勇夫さんの遺体を置いて立ち上がる。

 ドゴンッ、と大きな音を立て、瓦礫から黒い獣が這い出て来る。その相貌はやはり犬を思わせるが、体躯の大きさはやはり狼の方が近い。

 狼か、犬の近縁種か?

 などとそんなことを思いながら、両目を閉じ深呼吸をした。

 「ふぅ――、……」

 妙に心が落ち着いてる。俺にとってそれなりに大切な人間が死んだのに――もう心が

 不思議な気分だ。

 さっきまで冷静でいられる気がしなかったのに、今は勇夫さんのかたきであるこの犬を前にしても、復讐心のような負の感情の類が、まったくと言っていいほど湧かない。

 瞳を開き、地面に転がる死体に視線を向ける。

 …………。

 おかしい。心が動かない。さっきまであんなにも悲しみが心を汚染していたのに、今はソレを見ても何の感情も発露する気配がない。

 スッと視線を犬へ向ける。

 逃げることが最優先か……いや、無理か。

 冷静に状況判断を行う。肉体疲労がピークに近い今、勇夫さんを一瞬で殺したコイツから逃げ切れる気はしない、逃げるのは得策じゃない。かといって、戦って勝てる気もしないけど。

 「――生きろ、か」

 ボソリと呟く。生前も、ついさっきも言われた言葉。

 言葉でいうのは簡単だけど、それは言葉以上に難しいことだ。どんなに生きたくたって死ぬ時は死ぬ――それはもう何度も見たじゃないか。

 でも、だからこそ――

 「ここは――死んでも生きる」

 感傷じゃない。怨念じゃない。義務じゃない。

 残ってしまった者は、残されたモノは次に繋げなければいけない。ゆえに、残ってしまった自分を果たす為、俺は全霊を持って生きる――生き残ってやる。

 死者から受け継いだ価値を、こんなところで潰えさせるわけにはいかない。

 視線は鋭く黒い犬へ向け、浅く息を吸った。

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