第2話

「件くんが東伝くんのところに行っちゃうと、こうして気軽にごはんを食べに行けなくなるから、少し寂しいね。月一で食べに行っていた飲食店がつぶれちゃったくらい寂しいかも」

 トンカツを咀嚼しながら愚昧さんは呟く。口腔に食べ物が入っている事実に無頓着な口の動かし方。物憂そうだが、陽性で、品性が感じられる声。開閉の領域は最小限に抑制され、咀嚼されるトンカツが垣間見えることはないため、汚らしさは感じない。

「寂しいね。気軽に食事もできないっていうのは」

「でも確か、週に一回お休みをいただけるんでしたよね」

 対座する栄田くんは、対照的に口内の肉片をしっかりと嚥下してから言葉を返した。

 注文したのは二人とも、大盛のトンカツがメインの定食。痩せの大食いの愚昧さんは追加でチーズハムカツの単品を頼んでいるが、料理の減り具合は彼女の方が一歩早い。

 愚昧さんは本日も首元を飾る暗灰色のストールの上にこぼれた、トンカツとチーズハムカツ、どちら由来なのか判然としない衣の破片を左手で払い落し、

「そうそう。でも、厳密な意味での自由ではないからね。自由なんて言葉を使うと大げさだけど」

「夢を叶えるためですから、それくらい平気です。全く休みがないのであれば、気持ちもまた違っていたと思いますが」

 淡々と答えて、大きめのトンカツの切れ端を千切りキャベツもろとも口に入れる。直後、背後で椅子が倒れた音がした。

 子供連れの客なども大勢訪れていて、『紀尾井坂の虎』の店内は騒々しい。倒れた音はそう大きくなかったが、発生源は背後。驚きのあまりトンカツとキャベツを解き放ちそうになった口を反射的に左手で押さえ、栄田くんは振り向く。

 椅子を倒したのは、鼠色の襤褸をまとった、バタ臭い顔立ちの白髪の小男。栄田くんから視線を注がれたのを引き金に、両手を軽く広げて歌い始めた。英語でも中国語でも韓国語でもない外国語で、節目節目に巻き舌になるのが特徴的だ。

 お世辞にも上手いとはいえない。歌声の芯に毅然とした美麗さが宿っていて、発声した瞬間は美しいと確かに感じられるのだが、伸びやかさに欠け、空気を震わせる時間が募るにつれて音質が劣化していく。その速度が駆け足だから、聞いた瞬間の好もしい印象を聞き手はあっという間に忘却してしまう。

 それでも、身振り手振りをふんだんに交えながら、感情表現豊かに歌う姿を見ていると、第一印象とは別種の好印象が胸の底に滲む。栄田くんは歌声を堪能し、口の中を空にしたのを潮に顔を正面に戻した。

「ほんと真面目だよね、件くんは。そういう真面目な年下くんだからこそ、いっしょに過ごすのがこの上なく楽しいんだけど。分かる? あたしが言っている意味」

「楽しいんだろうな、とは思いますよ。僕といるときの愚昧さんは、屈託がなくて、いい意味で少女らしくて。愚昧さんのリラックスした顔を見ると、全てを許せる気がします」

「『許せる』じゃなくて『許せる気がする』なのね。トンカツを奢るだけでは不満足かい? 若人よ」

「満足していますよ。文句なしに満足しています。そういえば、食べに行くのはいつもトンカツ屋さんですよね。今さらですけど、なにかこだわりでもあるんですか?」

「決まってるじゃない」

 愚昧さんは即答したが、その理由を語ろうとはしない。白米を箸で大きくすくって己の口へと導く。

 一度にたくさん頬張り、食べながらでも平気でしゃべり、口の中が見えても平気でいる。それでいて、がっつくように食べるのではなく、あくまでも上品に、悠然と、淡々と、皿の上の料理を片づける。

 そんな愚昧さんが好きだ、と栄田くんは思う。一分弱も歌う小男に気を取られていたせいで、料理の残量の差は開く一方だ。

「東伝くんの人となりは随筆なんかで予習済みだと思うけど、ノンフィクションとは言い条、脚色もかなりあるみたいだからね。少なくとも、根性がひん曲がったどうしようもない人間ではないのは保障する。慣れない暮らしで――」

 鈍重な音が栄田くんの後方で聞こえた。スイッチがオフに切り替わったように、小男の歌声が途絶えた。

 店内にいる客たちの一部が静かにざわついている。ざわつきは次第に隣り合う人々へと波及しているらしく、音声が発信される領域が拡大していく。

 愚昧さんはグラスの水を飲みながら振り向く。釣られて同じ方を向くと、先程の小男が歌っていたあたりは、小男のみならずテーブルや椅子までもが消失していた。薄い埃の層や、経年による変色すらも消え去り、約四メートル四方の磨き抜かれた床が在るのみだ。

 栄田くんが顔を戻したタイミングを狙い澄ましたかのように、愚昧さんはまた一口トンカツをかじり、

「慣れない暮らしで最初は大変かもしれないけど、気負わずにやっていけばいいと思うよ。気負わずにね」

「ありがとうございます。今度いっしょに食事をするときには、よい報告ができるようにがんばります」

 愚昧さんがさも満足そうに首肯したので、栄田くんの心は日なたくさい温もりに包まれた。


 往来を歩き始めて随分と経つが、目印の樫の木はいまだに見えてこない。幅広の道は人の行き来が盛んで、ひっきりなしに砂埃が立っている。

 菊開月もまだ中旬。日中、頭上を遮るものがない場所を歩き続けていると、盛んに汗が分泌される。砂埃や、目印をなかなか発見できない焦燥が、暑気を煽り立てるかのようだ。

 オーパーツめいた創作楽器を販売している、楽器店。

 熱帯の観葉植物によって小規模なジャングルと化した、喫茶店。

 奇怪な深海魚ばかりを店頭の水槽に陳列した、魚屋。

 風変りな店の数々が栄田くんの目と心を楽しませたが、精神的なゆとりも次第に薄れてきた。

 改めて、愚昧さん手書きの地図に目を落とす。細い線で描かれた地図は、簡略ながらも要点が押さえられている印象だが、さ迷い歩き続ける時間が長引くにつれて、いささか簡略的すぎる気もしてきた。

 愚昧さんともあろう人が、手抜かりがあろうはずもない。そう信じているが不安は不安だ。目的地に到着するまでこの感情を抱えなければならないのだと思うと、心が徐々に暗い色に染まっていく。

 突然、涼やかな鈴の音が鳴り響いた。栄田くんは弾かれたように顔を上げた。

 路傍に設置された、フロントに「福引」の二文字が刻まれたイベント用テントの下で、法被を着た男性がハンドベルを手にしている。折り畳み式の木製テーブルの対岸にいるのは、上体を大きく仰け反らせた初老の男性。その皺の多い顔に浮かぶ落胆の色を見れば、参加賞の粗品が当選したのは一目瞭然だ。

 法被の男はハンドベルを机に置き、生まれ出たばかりの玉をむんずと掴んで己の口に放り込む。さらには、いまだに仰け反っている初老の男性をひょいと持ち上げ、くしゃくしゃに丸めて足元の屑籠に捨てた。

 初老の男性の後ろに並んでいた、買い物袋を提げた中年女性が進み出、福引券を法被の男性に手渡した。中年女性が福引器を回転させると、艶やかな白色の玉が転がり出た。

 法被の男性は先程と同じく玉をひと飲みし、客を丸めて屑籠に捨てる。流れるような手捌きだが、福引を取り仕切る者としては不適当にも思える渋面だ。

 福引に並ぶ列が途切れたあたりから、和服姿の白人の男女が路上に散ってビラを配っている。総勢十三名で、年齢は十代から四十代。みな声を大にして、日本語六割英語四割という内訳で何事かを呼びかけているが、栄田くんは内容をまともに聞き取れない。声のうるささが邪魔をしているようでもあるし、二種類の言語の配合が聴覚を混乱させているようでもある。

 風が栄田くんの足元に一枚のビラを運んできた。踏みつけそうになったが、咄嗟に歩幅を広げて跨ぎ越す。ビラには白人男性の顔写真が大きく掲載されていて、四囲を英文が埋めている。男性の水色の瞳は磨き抜かれたガラス玉を思わせ、空虚だ。

 白人女性の背後を通過しようとした瞬間、鋭く振り向いた。何事かを大声で、日本語でも英語でもないように聞こえる言語で主張しながら、ビラを押しつけてくる。栄田くんを真っ直ぐに見つめる瞳は、ビラに記載された白人男性のそれと同じく人工物めいている。

 足早に過ぎ去ろうとすると、言葉というよりも音声と言いたくなるような声が飛んできた。「ビラを受け取れ」という意味ではないか、と栄田くんは考える。多少なりとも心苦しくはあったが、無視して遠ざかる。

 女性は追いすがってこない。依然としてなにかしゃべり続けているが、声からは迫力が失われている。二人目以降は罪悪感なくやり過ごせた。

 道の端で待機していた無精髭の白人男性が、走り過ぎようとした飛脚の進路に立ちはだかり、胸に抱えていた束から一枚を取って差し出す。飛脚の男性の舌打ちが、十メートルほど離れた場所を歩いていた栄田くんにもくっきりと聞き取れた。

 飛脚が無精髭の白人男性の分厚い胸を押すと、呆気なく仰向けに転がった。男性は石像のように白く冷たく硬直し、微動だにしない。凍りついた瞳の先では、魚群を思わせる無数の雲が西から東へと流れている。飛脚はさも苛立たしそうに、純白の足袋に包まれた足で男性を蹴飛ばし、砂埃を巻き上げながら走り去った。

 砂埃の中から、なにかが地面を擦る音と共に現れた者がいる。ラブドールの首にロープを括りつけ、仰向けに引きずりながら歩いている厚化粧の若い女だ。

 驚愕は続けざまに栄田くんを襲った。女の数メートル後方に、一本の巨大な樹がそびえ立っていることに気がついたのだ。

 居ても立ってもいられなくなり、樹に走り寄る。種類は定かではないが、周囲に他に目立つほど大きな樹木の存在は確認できない。地図には「大きな樫の木の前の道を右折しろ」と指示されている。

