なぜならこの世界は
阿波野治
第1話
「件くんが東伝くんのところに行っちゃうと、こうして気軽にごはんを食べに行けなくなるから、少し寂しいね」
トンカツを咀嚼しながらの気怠そうな愚昧さんの声。食べながらしゃべっているにもかかわらず、そこはかとない気品が漂っている。
栄田くんと愚昧さんのテーブルには同じ定食が並んでいる。トンカツとキャベツの千切りの大皿、ウスターソースの小皿、白米、たくあん漬け、そば米汁、水のグラス。トンカツの衣は薄く、肉は分厚い。
「ご近所さんがよく散歩させていた柴犬が死んじゃったときくらい寂しいよ」
トンカツを口に入れたばかりの栄田くんは顔を上げた。愚昧さんは口を動かしながら、空色の瞳で彼を見返す。割り箸を握っているのとは逆の手で金髪を耳にかける。
突然、店の奥でガラスが砕け散る音が響いた。口の中が空になり次第返答しようと考えていた栄田くんは、反射的に振り向いた。
店内の左奥に明るさを提供していたシャンデリアが落下し、テーブルを客や料理ごと圧し潰している。しじみの殻のような艶やかな黒色の椀が逆さまに転がっているが、液体はこぼれていない。下敷きになっているのは、クリーム色のポロシャツを着た初老の男性。薄い頭頂に無数の細かなガラス片が散らばっている。
「寂しいね。気軽に食事もできないっていうのは」
愚昧さんの呟きは、同席者に話しかけているとも、ひとり言を言っているともつかない。
栄田くんは口腔の肉片を嚥下し、顔を正面に戻す。彼女の首は今日も暗灰色のストールによって守られている。
「でも確か、週に一回お休みをいただけるんでしたよね」
「うん。でも、平日にサボってとかは無理だと思うの。東伝くんは四角四面なところがあるから。そういう意味では自由じゃないからね」
栄田くんは一口で食べるには少し大きいトンカツの一切れを、数本の千切りキャベツと共に口に押し込んだ。急くことなく咀嚼し、嚥下してから、
「夢を叶えるためですから、それくらい平気です。全く休みがないのであれば、気持ちもまた違っていたと思いますが」
「ほんと真面目だよね、件くんは。そういう真面目な年下くんだからこそ、いっしょに過ごすのがこの上なく楽しいんだけど。分かる? あたしが言っている意味」
「楽しいんだろうな、とは思いますよ。僕といるときの愚昧さんは、屈託がなくて、いい意味で少女らしくて。愚昧さんのリラックスした顔を見ると、全てを許せる気がします」
「『許せる』じゃなくて『許せる気がする』なのね。トンカツを奢るだけでは不満足かい? 若人よ」
「満足していますよ。文句なしに満足しています。そういえば、食べに行くのはいつもトンカツ屋さんですよね。今さらですけど、なにかこだわりがあるんですか?」
決まってるじゃない、と愚昧さんの唇は動いたように見えたが、声は栄田くんの耳まで届かなかった。突然、店の出入り口の木戸が蝶番から外れ、激しい音を立てながら床を転がったからだ。
菊開月の乾いた外気と共に闖入してきたのは、カーキ色の軍服を着た、ざんぎり頭の壮年の男。
「天誅!」
男はしゃがれ声で叫ぶと、手にしていた日本刀で手当たり次第に客を斬りつけ始めた。
磨き抜かれた鈍色のスクリーンが、天井から降り注ぐ光に煌めきながら、逃げ惑う客たちの一挙手一投足をルポルタージュする。返り血が刀身を見る見る塗り潰していく。憤怒の形相の男の口から声は発せられない。ひっきりなしに奏でられる食器の落下音。立ち込める料理の匂い。騒々しさは加速度をつけて高みへと邁進する。
「東伝くんの人となりは随筆なんかで予習済みだと思うけど」
愚昧さんは皿の上に散乱したキャベツを箸先で集めては口に運ぶ。栄田くんはかじろうとしていたトンカツを皿に下ろし、騒がしい中で紡がれる彼女の言葉に耳を傾ける。
「ノンフィクションとは言い条、脚色もかなりあるみたいだからね。少なくとも、根性がひん曲がったどうしようもない人間ではないのは保障する。慣れない暮らしで最初は大変かもしれないけど、気負わずにやっていけばいいよ。気負わずにね」
「ありがとうございます。今度いっしょに食事をするときには、よい報告ができるようにがんばります」
「うん、がんばれ」
「一つ確認なんですけど、小説の書き方のレクチャーも報酬の一つなんですよね?」
「そうだよ。そう聞いてる。そんなことより、ほらほら、そば米汁も食べて。熱いうちに」
箸でつつく動作に促されるままに椀を手にする。
直後、二人が着いたテーブルが大きく揺れた。振り向いた栄田くんは、テーブルのすぐ脇で、日本刀を高々と振りかざしたざんぎり頭の男を見た。
横倒しになった椅子のかたわらで、銀髪の老婆がへたり込んでいる。彼女を頭頂から真っ二つに切断する軌道で、白刃が振り下ろされる。断末魔の悲鳴が、屠られる大型獣の今際の声じみた野太さで轟いた。愚昧さんの金色の長髪が斬撃の風圧になびいた。額の中央と臍とを一直線に結ぶ切創から鮮血が迸る。
