11

表情は笑っているのに目は笑っていない、どんな取り巻きにもそんな人間は存在するのだろうか。

先ほど定期券を受け取りに来た女性客は、転職すると言って嬉しそうに窓口を離れていった。本当は何かのっぴきならない事情があるのだろうと、西山は去り行く背中を見つめた。


岩「あいつ毎週のように読む本変わってないか?」

山本の昼休憩ははっきり言うとかなり特異である。まずその辺で買ってきた袋入りのパンだとか(焼き菓子の日もある)を左手に、右手でbbcだかguardianだか知らんが英語の海外ニュース記事を読む。英検1級だと私生活もああなるのだろうか。そして、アプリで電子書籍を読む。

そのタイトルが最近何やらおかしい。こないだまで「教養」をむさぼるように読んでいたかと思えば、今度は「交渉力」だとか「心理術」を読み始めた。営業職の俺でさえ少し警戒している。

なぜこのタイミングなのだろう? かつて山本は「人の心を知りたい」などと発言していただろうか? 自分が憶えていないだけなのか? どうせまたあいつ特有のエリートへのあこがれであろう、と言って自分を安心させる。剥がれかけたラベルを貼りなおすように、俺は決して彼から疎んじられているわけではないぞ、と確認する。

山「おめでとう」

岩「??」

山「決まったんやろ、転職」

岩「あ、オカン?」

岩谷の母は最近パートの仕事に採用された。神戸では有名なWLB認定企業の一つだ。

山「ほい。こないだ小磯で買ったキーホルダー」

岩「うわ地味に要らね」

山本は吝嗇な性格だったはずだ。それが最近急にお土産だと称してどこかの施設のグッズや焼き菓子をくれるようになった。


弓「なんで分かったん?」

弓子は缶コーヒーを開ける。デオドラント化された特有の香りが、天井のくすんだ駅事務室にふわっと香る。

西「呼吸が、悲しさを紛らわせていたから」

そういうときって人は瞳孔が開いて、呼吸が大きくなるの。どうぶつの本能と同じ。それで普段よりおしゃべりになったりするの。

弓「あの短髪の人、たぶん元パティシエだよね」

記入用紙の字めっちゃきれいやん。ああいう元から几帳面で美的センスのある人はパティシエに多いんよ。

「あと、促されても座らんかったやん。ずっとたちっぱの人にとっては、その方が快適なんやって」

西「そういや弓子さんお菓子好きでしたね」

弓「行きつけの洋菓子店と話しててもそういうのを感じる」

今度一緒に行ってもええよ。垂水の方やねん。


山「そうですか。ほなまた、よろしくお願いします」

文明の利器ってやつのありがたさを実感するのはこういうときだ。山本はいくつかの地域団体に入ってから、退勤後に歩きながら電話でやり取りすることが増えた。運転指令やタクシー無線に似た感触を感じる。

今度は河川敷でごみ拾いに参加する予定だった。その次週は公園ミーティングと山歩き。

このごろ、神戸では気がかりな報道が相次いでいた。といっても、不審火や強盗犯罪ではなく、どこかの地域政党が半ば強引な手法で交渉を進めていたとか、どこかの企業は表向きにはよさそうなことをしているが、実はこういう事情で実質ステイクホルダーをだましている等、そういった記事がメディアを賑わせていた。

「それで記事読んでああだこうだ鑑賞するやつは皆本質に気づいていないよな?」

山本はいつもの癖でうがった見方をせずにはいられなかった。福建麵の中華鍋を振りながら、こう思わずにはいられなかった。

少し前までは、そんな報道はむしろまれだった。火事だとか窃盗を取り上げるのが主だった。最近になってにわかにそういった色彩が強くなったのだ。

「ホンマに心配すべきはそこや。裏でメディアを騒がせて喜んでいる奴がいてもおかしくない。自分らが騒げば騒ぐほど、向こうの思うつぼや」

五徳から火花が散った。香辛料の香りが漂い、鼻腔を逆なでした。


食客を多用したのは、確か王昭君だっただろうか。漢文で読んだ気がする。あの当時には当然地域コミュニティなどというものは存在せず、さしずめ封建制が幅を利かせていたはずだ。

「今の神戸は時間軸のどちらに向かっているのだろう」


市バスの停留所を見ていて岩谷は違和感を覚えていた。利用者がまあまあ多いのに上屋がない停留所や、逆に1時間に1本しか来ないのに上屋が完備されている停留所もある。まあ、神戸において市バスを使う人間は、停留所近くの住民に限られている気がする。電車と徒歩でたいていのところは行ける。

逆に市バスを使わないと到達できないところと言えば、ひよどり台や神戸北町などの近郊区や山間区だ。周辺に鉄道駅がなく、市バスが生命線になっている。そういった路線では利用者が多い。