 折れた先の道は、自動車同士がやっとすれ違える狭さだ。食料品を扱った店が多いらしく、雑多な匂いが濃密に漂っている。中でも生臭さは強烈だ。

 栄田くんは先生の自宅に意識を集中することで悪臭に抗った。幸いにも、進行方向にそびえる山から吹く風のおかげで、進めば進むほど臭いは勢力を弱めていく。

 細道の突き当たり、小高い山を背にして、一軒の古びた木造平屋の民家が建っている。広々とした印象の庭だ。フェンスがなく、敷地と山とが一体化しているせいでそう感じるらしい。

 玄関扉の真上の壁に、一目で新品と分かる包丁が飾られている。木製の表札には端麗な筆跡で「京山東伝」と記されている。

 深呼吸をしてインターフォンを鳴らす。

 呼び出し音の余韻が薄れていく。反比例するように足音が近づいてくる。施錠が解かれ、扉が開かれた。

「君がそうか」

 公の場には滅多に姿を見せない人だが、以前地方新聞に掲載された写真を栄田くんは見たことがある。間違いない。

 京山東伝。栄田くんが敬愛の念を抱く作家であり、書生として働くことになった家の主人でもある人物だ。

 写真ではフォーマルな服装だったが、今は藍色の作務衣を着ている。変わらないのは、ひそめられた眉根、こけた頬、蒼白の顔。心なしか写真よりもやつれていて、顔色もよくない。ただ、「君がそうか」の一言からは静謐な威厳が立ち昇っていて、体調を気づかうのは余計な真似だと感じた。

「はい。本日から書生として京山先生のお世話になる、栄田件と申します。よろしくお願いします」

 ありったけの気持ちを込めて、それでいて深くなりすぎないようにお辞儀をする。

「三輪木から話は聞いている。君には特にしてほしいことがあるのだが、まずは仕事について順を追って説明させてもらう。その前に、荷物を部屋に置いてもらいたいから、案内しよう。上がりなさい」

 感情がこもっていない声でそう述べ、先生は家に上がる。栄田くんはそれに続く。

 二辺をそれぞれ壁と靴箱に接する位置に、大量生産の一語が想起されるデザインの事務机が据えられている。椅子はシンプルな丸椅子。机の上にはアナログ式の置き時計と、「九月度青空御開帳」という文言が確認できるチラシが、靴箱の上には黒電話が、それぞれ置かれている。

 先生はチラシを掴み上げ、二つ折りにして懐に収めた。廊下を三歩進んだところで振り返り、

「ああ、すまない。伝え忘れていたが、玄関扉の施錠を頼む。今回に限らず、戸締りには常に注意を払ってくれ。頼んだよ」

「承知いたしました」

 恭しく返事をして命令を履行する。

 戸締りを重要視していること。玄関に置かれた机の存在。この二つを考え合わせれば、仕事には玄関が重要な意味を持っているのは間違いない。

 本日より栄田くんの部屋になる一室は、さほど広くなかった。入口の対面の壁を背にして置かれた粗末な棚が、空間の実に三割近くを占めている。古めかしくみすぼらしいという意味でも不要だと感じたが、壁に固定されていて移動は不可能のようだ。

 部屋の中央卓袱台も、同じく古くてみすぼらしい。布団一式は剥き出しのまま部屋の隅に畳んである。

 栄田くんは人生の厳しさを突きつけられた気がした。束の間呆然としてしまったが、卓袱台の足元に風呂敷包みを置いて部屋を出る。

 食堂、風呂場、台所と、自室に近い順番に案内される。いずれも古びているが、最低限清潔だ。昨日まで暮らしていた長屋の一室と比べれば、格段に恵まれている。

 台所で調理道具の置き場所について説明をしているさなか、先生はふと思い出したように懐から紙片を取り出し、

「食事作りだが、今日の夕食から君に担当してもらう。この紙にここ一週間の私の食事を書き留めてある。参考にして作ってくれ」

 差し出されるままに受け取る。二つ折りにされたその紙は、折り方が甘く、内側につづられた文字列の中に「蒲鉾」の二文字が確認できた。レシピまで記載されているのだろうか、と思いながら懐に仕舞う。つい先程まで先生の服の内側に収まっていたにもかかわらず、初春の早朝の外気のように冷たい。

 ガスコンロの使用法や食材の買い出しの頻度についてなど、こまごまとした説明が続く。無駄なく整理されているが、いささか整いすぎている嫌いがあり、言葉足らずだと感じることもある。また、次から次へと説明言葉が積み重ねられるため、覚えきれるか不安でもある。ただ、使われる単語や言い回しはおおむね呑み込みやすく、二つの懸念を一定程度薄める効果を発揮した。

「ここが君のメインの仕事場になる」

 玄関の突き当りで足を止め、事務机を指差しながら先生は告げる。

「君は基本的には、家事などをしているとき以外はここに座って、choleraが侵入してこないかを監視してくれ。いわゆる玄関番だ。喜多村シンセツ、といったかな。彼が書いた『嬉遊笑覧』という書物には、玄関とは幽玄なる世界に通じる関門である、という説明がされている。その関門を君に守ってほしい、というわけだ。客が来たときや電話がかかってきたときは、普通に対応してくれていい。普通といってももちろん、choleraには細心の注意を払って、ということだよ。私が君を雇った意味を片時も忘れずに仕事に励んでくれ」

「あの……。一つ、お尋ねしたいのですが」

「言ってみなさい」

「choleraとはなんなのでしょうか。恥ずかしながら、それがどういうものなのかがさっぱり分からないのですが」

「どう説明すればいいのかな。君には先入観を持ってもらいたくないのだが、強いて言語化するならば、変幻自在と表現するべきなのかな。名状しがたい、説明するのが難しい存在なのは確かだね」

「あの、申し訳ありません。理解力がないせいで、具体的なイメージが掴めないのですが……。choleraというのは、特殊な力を持った人物なのですか? それとも、物の怪の類?」

「定義できないのがcholeraの特質だから、無理もない。判別方法としては、遭遇した瞬間にcholeraだと分かる。なにかが普通ではないと感じる。choleraとはそういう存在なのだよ。余計に混乱させてしまったかな?」

 少し迷ったが、栄田くんは首を縦に振った。

 文筆業に従事している先生の説明が要領を得なかったと意見するのは、勇気を要した。それでも栄田くんが首肯したのは、説明する先生自身からも自信のなさがうかがえたからに他ならない。

 家と仕事に関する説明が分かりやすかった先生ですらこうなのだから、choleraなるものは正真正銘名状しがたい存在なのだろう。

 そのような存在の家宅への接近を、あるいは侵入を、そして侵攻を、どう察知し、どう食い止め、どう跳ねのければいいのだろう? 分からないことだらけだったが、

「私は書斎で仕事をするから、君もがんばってくれ」

 先生は素っ気なく書生に背を向け、廊下を遠ざかった。


 事務机周辺は静寂に包まれている。玄関扉の向こう側からも、先生がいる書斎からも、音は聞こえてこないし人気も漂ってこない。

 扉がこうも近くにありながらなにも感じないのは、広い意味で動きがないからなのだろう。アナログ時計の針が時を刻む規則的な音は、規則的ゆえに静寂に取り込まれている。

 無音が果てしなく広がる寂然とした夜に、心音や呼吸音の存在が無視されるのと似ている。無音ではないが、静寂ではある。折に触れてやっつけ仕事をすることに定評がある脳髄は、そう評価しているらしい。

 僕はこの家で、先生と上手くやっていけるのだろうか。書生としての責務を果たせるだろうか。

 煎じ詰めればそう要約できる、実際には雑多で枚挙に暇がない想念が、光の中の埃のように、蠅のように、彗星のように頭の中を飛び回る。問題の深みへと下りていく苦しさに、そっと蓋をして椅子に座る。

 先生の説明を聞いた限り、choleraは掴みどころのない存在らしい。人なのか、物体なのか、現象なのかが定かではないという意味でも。習性や気質や特徴が不明という意味でも。

 訪問者に乗じて侵入してくる可能性がある、という趣旨の警告を先生は発していた。まさか幽霊のように扉をすり抜けるとは思わないが、念頭には置いておくべきだと真剣に思う。変幻自在、とも先生は述べていた。多少荒唐無稽だとしても、可能性は広く考慮に入れておいた方がいい。

 栄田くんの実家の玄関扉は一部が擦りガラスになっていて、中からでも外部の様子がおぼろげに確認できた。

 しかし京山家の玄関扉は、閉ざされた状態だと外界の視覚情報を得られない。これは栄田くんにとって想像以上のプレッシャーだ。

 目で見えなくとも気配で分かる。音で分かる。そう己を慰めても、choleraはそれすらも消せる存在なのではないか、という懸念は払拭できない。choleraが有する不可解性の前では、楽観主義を貫き通すのは、複雑怪奇な数学の問題を解き明かすよりも困難だ。

 一つ息を吐き、机上の置き時計に注目する。上面の一部分に埃の線が引かれているのは、拭き残した跡か。先生は玄関番の仕事には時計が必要と考え、仕舞ってあったものを引っ張り出し、埃を拭ってこの場所に置いたに違いない。

 さり気ないが思いやりが感じられる配慮に、心が温かくなる。期待に応えたい。応えなければ。腹の底からそう思う。

 ただ、choleraはいつ、どこから、どのような形でやって来るか分からない。先生を護りたい気持ちの照準は、どこに定めれば安定するのか。

 広い意味での就業時間中の過ごし方は、今後の課題になってくる気がする。まさか呑気に読書をしながら座っているわけにはいかないから、必然に、頭の中で想念を弄ぶ時間が長くなりそうだ。だからといって空想に現を抜かせば、choleraに対する警戒が疎かになる。無聊や眠気に苛まれることもあるだろう。

 難儀だな。

 心の中で呟いたが、ため息は自制した。仕事が始まって十分足らずで二回はさすがに多すぎる。


 頬杖をついて黒電話を見つめていた栄田くんは、書斎の襖が開く音に我に返った。

 足音が玄関へと近づいてくる。栄田くんは上体を捩じって振り向く。先生は書生の動きを見て足を止めた。あと十歩ほどで事務机に達する地点だ。

「そろそろ夕食の準備を始めてくれ。米を炊く時間のこともあるし、この家の台所を使うのは初めてで、いくらかは手間取るだろうからね。料理に関しては、昼に指示したとおりに作ってくれればいい」