飛沫が床に前衛的な水玉模様を描いたのを見届けて、栄田くんは顔を正面に戻す。
愚昧さんはウスターソースの余剰を皿の縁で軽く拭い、トンカツの切れ端を口に放り込む。唇を開き、トンカツを迎え入れて閉じるまでの間、彼女は口内を隠さなかった。
健康的な肉色を、栄田くんは五秒近く直視したのち、椀にたたえられた透明な汁をすする。砂の中に身を潜める生物を探すように、沈殿したそば米の丘を箸で緩やかに乱す。
阿鼻叫喚の中、ざんぎり頭の男は日本刀をいっそう激しく振り回しながら、落下したシャンデリアとの距離を着実に縮めていく。
筋骨隆々の半裸の黒人の青年が、若年の日本人男性を中心に構成された群衆に取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けている。
取り囲む者の大半が、箒や木材などの武器を手にしているが、文字どおり手にしているだけ。黒人の青年がすでに虫の息なのに加えて、両手首と両足首を麻縄で緊縛されているため、無理に使用する必要がないらしい。食い込む縄によって皮膚がすり切れ、合鴨肉を連想させる色合いの肉が露出している。
愚昧さんの手書きの地図を手に、栄田くんは凄惨な暴行現場を横切る。晴天続きの往来は路面の乾燥が酷く、草履の底面が地表をこすり上げるたびに砂埃が濛々と立ち昇る。
長屋を発ってしばらくは、先生と対面を果たしてからのシミュレーションを脳内で行っていたが、やがてすっぱりと断念した。性格的なことと、人生における重大な局面に差しかかっているという認識とが相俟って、どうしてもネガティブな未来を想像してしまう。悪戯に心を緊張させるのは逆効果だと判断し、やめたのだ。
臍の緒がついた胎児のホルマリン漬けを店頭に展示した、薬屋。
菓子よりも玩具の方が多く陳列された、駄菓子屋。
表紙が人間の皮膚で作られた書籍が目玉商品と銘打たれて売り出されている、古書店。
しばしば目に飛び込んでくる、奇怪な販売品に注意を奪われながらも、栄田くんは目印の樫の木を念頭に置き続けている。
現時点で、それらしき一本は視界に捉えられていない。
「まさか、愚昧さんがでたらめを書いたはずはないけど――」
だんだん不安になってきた。
何枚ものポスターが貼られた電信柱を通り過ぎた直後、突然、路傍に屹立した大樹が目に飛び込んできた。不意打ちを食らった心が乱れた。数秒間、その場に足を止めて気持ちを静め、樹へと歩み寄る。
高さは三階建ての建物ほど。神社の境内に移植してしめ縄でも飾っておけば、神木として通用しそうな立派な一本だ。
周辺に他に巨木は見当たらない。栄田くんは植物に疎いので名前は分からないが、目印の樫の木で間違いなさそうだ。たすき掛けにした抹茶色の風呂敷包みに地図を仕舞い、樫の木の手前の道へと折れる。
脇道に入っても、商店が道の両脇に建ち並んでいるのは相変わらずだ。臓物を煮込んでいるらしい臭気が嗅覚を刺激する。人や車両の通行はない。天然ものの静けさが緊張を緩やかに解きほぐしていく。
目的地に到着した。
先生の自宅は、小高い山を背にしてぽつんと建っていた。こぢんまりとした、素朴な佇まいの木造平屋だ。敷地を囲う柵がないため、どこまでが庭で、どこからが山なのかが判然としない。
玄関扉の横の木製の表札には、流麗な筆致で「京山東伝」と記されている。扉のすぐ真上の壁に、濃緑の葉をつけた柊の枝が飾られている。
深呼吸を一つしてからインターフォンを押す。
数秒の間を挟んで足音が近づいてきた。音がやむと共に施錠が解かれ、扉が開かれる。
「……君は」
姿を見せたのは、藍色の作務衣を着た若い男性。耳が隠れる長さの黒髪と、青白い顔が対照的だ。解決不可能な問題を突きつけられ、問題解決を放棄することを許されない宿命を背負ったかのような、眉間の皺。こけた頬。
京山東伝だ。
先生の顔を見るのは初めてではない。以前に一度だけ、全国紙に掲載されたインタビュー記事を読んだことがあり、顔写真も掲載されていた。
文学に興味がない層も念頭に置いたインタビューらしく、創作論などを語った随筆などと比べると内容は貧しかった。ただ、精いっぱい一般市民に寄り添おうとする先生の語り口は、気難しい文章の職人という従来のイメージとはまた違う、得も言われぬ魅力があった。栄田くんは切り抜いて机の引き出しに大切に保管してあるその記事を、何度読み返し、何度顔写真を眺めたか分からない。
憧れの人が目の前にいるのだ、と栄田くんは噛みしめるように思う。鼓動は駆け足だが、冷静さを比較的高い水準で保てているという、一種珍妙な精神状態だ。
実物の先生は写真で見たよりも痩せていて、どこか病的な雰囲気が漂っている。顔色もあまりよくない。
まともな食事をとっているのだろうか? たまたま今日は体調が悪いだけ? 病気を患っている可能性は? 不調に陥っているのだとすれば、それは肉体? それとも精神?