「みたいな話をあの子がしてくれたんだよなあ」


平穏に過ごした日ほど、寝つけないのはなぜだろう。

垂水しみずは布団の中で寝返りを打っていた。右へ数分、左へ数分、何度繰り返しても寝心地が変わらないことは分かっているはずだ。

こういう時はふと、過去の出来事にそっと思いをはせる。


「自殺願望や無差別殺人ってのは悲嘆してああなるんやないんや。水素爆発のように行き場のない不明な感情が無理に外に出ようとしてああなる」

沸騰した薬缶の口を抑えると爆発するのと同じ。山本はかつて、淡々とそう話した。あたかも、新聞紙から切り取られた評論のように。

彼ほどではないが、似たような状態に陥ったことはある。自己嫌悪と自暴自棄を繰り返し、なぜ自分はこうも不完全なのかと問わずにはいられなくなる。そして次のソースコードは、“がむしゃらに怒りを表現する”だ。これは決して“制御不能”ではない。精神が空中分解する最悪の事態のを防ぐためにそうするのが最善の策なのだ。そういう状態の人間をいさめようとも慰めようとも無意味だ。

彼女は小学生時代からよく、男っぽいねと言われることがある。目つき顔つきがそうなのか。

弓子はその現象にうすうす気づいていた。彼女の眼は9割は「普通の目」なのだ。単に対象をとらえ、目線を受け取り、穏やかに感情を表現する。世間のイラストやアニメで描かれるのは通常こちらだ。

しかしその目は、ナイフの刃やカットされたダイヤモンドの原石、花崗岩の結晶模様のように、鋭利になることがある。彼女を見かけると目をそらすのはこちらの方だ。たいていは周りに人がいない時や、休憩時間や、一人で過ごしているときだ。決して他人に見せることはない。

弓「ああいうときに考え事とか独り言とか他人の思考を探っているんやろな」

人間には誰しもそういう時間が必要である。決して会話にもブログにもSNSにも出ない、安易な哲学に似た、しかし本人にとっては大まじめなお遊戯が。


自分の経験上、動かないことが最大のリスクで、何か新しいことを始めてえらい目にあったことは、ほとんどない。最後は自分がどれだけ動いたかが評価される都市なのだ。歴史的には大胆さが報われている。おとなしさには代償が伴う。



山本が帰りに寄ったのは、市内の美術館であった。別に教養のためではない。たんに美意識を鍛えたいだけなのだ。

まず遠くから眺める。そして各パーツの向きだとか色使いを見る。そうすると当時の作者の感情が読めてくる。

山(気のせいやろか。やたらとこいつ体を折りたがるよな)

裸婦画なんかを見ていても、たいていそういう姿勢なのだ。

おとなしいね、と彼は周囲から言われて育った。しかし岩谷に言わせれば、あれはタダの寡黙じゃない。心の内では1秒間に猛烈な計算処理をしていて、本来はおしゃべりなのだ。子供が親に連れられてお出かけしているときと同じだ。単に外部に出力されないだけ。


垂水というのは不思議なところだ。

他の神戸のどの区にもあるようで、どの区にも似つかないような光景が広がっている。西区で育った西山にとっても、自分を自由にさせてくれる空気が流れている。

西「名谷町ってここやんね。こんなところにケーキ屋あるんやねえ」

いかにも最近独立開業した飲食にありがちなことだ。あえて郊外に店を作ることで記憶の形成を促し、地域密着と少数の熱狂的ファンで稼ぐ、西山にとってはこういった洞察はルーティンだ。

「珍しいですね。バスクチーズケーキ買っていかれるの、昨日は一人だけでしたね」

なぜそんなに行動力があるのか、と私に質問してくる人間は、最初から行動するのを放棄しているような人間がほとんどだ。かつての高校の地学教師が言っていた。

「機会を逃すな。どんなに素晴らしい考えも、時機を逃すと化石のように陳腐化してしまう」

当時、地学教室でそんなふとした発言に耳を傾ける生徒はいなかっただろう、しかし、彼女にとっては、大げさではなく、人生が変わった瞬間だった。

Step out of your comfort zone.

あの山本という男もその一人なのだろう。動けないのではなく、単に経験が無いからやる気にならないだけだ。朝の福田川は、何色というのかわからぬ半透明の水面が、健康的な朝日を反射する。

岩「ああ確かに憶病な男や」

しょーもないことで1週間ずっと悩んでいるし、半年も前のことを、あれもできた、これもできた、と言っている。まるで依存症か自慢話ばかりする老人のようだ。

岩「脳味噌に忘れるという機能がついているのはそのためなんやろな」

お前の同僚はこういう類の話をするからきっと聞いたことがあるだろうが、忘れるというのは新たなアイデンティティを創出する瞬間でもあるんや。狂言の能面が変わるように、それまでの出来事は無駄だったと言って捨て去る。

岩「それができるかどうかに人の器量がかかっている。現世と来世。最後はどうせ死ぬんだ」


弓「メンタル豆腐って言い方、面白いよね」

岩「そうだな。突っつけば崩れてしまう。こちらが力加減を適正にすれば、崩れずに済む」

弓「でもメンタルって、豆腐くらいがいいよね」

 だってさ、鋼で作ったらいずれ歪んだり折れ曲がったりするやん。豆腐は揺れても最後は元に戻るでしょ。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る