「承知いたしました」

 栄田くんはやや慌ただしく起立する。迅速に行動に移らなければならない焦りに襲われたのではない。先生が立って話をしているにもかかわらず、目下の人間が座ったままでいるのは望ましくないと思ったのだ。

「準備が整いましたら、書斎までお呼びした方がよろしいでしょうか」

「ああ、そうしてくれ」

 直前になって思い出したのではなく、伝え忘れていたことに今になって気がつき、この機会に伝えておこうと考えたのだろう。先生は料理作りに関する些細な注意事項を二つばかり告げ、書斎に戻った。栄田くんは敬礼したい気持ちで後ろ姿が消えるのを見届け、直ちに台所へ。

 一人暮らしをしていたころは自炊をしていたので、料理作りにはある程度自信がある。舌の肥えた美食家を唸らせるには遠く及ばないが、限られた食材をやりくりしながら、栄養バランスとボリュームに配慮し、作り方が簡単な料理を組み合わせて毎日の献立を決める技量という意味では、合格点に達していると自負している。

 野菜類が比較的充実していること。いくつかの鶏卵。大粒の梅干しが詰められたガラス製の小瓶。

 冷蔵庫を開けて以上を確認したところで、メモの存在を思い出した。

 広げてみると、一週間分の献立が記載されている。もっぱら和食で、肉や魚を作った料理が殆どないこと、おかず一品に白米と梅干しという大枠が確立されていること、などが判明した。

 レシピまでは記されていない。メモを受け取ったさいに目にした「蒲鉾」の二文字は、食材として使われたのではなく、副菜としてそのまま食されたという意味だったようだ。

 静けさに包まれた食卓で、薄切りにした蒲鉾をおかずに、黙々と食事をする先生の姿が脳裏に浮かび上がる。

 作るのが面倒くさい? 食事にこだわりがないから粗食でも苦痛ではない?

 どちらにせよ、先生のために尽くさなければ。

 メモを参考に作ってくれ、と先生は言っていた。おかずは一皿まで。梅干しは必ず出すこと。肉や魚はあまり出さないように。そういう意味だろう。その制約下で、最も栄養を摂取でき、最も満足感を得られる献立は?

 考え始めた直後、米を炊いていないことに気がつき、慌てて準備に取りかかる。

 白菜が多くあったのでざく切りにして、人参と蒲鉾を拍子木切りにしたものと共に味噌汁の実とする。青ネギは、卵に混ぜ込んで主菜とするか、彩りとして味噌汁に散らすか。少し迷って前者を選択する。これで一汁一菜。おかずは一品という縛りからは逸脱してしまうが、一品プラスするだけなら許容範囲内だろう。

 先生を書斎まで呼びに行き、すぐさま食堂に戻って皿を並べる。三分ほどで先生は姿を見せ、食卓に着いた。ごはんを装おうとすると、「少なめで構わない」と声がかかったので、指示に従う。

 熱い緑茶の準備をしながら、雇い主の様子をさり気なくうかがう。先生は味噌汁を無音ですすり、白菜をつまみ、卵焼きを小さくカットして口に運び、白米を頬張る。箸づかいは淡々としていて、がっつくというふうではない。

 おかずを二品作ったことにクレームをつけず、二品ともちゃんと食べてくれていることに安堵しながら、栄田くんは湯呑みを卓上に置く。すると、先生は卵焼きを掴もうとしていた箸を引っ込めて顔を上げ、

「悪いが私の食事中も仕事を続けてくれ。食べ終わり次第食堂を出るから、そうしたら君の番だ。昼間にも言ったとおり、夕食後は私が入浴を終えるまで仕事をしてもらう。頼んだよ」

「承知いたしました」と答えて速やかに退堂する。先生と食事を共にする期待がないわけではなかったが、高望みだという自覚があったため、落胆の気持ちは全くない。

 先生は半時間足らずで食堂から出てきた。書生にひと声かけることなく、書斎へと帰っていく。

 栄田くんは襖が閉まったのを見届けて椅子から立つ。食器類は全て流し台に移動していて、少し申し訳ない気持ちになる。

 食事は先生と同じものを食べた。座っている時間が長かったとはいえ、おかずの量は少々寂しい。肉類が使われていないのも不満だ。しかし、白米を少し多めに茶碗に装うだけの逸脱に留め、質素な一膳を黙々と食する。

 書生の身で贅沢は慎むべきだ。今日は殆どの時間座っていたのだから、物足りなく感じても適量のはずだ。食料を調達しようと思えば自由に調達できた今までが恵まれすぎていた。

 これでいい。優先させるべきは先生なのだから。


 入浴後に先生への挨拶を済ませ、何時間かぶりに自室に戻ってきた。

 紐を引っ張って明かりを点ける。畳まれた布団に視線を吸引され、やっぱり疲れているんだな、と同情するでも突き放すでもなく思う。そのせいか、入浴時間も普段よりもかなり長かった。洗い場から出て現在時刻を確認すると、一時間近くも浸かっていたと分かり、入浴を終えたばかりにもかかわらず冷たい汗が噴き出した。

 ただ先生は、栄田くんが就寝に先立って書斎まで挨拶に行ったさいに苦言は呈さなかった。長風呂が栄田件の習慣ならばそれを尊重するべき、と考えたのか。それとも、初日だからこその特例的な措置なのか。

 どちらにせよ、明日はもっと早く出よう。心の中でそう自分に言い聞かせながら、自室の襖を後ろ手に閉める。

 さあ日記、日記と、風呂敷の中からノートとペンを取り出す。気分を一新するべく真新しいノートを持参したのだが、心は高ぶりからは遠い。仕事から解放され、さらには一人きりになったことで気が緩み、疲労感がどっと湧いたのだ。

 この調子では、とてもではないがままならなりそうにない。習作の執筆も。長編小説の構想を練ることも。息抜きである読書でさえも。

 せっかくお気に入りの先生の著作を持参したのにもったいないと思いながらも、日記を書きつづる。筆記用具を風呂敷に仕舞い、卓袱台ごと部屋の隅に寄せ、布団を敷く。寝間着に着替え、消灯する。

 今日という一日を反芻し、反省する時間を設けたい気持ちもあったが、原初の闇めいた暗黒の中に横たわったことで、眠気は思いのほか強いと知った。

 抗うつもりは毛頭ない。瞼を閉ざして生理現象に身を委ねた。


 午後二時を過ぎたころから栄田くんは気が緩み始めた。

 眠気は全くない。業務に支障を来すほど疲れているわけでもない。集中力をベストの状態に保てないのだ。

 choleraがなんらかの方法で玄関から侵入してきた場合、咄嗟に対応できないのではないか。薄々とながらもそんな危機感を抱く。

 原因は恐らく、昼食を終えてから夕食の準備に取りかかるまでの長さにある。

 朝は早いが、朝刊を取りに行くのと朝食の準備と後片づけ、洗濯、簡易ながらも各部屋を隈なく掃除して回るなど、こなさなければならない仕事は数多くある。昼食の準備もあるため、午前中、事務机に向かっていた総時間はそう長くはなかった。

 しかし、午後はそうはいかない。総時間にして午前の二倍近くもある。それだけの長時間、集中力を高い水準で維持するなど絵空事だと、約二時間、一点に身を置いてみて痛感した。

 油断と呼ぶほどの緩みではない。しかしcholeraは、その僅かな隙を抜かりなく衝いてくるのではないか、という懸念はある。

 危機感を抱いたのが引き金となり、心身は引き締まった。しかし同時に、夕方五時半、夕食の準備のために席を立たなければならない時間まで保ち得るものではない、と本能的に悟った。集中力が再び低下したとき、それこそがcholeraが牙を剥く瞬間だ。そう思えてならない。

 そのように二重三重に警戒を重ねることで、最悪の事態を未然に防ぎたい思惑が栄田くんにはあった。

 その慎重さ、職務に対する真摯さは、我ながら好もしく、頼もしいと感じる。cholera対策という意味では確実にプラスだろう。一方で、いくら対策を講じようと敵はその上を行くのではないかという思いが、無力感と虚しさを運んできた。

 ただ現時点では、殆ど瞬間的にネガティブな感情を追い払ってしまえる。なにせまだ二日目だ。使命感に燃えている。気力に満ちている。結果はともかく、集中力をなるべく最高の状態に保つために全力を尽くすべきだ。

 力強く己に言い聞かせた直後、襖が開く音がした。栄田くんの肩と心臓は跳び上がった。働き始めてまだ二日目だが、何度となく聞いてきた音なので瞬時に分かった。書斎の襖だ。

 先生は僕の気の緩みを看破したのだ。お見通しなのだ。叱るつもりなのだ。

 予想に反して、先生の目的地は厠だった。厳密には安堵感ではないが、それに類似した感情が栄田くんの中で芽吹いた。

 前後して、背中に視線を感じた。注意が先生に向いていた隙に、住居侵入にまんまと成功したcholeraからの冷温動物の眼差し――ではなく、厠に入る寸前に先生から投げかけられた一瞥だ。

 まだ二日目、その場所で書生が番をしている光景を見慣れていないから、無意識に注目したのか。それとも、廊下に出たことで、あるいは書斎の中で仕事に励んでいたときから、書生の油断を察知していて、弛まずに仕事に励んでくれよ、という警告と激励の意味だったのか。

 真相は定かではないが、とにもかくにも居住まいを正した。

 ほどなく先生が厠から出てきた。事務机へと歩み寄ってくる。

「今日は私のいとこが来るかもしれない」

 振り向いた栄田くんに単刀直入に告げた。ふと思い出した些事を報告するような口振りだ。

「もし来たら、一応話を聞いてから追い払ってくれ。手に余るようなら私を呼ぶように」

「その方と会う約束は交わされていないのですか?」

「ああ。私はあいつに用はないが、あいつは用があるから勝手に来るのだよ」

 淡々とした受け答えだが、声には苦いものが混じっている。

「くだらない用だから、あいつがどんなに切実に訴えたとしても追い返すように。choleraがあいつに化けることはないだろうが、会話に気を取られている隙に侵入するかもしれないから、くれぐれも気をつけること。頼んだよ」

 先生は去った。二人の関係性を詳しく知りたい気持ちはあったが、これ以上疑問を投げかけられる雰囲気ではなかった。

 インターフォンが鳴ったのは、それから十分も経たないときのこと。

 どこか間の抜けた呼び出し音を聞いた瞬間、すわcholeraかと、栄田くんは心も体も構えた。高い濃度で保たれていた集中力と緊張感はさらに高まり、脳髄が自転を開始する。

 訪問者はcholeraなのか? だとしたら、どう対処するべきなんだ? それとも、先生が言っていたいとこ?

 椅子から腰を上げ、扉へと歩を進める。なにかから急かされているように感じる。京山家で書生として働き始めて、初となる来訪者。それはcholeraかもしれない。危機感と懸念は、恐怖と不安へと形を変えた。心臓は高鳴りすぎて物理的に痛いし、手汗は大量だし、呼吸は速い。

 それでも思い切って開錠し、扉を開いた。

「やっほー! でんちゃん来たよ――って、あれれ?」

 調子外れにも聞こえる、甘味成分を多分に孕んだ陽性の高音。そして、どこか官能的な香水の香り。栄田くんは瞠目した。

 底抜けに明るい笑みに包まれていた少女の顔は、栄田くんを目の当たりにした瞬間、驚きの色を表示した。

 化粧によって巧みに隠蔽しているが、目鼻立ちの幼さは誤魔化しきれておらず、まだ十代だろう。頭髪は見るも鮮やかなピンク色。胸元が開いたトップスに、下着が見えそうなほど裾が短いスカートと、肌の露出面積が広い。

 栄田くんは少女の容姿を観察する過程で、開いた胸元から覗く白く柔らかそうな塊の一部分を目撃し、頬は熱を帯びた。しかし、最低限の冷静さまでは手放さない。毅然と顔を上げ、問題の映像を視界から締め出すことで心を鎮め、

「失礼ですが、どちら様でしょうか」

「でんちゃんのいとこ。心愛っていうんだけど」

 栄田くんは驚愕した。物静かで、そこはかとなく威厳が感じられて、地味で質素なライフスタイルを好む先生とはなにもかもが正反対。同じ血が流れているようにはとても見えない。

 心愛は呆然とする栄田くんを見つめ返し、どこか演技がかったしぐさで小首を傾げた。

「君こそ誰? 見かけない顔だけど。でんちゃんの友達? 隠し子?」

「書生として雇われた者です。昨日から働き始めたのですが」

「そうなんだ。どうりで知らないはずだよね。えっと、今でんちゃんは在宅?」

「はい。先生は昼食を召し上がったあと、ずっと書斎にこもられています」

 答えた直後、「追い返せ」と命じられていたことを思い出した。ただ先生は、「一応話を聞いてから」とも言っていた。

「堅苦しいしゃべり方するんだねー。敬語とか使って、疲れない? そういうの、わたしは絶対無理。真面目くんなんだね、君って。そういえば、名前は?」

「栄田件、ですが」

「件くんか。変わった名前! くーちゃんって呼んでもいいかな?」

「はい。お好きに呼んでいただければ」

 心愛の図々しいが憎めない馴れ馴れしさに、栄田くんはペースを掴めずにいる。淡々としている先生とも、飄々としている愚昧さんとも違う、これまでに交流したことがないタイプの人間だ。文学青年には縁遠いタイプでもある。

 知性を尊んでいる彼としては、心愛を多少なりとも見下す気持ちがある。しかし同時に、知性の不足を恥じ入る様子は微塵もなく受け答えをする、ふてぶてしくもどこか清々しい態度に眩しさを感じ、軽く圧倒されてもいる。

「ところで、どういったご用件でしょうか」

「うん。ちょっとでんちゃんに用があるの。本当にちょっと用事なんだけど。上がってもいい?」

「ご用件の詳細をお聞かせいただけますか」

「えー、やだなー。だって、くーちゃんにする話じゃないもん。身内だけでけりをつけたいから」

「ちょっと! ちょっと待ってください」

 中に入ろうとしたので、両手を広げて遮る。無意識に取った対応で、choleraのことはそのあとで頭に浮かんだ。

「えー、なんで? わたし、でんちゃんのいとこだよ? この前まで普通に出入りしてたのにー」

「すみません。先生がそうしろとおっしゃったので。先生を呼んできますので、少々お待ちいただけますか」

「えー」という、心愛がこれまでに何度か口にした不満を表明する声。ただ、抗議の言葉をぶつけてきたり、無理矢理中に入ろうとしたりはしない。そういう対応を取られても仕方がないと、心の底では諦めている節があった。

「先生、いとこの心愛さんがいらっしゃいました。先生に用事があるとおっしゃっているので、応対していただきたいのですが」

 跪いて襖越しに報告すると、すぐに出てきた。表情から内心はうかがえないが、注がれた眼差しから書生の対応を責める色は読み取れない。

 その瞳が、無人の玄関へと転じられる。心愛は大人しく扉の外で待機しているようだ。先生が立つように手振りで命じたので、指示に従う。

「choleraのこともあるから、心愛を外で待たせたのはよかった。これからあいつと話をしてくるから、君は事務机で待機していなさい。すぐに終わる」

 先生は少し早足に玄関へ向かい、栄田くんも同じ方向へ。栄田くんが先に着席し、先生の手が玄関扉を開く。

「あっ、でんちゃん! こんにちはー。なんか、また痩せてない? まともに食べてないんじゃないの」

「書生を雇ったから、食事の質は確実に上がっているはずだ。そんなことより、用件はもしかして、あれか」

「あっ、分かる?」

「二週間前に融通したばかりじゃないか」

「それはそうなんだけど――」

 扉が閉ざされる。心愛の高い声が辛うじて聞こえてくるが、内容は一ミリも把握できない。残念なようなほっとしたような、複雑な気持ちで頬杖をつく。

 それにしても、心愛の用事とはなんなのだろう? 親族同士ならではのごたごただろうかと栄田くんは考えたが、いとこ同士という遠すぎず近すぎずの関係が微妙で、推理を進めるのは難しい。

 やがて玄関扉が開き、先生が戻ってきた。隙間から外をうかがったが、心愛は帰ったらしく無人だった。

 流入してくる甘い残り香を風圧で追い払おうとするかのように、先生はやや乱暴に扉を閉ざす。彼女の行方に関心を払っていたことを咎められた気もして、草履を脱ぐ一挙手一投足をただ見守る。

「心愛はまた後日来るかもしれないから、そのときは今日のような対応を取ってくれ。では、夕食の準備をする時間まで頼んだよ」

 先生が去ったあとで、二人の会話の内容について思案を巡らせてみたが、考えても、考えても、輪郭すら掴めない。

 本業に差し支えがあっては困る。意識を仕事モードに切り替えた。


「新進作家倶楽部主催の宴会が開かれるから、君に同行してもらいたい。場所は『タマ屋』という屋号の旅館。今日の午後六時から開催予定だ」

 先生からそう告げられたのは、栄田くんが京山家で書生として働き始めて五日目の昼の正午過ぎ。栄田くんは完成した料理を配膳している最中、先生は食卓に着いたばかりというタイミングだった。

 質素な食事を少しでも華やかにするべく、きんぴら牛蒡に白炒り胡麻を散らすひと工夫。料理に精通した者からすれば、工夫の範疇にも入らないだろうささやかな細工に、自画自賛したい気持ちでいっぱいだった栄田くんは、虚を衝かれて当惑した。伝えるべき情報は事前にまとめて伝えるという対応を先生は取ってきた、という意味でも驚いた。

「宴会といっても、人前に出てなにをするとかではなくて、会場で渡される荷物を持ってもらいたいんだ。書籍の類だからどうしても重くなるのでね。夕方から雨の予報で、傘を差しながらだと煩わしいというのもあるし」

 先生は淡々と説明する。

「付き添いの者にも食事が出ると聞いているから、夕食の支度をする手間が省けるという利点もある。頼めるかな?」

「はい、もちろんです。……ただ」

「どうした。言ってみなさい」

「少し、choleraのことが気がかりなのですが。留守中に家の中に忍び込み、帰宅した先生を襲う、などということになったらと思うと……」

「cholera、か」

 先生は栄田くんから視線を外し、沈黙する。十秒ほどで書生へと視線を戻し、

「choleraについては気にしなくてもいい。五時半ごろに出かけるから、そのつもりで準備をしておいてくれ」


 午後三時過ぎから雨粒が落ち始めた。叩くような強さの雨音は、栄田くんが玄関番の任に就いて初めてといってもいい、扉の外から聞こえてくる明瞭で持続的な音声情報だ。

 いきなり強い雨が降り始めたのか。それとも、認識する前から弱く降っていたが、雨脚が強まったことで聞き取れるようになったのか。音に耳を傾けながら考えたが、真相は遠い。

 やがて耳が慣れてくると、宴会場へ向かう道中が心配になった。しかし、半時間も経たないうちに雨脚は衰えを見せ始めた。辛うじて聞き取れる程度にまで弱まってからは、それ以上弱くなることも、逆に激しさを回復することもない。

 先生と出かける時間になっても降り続けているかもしれない。憂鬱が魔手を差し伸べてきたが、宴会に対する期待感がそれを打ち消した。

 新進作家たちの顔を一目見たい。話がしたい。創作の極意を教わりたい。そういった厚かましい願望は微塵も抱いていない。そうなればいいな、とは思うが、書生という身分である以上実現は不可能だと理解しているし、実現を強く願うのもおこがましいと弁えてもいる。抱いているのは、ただひたすらに漠然とした期待だ。

 十五分前になったのを置き時計で確認してから、栄田くんは戸締りを厳重に確認し、服を少し上等なものに交換する。

 事務机の脇で立って待機していると、書斎から先生が現れた。燕尾服に鳥打ち帽という出で立ち。先生は靴箱を探り、自分用に蝙蝠傘を、栄田くんには古びた番傘を、それぞれ引っ張り出してきた。

「それでは出発しよう」

 二人は傘を開き、雨の中を歩き出した。

 栄田くんは先生の斜め後方に付き従う。先生は巨大な樫の木の角を右折し、栄田くんが京山家に来るときにも通ったのと同じ往来を、栄田くんが進んだことがない方向へ進む。

 あいにくの降雨ではあるが人通りは多い。雨が砂埃の発生を抑制しているが、若干ぬかるんでいるため、歩きやすさはプラスマイナスゼロだ。周囲を観察する心のゆとりはあまりないが、樫の木を右折するまでと雰囲気は似ている。

 十分足らずで先生は左に折れた。車道と歩道が峻別され、路面が舗装された、現代的な通りだ。歩道が狭いため、ひっきりなしに車が行き交う車道との対比で、通行人の総数の割に混雑している印象を受ける。彼らがことごとく頭上に広げている傘の圧迫感も一因かもしれない。

 はぐれないようについていかないと。

 小さく決意した直後、対岸の歩道に車が猛スピードで突っ込んだ。車体が縦に長い、黒塗りの車だ。通行人を次々と跳ね飛ばし、轢き潰し、居酒屋の入口に突っ込んでけたたましい音を轟かせる。硬度の高い物体が強い外圧によって変形した音に、ガラスの破砕音が色を添える。半拍遅れて、大気を揺るがすヒステリックな悲鳴。

 その声がうるさくて敵わないとでもいうように、先生は道を左折する。街灯が設置されていないために真っ暗な、狭隘な道だ。

 しばらく道なり進み、右手にあった門を潜ると、行く手に明かりが漏れた建物が待ち構えていた。旅館風の平屋だ。玄関近くまで来ると、ガラス戸越しに職員が立ち働いているのが見えた。

「京山様、ようこそお越しくださいました。あらあら、お連れ様もごいっしょで」

 五十代と見受けられる、和服姿の中居の女性が二人を出迎えた。物腰が穏やかで、涼しげな目元に若々しさが感じられる。

「帰りに荷物を持ってもらおうと思ってね。別室が用意されると聞いているのだが」

「はい、ご用意しています。ご案内させていただきます」

 恭しく一礼して引き下がり、入れ替わりに若い中居が進み出てきた。先程の年配の女性と同じく、先生にも書生にも平等に微笑みかけたので、栄田くんは好感を持った。

「それでは、ご案内させていただきます」

 高音なせいか幼く感じられる声でそう言って、しずしずと移動を開始する。

 栄田くんは旅館に宿泊した経験はないが、庶民が気軽に利用できる宿ではないと、廊下を少し歩いてみただけで分かった。

 やがて中居の足が止まったのは、とある襖の前。入口には二十足に届こうかという数のスリッパが脱ぎ散らかされ、襖の脇の小さな立て看板には「新進作家倶楽部様」と記されている。

「お連れ様はこちらへどうぞ」

 若い中居が再び移動を開始する。先生は一言もしゃべらない。栄田くんは中居についていく。

「控え室になります。すぐに食事をお持ちしますので、席に着いてお待ちください」

 上り階段の下に空間があり、壁に扉がある。ノブを回して引き開けると、室内に浩々たる白光が灯った。

 広さは十畳ほどだろうか。二列に並べられた長大な机に、無数の椅子。そのうちの一脚の足元に、裸のマネキンが仰向けに転がっている。右腕が肩口から切り取られている以外に特徴はない。奥の壁際にあるのは、向かって左から、戸棚、流し台、少し間をあけて木製の戸。

 宴会場に繋がっている戸だ、と栄田くんは直感した。

 瞬間、それを透過して、場内のざわめきや笑声が流入していることに気がついた。耳を澄ませると、嬌声が聞こえる。物が壊れる音も聞き取れる。

 どんちゃん騒ぎをくり広げるのは、栄田くんが理想とする作家のイメージからは外れている。羽目を外すこともたまには必要なのかもしれない。そう自らに言い聞かせるように思う。あるいは宴会場という場に対する先入観が、音を実際よりも大きく、猥雑に聞こえさせているだけなのかもしれない。いずれにせよ、近くて遠い場所だ、という感想を持った。

 先生も同じ思いを抱いているのかもしれない、と栄田くんは考える。

 同じ空間にいながら、仲間外れ。集団から積極的に危害を加えられているわけではないにせよ、懐にまでは入り込めない。同時に、入り込みたくない気もしている。

 随筆などを読んだ限り、京山東伝は孤独を好む人だ。

 ただ、礼節を重んじる人でもある。人付き合いが苦手で、我が道を往きたい欲求を強く持っているが、協調性を捨ててまで己を貫くのはむしろ恥ずべきことだ。先生はそう考え、実践している気がする。

 人並みに人付き合いをこなしている今は、必要性は感じているものの、先生が心から望んだ結果の産物ではない。そう断定してしまってもいい気がする。

 栄田くんの想像力は、畳敷きの部屋の隅、自らがいる部屋のテーブルよりも長いテーブルの端に座る、燕尾服姿の先生を鮮明に思い描く。

 小鉢の料理をまずそうに箸でつまんでいる。つまらなそうな、陰鬱な顔。近くに人はいないにもかかわらず、身を縮めて座っている。ただでさえ華奢な体がより頼りなく見える。

 近くの席で馬鹿笑いが弾け、箸が虚空に止まる。つまんでいた料理が机上に墜落する。嗅覚に絶えず訴えかけてくるのは、料理の香り。先生が落としたばかりのおかずも、微力ながらもそれに加担している。

 視界の端では、先輩作家が芸子にちょっかいをかけている。被害者は義務的に身をよじらせる。加害者たちは下卑た笑い声を断続的に漏らす。いたずらの手は決して緩めない。むしろ次第にエスカレートしていく。下品な方へ、過激な方へ。

 私は喜劇じみた悲劇の登場人物として苦痛を味わっているのだ、と先生は考える。

 こぼしたおかずは拾わない。馬鹿笑いに邪魔をされただけで取り落としたのだから、拾ってもどうせすぐにまた落とすに決まっている。それに、他の者だって嫌というほどこぼしているではないか。

 多数派に迎合する。納得がいかない気持ちを抱えて。それでいい。私は所詮、フィクションの世界の登場人物に過ぎないのだから。

(先生!)

 栄田くんは堪らない気持ちになり、叫ぶようにテレパシーを送る。

(先生を創り出したのは、先生が主人公の物語の作者は、僕です。栄田件です。今は違うかもしれないけど、いずれそうなってみせます)

(違う)

 呼びかけに先生が呼応した。

(私こそが作者だ。君が主人公の物語を、私が書いたのだ。『京山東伝が主人公を務める物語の作者は自分だ』と君が思い込んでいるのは、私が君をそういう人間に設定したからだよ)

 突然のノックの音に栄田くんは我に返った。

 一瞬宴会場の戸かと思ったが、違う。出入り口の扉だ。

 振り向いた視線の先で扉が開き、姿を見せたのは若い中居。先生を宴会場に、栄田くんを現在の部屋に案内したのと同一人物だ。

「お弁当とお茶です」

 中居はにこやかな表情で弁当と茶をテーブルの端に置く。床に転がっているマネキンを一瞥し、「どうぞ、ごゆっくり」と告げ、恭しいお辞儀を残して部屋を去る。

 弁当箱から漏れる匂いを嗅いだことで、栄田くんは空腹を自覚した。着席し、さっそく箱を開く。

 おかずのラインナップは平凡。味は及第点。ボリュームは花丸ではないが丸は与えてもいい。総合的に見れば合格点に達している。

 なにより、肉類が食べられるのが大きい。厚みが物足りないながらもメンチカツが二切れも入っている。小ぶりで身が少し硬いが鰤の照り焼きもある。

 頭の中は食べることだけになった。食べていることすら意識せずに、夢中になって箸を動かした。美味しい、と心から思えた。苦手なので鰤の血合いと皮は残したが、メンチカツは衣の破片まで箸で拾って口に入れた。

 食事に満足感を覚えたことで、京山家の食事の質素さに意識が向いた。

 体を動かす仕事ではないので、胃の腑は最低限満足している。質素ゆえに心は満たされないのは、修行の身なのだからある程度は我慢するべきだと考えてきた。自分に言い聞かせてきた。

 しかし、それは間違っていたのではないかと、名称不明の青菜が使用された胡麻和えを食べながら思う。

 微かにぬめりを帯びたような食感のその野菜は、奥歯でしっかりと噛み締めても滑って僅かに逃げるため、咀嚼に若干手こずる。馬鹿馬鹿しいようなもどかしさが、宴会場の隅にぽつんと座る先生の姿を脳内に甦らせる。やっとのことで嚥下し、想像上の先生の一挙手一投足とシンクロさせるように、残り少なくなった白米の塊へと箸を伸ばす。

「ありゃりゃ、なんだここは」

 戸が開く音に続いて、年齢不詳の声が聞こえた。ざわめきの音量が増し、押し寄せた油っぽい匂いが室内の空気を物理的に圧倒する。予告もなく、予兆もなく、宴会場の戸が開かれたのだ。

 額が広い、浴衣の胸元が大きく乱れた男性だ。頭髪の状況から中年だと思ったが、紅潮した頬の質感や、アルコールの効力にとろけ始めながらも瑞々しさを保った黒目を見るに、不惑には達していないと思われる。

 ひととおり観察を終えると、栄田くんの意識は赤ら顔の男性――赤鬼氏の背後、すなわち宴会場へと散った。いきなり、中央に障害物が佇んでいるとはいえ真正面に出現した、活気に満ち、猥雑に入り乱れたその空間に、強く惹きつけられた。

 床は畳敷き。いくつもの脚の低いテーブルが、水平方向に引き伸ばされたロの字型に配置されている。その上に並ぶ料理の詳細は、栄田くんがいる場所からは把握できない。食器の中に行儀よく収まっているものもあれば、テーブルの上に汚らしくこぼれているものもある。

 人々は強風に乱された落ち葉のごとく方々に散っている。材質不明な長い棒でチャンバラごっこをしている二名と、その観衆。一心不乱に料理を小皿から大皿へと戻しては、掌で押し固めている一名。中居を背中に乗せて四つん這いで歩き回っている一名と、それを先導している一名と、断続的に中居にちょっかいをかけては邪険に払いのけられている一名。

 中居を除けば、みな「新進作家倶楽部」に所属するプロ作家のはずだが、栄田くんは好感を抱けない。失望するのでも落胆するのでもなく、ただただ唖然としてしまう。

「青年、青年。そこの若い君」

 呼びかけられて我に返る。赤鬼氏だ。

「君は誰だい? 君みたいな若いお仲間は、残念ながらご存じないねぇ」

「わたくしは作家ではなくて、作家志望の一般人です。京山東伝先生の書生として働いていて、今日は荷物持ちのために先生に同行しました」

「ああ、そう。あの人、書生なんて雇ったんだ。そうなんだぁ」

「はい、五日前から。choleraを家に入れないように、玄関番を一人雇いたかったと聞いています」

「choleraか。なるほど、なるほど」

 赤鬼氏は感心したように何度も頷く。騒がしい空間を肩越しに一瞥し、栄田くんへと歩み寄ってきた。一歩床を踏み締めるごとに上体が横揺れするが、振れ幅は小さく、足取りは比較的しっかりとしている。

 よいしょ、と声に出し、赤鬼氏は栄田くんの隣の椅子に座る。体の向きは栄田くんだ。遅まきながら食べかけの弁当の存在を思い出し、さり気なく彼方へと押しやった。

「そういえば、京山先生はcholeraを異様に怖がっていたねぇ。何日間かいっしょに暮らしてみたなら分かると思うけど、沈着冷静で物怖じしない男でしょう。しかしその実、内心では怯えているという。……おっと、ごめんよ。君の先生を悪く言うつもりはないんだけど。酔いが回るといけないねぇ」

 弛緩した顔で笑いかけてくる。反応に窮した栄田くんは、どうとでも受け取れる、見ようによっては頷いていないようですらある、浅い首肯で応じた。

「京山先生は年下だけど、私は尊敬しているよ。しっかりとした信念をもって執筆活動に励んでいる人だからね。君はまだ若いし修行の身だが、分かるだろう? 年齢や経歴なんてものはどうでもよくて、私たち作家というものはみな、芸術至上主義的傾向の持ち主。凄い作家、凄い作品こそが絶対的な正義。そうでしょう?」

「はい。文学作品の良し悪しは書き手のプロフィールではなく、作品の内容で判断するものですから」

 赤鬼氏は満足そうにくり返し頷く。複数の意味からプレッシャーがかかる状況下でも、まともに受け答えができたことに勇気づけられて、緊張は大きく緩和された。

「……君ぃ。私になにか物申したそうだねぇ」

 赤鬼氏がおもむろに栄田くんへと首を突き出したかと思うと、粘り気のある声で問うた。発声に一歩遅れて、酒色を帯びた吐息が鼻孔に達した。

「この機会に一つ、疑問質問に答えようかな。作家志望なんだから、尋ねたいことや知りたいことがたくさんあるんじゃないの。その中からたった一つ、君のセンスで選びたまえ。二人きりだし、なんでも答えちゃうよ」

「あの、ご好意は嬉しいのですが……。あなたには、わたしのわがままに付き合う理由がないように思うのですが」

「若いねぇ、君。何事にも理由がついて回るものじゃないんだよ、世の中っていうのは。若い人が考えているよりも、ずっといい加減で、ずっとぶれが大きくて、ずっと不確かなものだ。理由を知って安心したいのなら、そうだね、酔いを醒ますためと答えておきましょうかね。まあ、まだまだ飲むつもりなんだけど」

 赤鬼氏は豪快に笑う。栄田くんは己のちっぽけさを痛感した。同時に、赤鬼氏個人や、作家という職業への尊敬の念を深め、分不相応の機会に恵まれた後ろめたさを払拭できた。創作に直接関係ない質問をしようとしている後ろめたさもひっくるめて。

「小説にあまり関係がない質問なのですが、構いませんか?」

「はいはい、どうぞ。なんでも自由に訊いてね」

「choleraとは、どのような存在なのですか? 先生の家にcholeraを入れないために雇われた人間として、ぜひ知っておきたいのです。作家の方は博識だから、そちら方面にも詳しいかと思いまして」

「仕事に必要な知識を得ておきたい、ということね」

「おっしゃるとおりです。先生はcholeraのことを詳しく教えてくれないし、説明しづらいようでもありました。ですから、先生をcholeraから守る役割を命じられたにもかかわらず、choleraについてはよく知らないままなのです。変幻自在で名状しがたい存在だ、という話は聞きましたが」

「私の場合、京山先生とは違った意味から説明しづらいねぇ。全くできないことはないけども。だって私、choleraの実在を信じていないんだもの」

「実在していない?」

 栄田くんは愕然としてしまった。

「先生が人を雇ってまで侵入を防ごうとしているcholeraが、ですか」

「実在しないものを実在しているかのように認識している京山先生がおかしい、という意味じゃないよ。私は実在していないと思っているけども、京山先生は信じているし、恐れてもいる。したがって、私の世界ではcholeraは実在していなくて、京山先生の世界では実在している。要するに、解釈によって現実が変わってくるということだね。君は現状、choleraを訳の分からない存在だと認識しているだろう。その訳の分からなさを解消したくて、私にcholeraについて尋ねたわけだけど、choleraは訳の分からない存在であるという認識、それでもう正解なわけだね。わざわざ訊くまでもなく。もちろん、実在しないというのも正解だし、実在する恐ろしい存在だというのも正解だ。京山先生は『名状しがたい』とcholeraを表現したそうだけど、的のど真ん中を射抜いた指摘だね。定義できないのが定義、なんて言うと胡散臭い感じがするけども、それ以上にしっくりくる表現もなかなかないんじゃないかな。君は玄関番を任されているわけだけど、ぶっちゃけ――」

「若いの相手になにをやっとる。みっともない」

 赤鬼氏が発したのではない声が、赤鬼氏が発した声を掻き消した。振り向くと、戸口に佇んで栄田くんたちのことを見ている人物がいる。

 中背痩身、メタリックな青色のフレームの眼鏡をかけた、三十過ぎくらいの男性。レンズの奥の目の鋭さに栄田くんは緊張したが、殺気立ったところは微塵もない。赤鬼氏とは違って素面のようだ。理知的で、落ち着きが感じられて、といった印象は、赤鬼氏よりも遥かに、栄田くんがイメージする標準的な作家像に近い。

「おう、土川先生。土川先生も議論しに来たのかい?」

 青い眼鏡の男性――青鬼氏を認めた赤鬼氏は、にこやかに片手を上げる。対する青鬼氏は、どこか演技がかった挙動で両手を腰に当てて息を吐き、

「しゃべっているのはあんたばかりなのに、議論もなにもないだろうに」

「なんだ、見物していたのか」

「様子を見ていたけど、絡むのを一向にやめないから止めにきたんだよ。他の連中は見てとおり、一部を除いて酔っぱらってどうしようもないから、仕方なしに」

 青鬼氏は宴会場のどんちゃん騒ぎを振り返り、すぐに赤鬼氏へと顔を戻す。

「ところで、隣にいる若者は?」

「この子は京山先生の書生さん。京山先生、choleraにかなり気をつかっているだろう。だから、それについての議論をちょっとね。議論という表現がどうしても気に食わないなら、講釈と言い換えてくれてもいい」

「cholera対策ということ?」

「対策云々というよりも、choleraそのものについてだね。私はcholeraの存在は端から信じてないから。えーっと、土川先生は確か――」

「実在は認めるが対策はしようがない派だ。本岡先生とも京山先生と違う。――えっと、君。君は京山先生に、choleraの情報を集めるように指示されたのかい?」

 青鬼氏がおもむろに栄田くんに視線を注いで問うた。

「いえ。わたしは『自宅にcholeraを入れないように』と命じられただけです。ただ、choleraに関してあまりにも無知なので、作家の方とお話ができるこの機会にぜひ質問を、と思いまして」

「ああ、そういうことか。私から一つだけアドバイスするとすれば、choleraのために人生を削る必要はない、ということかな」

「人生を削る?」

「要するに、根を詰めすぎるなということだね。choleraというのは、たとえばcholera専用の捕獲網が開発されたとすれば、網目よりも少し小さい体に進化して、ターゲットを食らうまでの道のりを切り拓くような存在だ。そんなものに振り回されて心身をすり減らすくらいなら、潔く諦めた方がいい。なるようにしかならないのだから」

「京山先生が聞いたら確実に憤る台詞だねぇ。いやはや、おっかない」

 茶化すような赤鬼氏の言葉。青鬼氏はそれを無視し、二人がいる方へと歩み寄ってくる。歩き出した直後、床に転がるマネキンに気がついたらしく、一瞬動きを止めたが、これも看過した。

 赤鬼氏のもとに到着するなり、青鬼氏は赤鬼氏の腕に自らの腕を絡ませ、引っ張り上げた。強い力には見えなかったが、立ち方はスムーズだ。

「さあ、酔いが回りきらないうちに戻りましょう。迷惑をかけるのは身内だけで充分だ」

「迷惑をかけているのはみんなの方じゃないか。食べ物は床にぶちまけるわ、中居や芸子にセクハラはするわ、乱痴気騒ぎの酷い有り様だ。酒っていうのはねぇ、私みたいに静かに酔うものだよ。花鳥風月のように静かに――って、鳥も風もうるさいか。ははは」

「まったく、あなたという人は」

 赤鬼氏の足が不可抗力にふらついたり、青鬼氏の耳元に息を吹きかける悪戯をしたりするせいで、戸口までなかなか辿り着けない。四つの足が畳の上に置かれると、青鬼氏はもう一度マネキンを一瞥し、戸を静かに閉ざした。


 長風呂を終えたその足で、就寝前の挨拶をしに先生の書斎へ向かっていた栄田くんは、廊下の真ん中で息を呑んで立ち止まる。

 書斎の襖が薄く開き、明かりが漏れているのだ。

 閉め方が甘かったのではなく、出入りするために開けたが閉め忘れている、と解釈するのが妥当な幅。

 栄田くんの心臓は早鐘を打ち始めた。

 なぜ開いているんだ? 五日間いっしょに暮してきたけど、こんなことは一度もなかった。開きっぱなしになっている理由は? 今、先生はどこにいるんだ? 僕の入浴中にどこかへ行った? それとも、書斎の中? 故障していて閉まらないのではなくて、わざと開けている? だとすれば、なんのために? 僕が挨拶に来ると分かっていてあえて開けている? それともまさか、襖も閉められないような緊急事態が先生の身に起きたとでもいうのか?

 安否確認という使命を自覚したことで、勇気が漲った。口腔の唾を呑み込んで意を決し、大股で廊下を直進する。問題の襖の前で少し逡巡したが、思い切って覗き込んだ。

 書斎は十畳ほどの和室で、壁に沿って設えられた天井に届く高さの書棚が目を惹く。奥の壁に向かって、立派なデスクと回転椅子。デスクと襖の間に座卓が置かれていて、先生が突っ伏している。

 先生は規則的な寝息を立てている。組んだ両腕にのせられた顔に浮かぶ表情は、安らかな眠りの中にいることを示している。

 栄田くんはむしろ、先生の周囲の床に散乱した原稿用紙に驚愕させられた。総数は百枚に届くだろうか。表になっているものもあれば裏になっているものもあり、前者には例外なく文字が刻まれている。どの用紙も、文字で埋まっているマスよりも空白のマスの方が多い。

 憧れのプロの作家の原稿。恐らくは完成品ではない、とはいえ。

 手に取って読んでみたい。一介の書生風情が無断で読むなんてとんでもない。相反する思いが胸中でせめぎ合う。

 作家・京山東伝に対する栄田くんの想いは深い。仮に先生がその場に不在であれば、なにかもっともらしい理由を見つけ出してきて、一・二枚走り読みしたかもしれないが、先生は眠っているとはいえ書斎にいる。すぐ目の前にいる。

 そこで妥協して、原稿を手には取らずに、立ったままなにが書かれているのだけを確認することにした。

 しかし栄田くんは、裏面が表になった一枚に目を惹きつけられた。原稿用紙の裏に文字がつづられているのだ。

『認めざるを得ない。力不足だと。私には欠陥がある世界しか創造できない。世界を満足に運営できない』

 書斎の襖が開いているのを発見したとき以上の衝撃と驚愕が栄田くんを襲った。

 書き記されていたのは、創作の悩み。

 栄田くんは知っている。先生は自作の中で、自作に対して「世界」と表現し、執筆を「創造」と言い換えたことがあると。

 先生は創作活動について悩んでいる。

 襖を閉めるのを忘れるほど、寝室ではない場所で眠り込んでしまうほど、原稿用紙の裏に思いをつづられずにはいられないほど、苦悩している。

 尊敬している先生が。

 文壇からも実力を認められている京山東伝が。

 いや、もしかすると、創作のアイデアをメモしているだけなのでは? 創作に悩んでいるのは僕の早合点かもしれないぞ。

 一縷の希望は、他の原稿に目を這わせて早々に打ち砕かれる。

『私は創造主失格だ』

『なぜだ? なぜ、くり返し試みても上手くいかない?』

『私には才能がないのか。これまでの成功は偶然に過ぎなかったのか』

 堪らず顔を背けた。今や痛いくらいに激しく鼓動する心臓を抑えつけようとするように、狂おしげに衣服越しに胸を掴む。

 栄田くんは音を立てないように襖を閉めて自室に入った。


 胸の高鳴りは収まる気配がない。とてもではないがプライベートな時間を過ごすどころではない。

 心臓がようやく落ちついたころには、一応の結論が出ていた。粗末な卓袱台の天板に肘をついた姿勢で、身じろぎ一つせずに考えた結果の結論。考えざるを得なかった結果の結論。

 昨晩の宴会で、先生は作家仲間と創作談義をしたのだろう。先生はアルコールも女遊びも賭け事も嗜まない。随筆やインタビューなどで何度となく語っているように、趣味は読書くらいのもの。周りにいるのは同じ作家とくれば、話題はそれしかないはずだ。

 宴会に参加する前から、創作関連の悩みを抱えていたのかは定かではない。抱えているのだとして、その種類や大小も。

 とにかく先生は作家仲間と創作談義を行い、己の悩みを強く自覚した。その悩みは、談義の中では解消されなかった。なぜなら、先生は悩みを胸に秘めたままにしたから。打ち明けたが、打ち明けられた側が答えなかった、あるいは答えられなかった、ということではないはずだ。先生の性格を考えれば、恐らくは。

 帰宅してからの先生の様子に特に変わったところはないように見えた。しかし、胸の内では様々な思いが混沌と渦巻いていたのだろう。片時も悩みから意識を逸らせなかったのだろう。

 先生は書きかけの原稿用紙と向き合った。悩みからいったん距離を置くために原稿と相対したはずが、いつの間にか率直で切実な想いを原稿用紙の裏に刻みつけていた。

 眠りに落ちたのは、十中八九、自らが抱える問題と戦ったことによる精神的な疲労が原因だろう。先生はもしかすると、宴会で出された料理にはろくに箸をつけなかったのかもしれない。

「……先生」

 潤んだ声が栄田くんの唇からこぼれた。先生が目を覚ましているのだとすれば、あるいは耳に届いたかもしれないボリュームでの呟き。

 あの先生が。

 京山東伝が。

 少し声を強めれば、届く。そんな近い場所に書斎があるのに、先生の悩みに気づくことができなかった。襖は確かに閉ざされている。しかし、内側から鍵はかけられないではないか。見せかけの密室ではないか。

 それなのに、気づけなかった。

 しかし、気がついた。

 ――僕になにができる?

 真剣に考えてみて分かったのは、一介の書生風情が役に立てることはなにもない、ということ。

 先生が抱えているのは創作に関する悩みだ。プロの作家を悩ませるほどの大問題だ。小説について学ぶために京山東伝の書生になった、これまでに習作の短編小説を六つ七つ書いただけの小説家志望の青二才が、力になれるはずがない。

 この事実は、現実は、栄田くんを手厳しく打ちのめした。頭が真っ白になり、呆然自失してしまった。

 それでもやがて自分を取り戻す。あらゆる悲観的な考えに向き合い尽くした彼は、前を向く。

 こんな僕にも、僕にでも、できることはないだろうか?

 悩みを解決する手伝いをする、とは違うなにかを。

 日付が変わるまでその問題について考えた。明日の仕事に支障が出てはいけないと、消灯し布団に潜り込んでからも、考えるのをやめられなかった。

 まだ見つけられていないだけで、探し続ければ見つかるかもしれない。

 一縷の望みと、圧倒的な質量の不安に胸に抱いて、睡魔に身を委ねた。


 先生は創作に関する悩みを抱えている。

 栄田くんはそのような観念を前提に先生と接した。朝食時の挨拶から始まって、書斎にこもっての午前の仕事、昼食。さり気なく目を光らせたが、先生は全ての時間で普段どおりの先生だった。

 先生は寡黙だが、感情が顔や声に出ない人でもあるのだと、働き始めて一週間になる今になって漸く認識した。

 先生が視界に映らない時間は、先生のために自分ができることを探したが、探し物は簡単に見つかりそうにない。先生が常に監督しているつもりで仕事に臨まなければいけないと理解しながらも、ため息とあくびが頻繁にこぼれた。悩む先生について悩み、寝つくのが遅く、睡眠時間が普段よりも少なかったせいだ。

「こんにちはー。宅配便でーす」

 うとうとし始めたタイミングで、はきはきとした声が扉越しに聞こえた。一瞬にして眠気が晴れた。choleraという言葉が脳裏に甦り、全身に緊張が漲った。

 choleraは待ち構えている人間の心の隙を衝いて侵入する、という固定観念を栄田くんは持っている。先生のことばかり考え、しかも眠りの世界に片足を突っ込んでいた今というタイミングを見計らって、とうとうcholeraが京山家にやって来たのでは?

 心臓が早鐘を打っている。凝視してもあちらの世界が見え透くわけではないのに、双眸は玄関扉に釘づけだ。身じろぎすることさえも恐ろしい。一定のリズムで時を刻む針の音が時限爆弾のタイマーに思え、タイムリミットを迎えた瞬間、木っ端微塵に弾け飛ぶ気がしてならない。靴箱の上に鎮座する黒電話は、通信機器ではなく、栄田くんを監視する無機質な兵士のようだ。

 音を立てないように椅子から立ち上がる。沈黙の長さが耐えがたい。訪問者はなぜインターフォンを鳴らさないんだ?

 嫌な予感がひしひしとするが、それでも扉へ向かう。訪問者が次に発する言葉がおぞましいものである予感がして、それを聞きたくなかったのだ。一方で、訪問者がcholeraである根拠は、油断したころにやって来るというイメージだけだということも、頭の片隅で理解していた。

 心愛が訪問したときも似たような心理状態に陥ったが、訪問者はcholeraではなかった。

 気がついたことで、今度こそcholeraが訪れた可能性もあると理解しながらも、緊張がいくらか和らいだ。思い切ってノブを回して扉を開くと、

「京山東伝さん宛のお荷物です。こちらのお宅で間違いないでしょうか?」

 営業スマイルを満面に湛えた、宅配業者の若い男性だった。若年の男性ならば普通に胸に抱えられるサイズの段ボールを、少し重たそうに抱え持っている。

 栄田くんは込み上げてくる安堵の念に口角を持ち上げながら、「はい間違いないです」と答え、受け取りのサインを手早く済ませた。

「重たいので、荷物は下に置いておきますね。ありがとうございましたー」

 宅配業者は段ボール箱を栄田くんの足元に置いて風のように去った。

 箱を持ってみると予想以上に重く、小さく呻いてしまった。ひとまず家の中に入れて扉を施錠し、襖越しに先生宛の荷物が届いた旨を伝える。

 先生はすぐに部屋から出てきた。黙って玄関へ向かったので、ついていく。重量を考えれば、任意の場所へと箱を移動させる役割を任される可能性が高いと踏んだからだ。

 先生は箱の前に片膝をついて開封する。栄田くんはその程近く、事務机のかたわらに佇んで作業を見守る。ガムテープが剥がれると、濃厚な土の香りが漂った。先生は箱の中に手を入れながら、

「サツマイモだ。私の実家から送られてきたものだ」

 掴み出したのは、全長三十センチほどになる一個。

 土をうっすらとまとったそれを、自らの顔の前にかざしてしげしげと眺める。サツマイモにまつわる過去というよりも、実家にまつわる過去に思いを馳せている横顔だ。

 栄田くんは先生の著作に、小学生のころのサツマイモ掘り体験を書いた随筆があるのを思い出した。タイトルは『目の中の砂』。先生が子供のころから繊細な心の持ち主であることがひしひしと伝わる秀作で、栄田くんのお気に入りの一作だ。

 作中で、先生の故郷は海沿いの鄙びた町で、サツマイモが特産品だと紹介されていたから、差出人が先生の実家だという証言は事実だと確信できた。

 故郷の風景や子供時代の体験に比べて、家族との思い出が作品の中で語られることは少ない。先生と家族は現在どのような関係なのか、にわかに関心が高まったが、

「焚き火をして、芋を焼こうか」

 サツマイモを手にしたまま、おもむろに栄田くんを見上げての先生の発言に、思案は中断を余儀なくされる。全く思いがけない提案だ。

「どうした、栄田。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして。サツマイモが手に入ったから、焼き芋をして食べる。おかしなことを言っているか?」

「いや、その……。すみません」

 返答に窮したから、謝る。よくない対応だと思いながらも、そうすることしかできなかった。

 焼き芋。食べるという行為に対して淡泊で、日常のルーティンを崩すことをよしとしない、あの先生が。

「台所の隅に薪を積み上げてあるのは知っているね。火は私が点けるから、君は薪を庭に運び出してくれ。家のすぐ目の前でいい。さあ、きびきびと動いて」

 主人に命じられるままに書生は行動を開始する。

 必要なものを庭に運び出す役割は栄田くんが受け持ったが、サツマイモを洗うのは先生が担当した。ただ待っているだけなのも退屈ということで、先生が自主的に仕事の一部を引き受けたのだ。

 たった二個のサツマイモを水洗いするだけとはいえ、先生に労働させた。書生がその場に居合わせながら。

 栄田くんは恐縮しきりだったが、先生は控えめながらも屈託なく微笑して、

「いいんだよ、これくらい。君が来る前は家事は自分でしていたしね。いい気分転換になるよ」

 深海のような度量の広さに、栄田くんは感服した。待たせることがないよう、大急ぎで家と庭を往復しようとすると、今度は「ゆっくりとやろう」と優しく声をかける。胸が震えた。

 なぜ急に焼き芋をしようと言い出したのかは、様々な可能性が考えられる。作業と並行してその謎について考えてみたが、集中力を保てない。

 今はただ、先生に従順な書生でありたい。先生の望みを叶え、喜ばせるために行動したい。

 全ての材料の移動を完了させたとき、すでに火は熾きていた。くべられた薪の数は思いのほか少なく、炎も小さく、燃え上がるという形容がふさわしい激しさはない。ただ、黄色に近いオレンジ色は鮮やかで、活き活きしている。熱が空気を介して肌に伝わってくるし、ごく小規模ながらも炎が爆ぜる音も聞こえる。

 屋内から運び出した椅子に先生は浅く腰を下ろし、サツマイモを手にする。細長いものが選ばれたのは、細ければ細いほど中まで火が通るのが早いからだと、料理ができる栄田くんは瞬時に理解した。

 まずは濡らした新聞紙を、次いでアルミホイルを赤紫色の体に巻きつけ、炎の中に静かに置く。二個目も同じ要領で加工し、一個目の隣へ。

 先生はくべていない薪の中から細長いものを選び取り、それで芋をつついて位置を微調整する。棒立ちしてそれを見ている栄田くんに気がつくと、手振りで促して椅子に座らせる。

 二脚の椅子は炎を挟んで向かい合わせに置かれている。火勢は激しくないため、真正面を向くと先生の顔がまともに視界に映る。

 炎を眺める先生に倣い、栄田くんは同一の対象に目を注ぐ。遅まきながら緊張していることを自覚する。炎の熱さのせいかとも思ったが、熱気が届く範囲内はさほど広くない。顔を火照らせている原因は栄田くんの心にある。

 そういえば、先生と物理的に向き合う機会は初めてだ。その気づきが緊張をいっそう高めさせる。

 先生は、焼き芋が好物だからこのイベントを企画したのだろうか? それとも、まさか、僕のためを思って?

 先生は依然として炎を見つめている。芋に触れるのに使った細長い薪を、今は足元に横たえ、燃え盛る赤を見守るのに専念している。火加減を注視しているのか、漫然と眺めながら物思いに耽っているのか。先生の顔を隠すには迫力不足な白煙は、真相だけを完璧に隠蔽している。

 芋は何分くらいで焼き上がるのだろう?

 ……分からない。なにもかも分からない。先生も、世界も、社会も、世間も、作家も、小説も、choleraも。

「君に宴会に同行してもらったときに」

 先生の声が栄田くんを現実に引き戻した。目を見ながら呼びかけられた気がしたが、先生の視線の方向は依然として炎だ。

 芋の焼け具合は銀色のベールに包まれている。先生の内心やcholeraのようにベールに包まれている。

 栄田くんは銀色の塊ではなく先生の顔を見つめながら、まばたき一つせずに言葉に耳を傾ける。

「君を宴会場に連れていけばよかったかな、と思ったんだよ。土川先生や本岡先生と話をしていたのを見たけど、あのとおり、気さくでこだわらない人たちばかりだからね。書生だからといって見下すことはまずないから、待合室ではなくて、宴会場まで来て料理を食べればよかった。鍋物も出たし、食べ応えのある肉料理も出た。あれだけの量と質の料理を食べれば、胃袋も心も満たされただろうに」

 なんと返せばいいか分からない。返すべき文言を見つけられないのではない。先生が書生の食生活に気をつかってくれているのが信じられないのだ。

 毎日三食粗食を食べさせるのが当然だと認識し、改善する意思はないものと思っていた。しかし、違った。書生にはもっと食べさせるべきだ。それにもかかわらず、自分にとっての最適を、普通を、弱い立場の人間に押しつけている。そう明確に認識すると同時に、問題視してもいたのだ。

 先生はただでさえ、日々choleraに神経を尖らせているというのに。

 のみならず、創作に関する悩みを抱えているというのに。

 それなのに、書生の心配まで。

 先生がおもむろに顔を上げた。必然のように視線が重なる。その出所である瞳は、聖職者のそれを思わせる深みを備えている。闇に染まることなど未来永劫ない、眩いばかりに輝かしい瞳。

 得体の知れない、名状しがたい、しかし善に属するのは間違いないものに体を貫かれて、栄田くんは畏怖にも似た感覚に襲われて身震いをした。

「焼き芋をしようと思ったのは、君の心と胃袋に満足してもらうためだ。もうそろそろ食料を買いにいかないといけない時期だから、冷蔵庫の中にはろくなものがないだろう。だから、焼き芋が一番のご馳走だと思ってね。甘みが強くて、美味いんだよ、私の地元で収穫されるサツマイモは。昨今は舶来の菓子が豊富に出回っているが、それに勝るとも劣らない。多少贔屓目はあるだろうがね」

 先生はいつになく饒舌だ。あたかも、封じていたものを解き放ったせいで錠前が機能しなくなり、言葉を吐き出すことに歯止めがきかなくなったように。

「これまで君には私のライフスタイルに合わせてもらったが、これからはもう少し君に配慮しよう。たとえば、君が現状、最も改善を願っているのは食事だと思うのだが、今後は作りたいと思う料理を作るといい。私は極力譲歩するから、君中心で献立を決めてくれ」

「……先生。お気持ちはありがたいのですが」

 今、最優先で解決するべきなのは、先生が抱えている悩みでしょう? 書生の毎日の食事なんてどうでもいいでしょう? そう叫びたい気持ちをぐっと堪える。

「それでは使用人の意味がなくなってしまいます。使用人は主人に従うものなのに、わがままを許すなんて」

「しかし、これくらい言わないと、君は頑として方針を変えようとしないだろう?」

 先生の口元が柔和な微笑を形作った。目頭が熱くなる。

「君も、少しくらいは自分の意見を通しなさい。私も、少しくらいは我慢するから。私はさほど多くは食べられないし、好き嫌いも多い方だが、試しに食べてみれば食べられるようになるかもしれない。君のわがままが、私の生活の質を上げることに繋がる可能性があるんだ。だから、今後はそうしてくれ」

「――はい、先生。先生のおっしゃるとおりにします」

 栄田くんは力強く言い切った。

 その申し出は、差し出がましいのでは、おこがましいのでは、という思いを胸に幽閉して、こちらからぶつけるべきだった。その話を切り出させる手間を先生にかけさせるべきではなかった。

 そう思ったとたん、双眸から涙が溢れ出した。

 駄目だ、と思った。先生の前で泣いてはいけない、という意味でも。自力では止められない、という意味でも。僕の問題なんかのために先生の時間を消費させるべきではない、という意味でも。

 僕の食事の件についてはこれで解決だ。せっかくの機会だから、先生の問題にも触れよう。創作に関してお悩みのようですが、僕にできることはありませんか? 原稿用紙に刻まれた心の叫びを見たと正直に告白したうえで、そう問おう。そうするべきだ。

 先生がおもむろに椅子から立ち上がり、焚き火を迂回して栄田くんに歩み寄ってきた。

 真横で腰を屈め、目の高さを合わせる。非礼だと認識しながらも、泣いている顔を見られるのが嫌で、面を上げられない。思いとはうらはらに、涙は一秒ごとに水量を増していく。

 突然、体が緩く締めつけられる感覚があった。先生に抱き締められたのだ。把握した瞬間、涙を自力で抑え込むのが絶望的になった。

 すみません、と心の中で謝罪する。

 書生の分際で泣いてしまって、すみません、すみません、すみません。でもきっと、芋が焼き上がるまでには涸れると思います。だから、すみませんが、それまでの間こうしていてくれませんか。これはおこがましい願いなのでしょうか?

 洟をすする。先生の匂いが鼻腔に流れ込んでくる。意識の輪郭が融けていく。そっと、先生の背中に両腕を回す。呼応して、抱き締める力が強まった。優しく、それでいて頼もしく。

「……ああ」

 栄田くんは呟く。陶然と声に出して。狂おしげに心の中で。

 先生、先生、先生――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る