案じずにはいられないが、今の栄田くんには他にやるべきことがある。
「申し遅れました。わたくしは本日より書生として京山先生のお世話になる、栄田件です。よろしくお願いします」
深々と頭を下げる。先生は言う。
「三輪木から話は聞いているよ。私は君を書生としてだけではなく――まあ、細かいことはまだいい」
軽快ではないが、重病人のそれではない挙動で栄田くんに背を向ける。
「入りなさい。さっそく仕事の説明をさせてもらう。……いや、その前に部屋に案内だね」
先生に続いて中に入る。
玄関はさほど広くない。上がってすぐの場所に、短辺の片側を壁に、長辺の一方を靴箱に接する形で、スチール製の事務机が置かれている。椅子は安物くさい丸椅子だ。机の上には「九月度青空御開帳」という一文が確認できるチラシが、靴箱の上にはありふれた黒電話が、それぞれ置かれている。
先生は草履を脱いで三和土から上がる。見下ろされる形だからか、栄田くんに注がれる眼差しはどこか威圧的で、あと一歩で無意味なお辞儀をするところだった。
同じ高さに上がろうとして、扉を施錠し忘れていることに気がつく。先生に眼差しで意向をうかがうと、どこか物憂げに首肯し、
「choleraが入ってこないように、戸締りは怠らないようにしてくれ。この場限りではなくて、常にだよ。その程度の処置で防ぎきれるほど簡単な敵ではないが、手を拱いているよりもずっといい」
書生が命令を履行するのを見届けてから、先生は机上のチラシを二つ折りにして懐に収め、廊下を進む。栄田くんは脱いだばかりの草履をもう一足の草履の横に揃え、先生が描く軌跡を辿る。
書生のために宛がわれた部屋は和室で、手狭に感じられた。奥に据えられた収納棚が空間を圧迫しているせいだ。中はがらんどうで、四隅が埃で白くなっている。部屋の一隅には、畳まれた布団が一式。中央には、天板の縁が欠けた卓袱台。風呂敷包みを卓上に置き、部屋を出る。
台所、風呂場、食堂。いずれの空間も清潔だが、古びていてあまり広くない。ガスの元栓はここで、風呂を沸かすときはこのスイッチを、といった細かな説明が続く。
書斎を案内されたときは鼓動が速まったが、襖は開かれなかった。隣接する先生の寝室も以下同文だ。
先生は廊下を引き返しながら、栄田くんがこなすべき仕事を口頭で列挙する。口調は事務的だ。声は聞き取りやすく、説明も平易だが、最小限の言葉数で済ませようとする傾向があり、要点を掴みきれないことが何度かあった。また、一度に複数の情報を伝えられるため、記憶しきれるかが不安でもある。
「ここが君の仕事場だ」
先生は玄関まで戻って来ると、事務机を手で示して告げた。
「喜多村何某という作家が書いた『嬉遊笑覧』という書物にもあるように、玄関とは文字どおり、幽玄なる世界に通じる関門。そこを守る番人として、君は一日中この席に着き、choleraがこの家に侵入しないかを監視してほしい。いわゆる玄関番だ。一日中というのはもちろん、家事や雑用、睡眠や食事やトイレなどの時間を除いて、という意味だよ。稀に客が来ることもあるから、そのときは普通に応対してくれればいい。電話がかかってきたときも同じだ。ただし、いつなんどきもcholeraに対する警戒を怠らないように、くれぐれも注意してくれ。頼んだよ」
「あの……。一つ、おうかがいしたいのですが」
言ってみなさい、というふうに先生は顎を軽くしゃくる。
「choleraとはなんなのですか? 無知なので、それがどういうものなのかがさっぱり分からないのですが」
「名状しがたいものだよ。悪魔、病原菌、狂気……。捉え方は様々あるが、ありとあらゆるものに変化する存在だから、先入観は持ってもらいたくないね」
「choleraというのはつまり、人間に害をなす存在ということでしょうか。具体的なイメージが全く掴めないのですが……」
「そんなことは、君、永久に不可能というものだよ。判別方法としては、遭遇すればたちどころにcholeraだと分かる。『なにかが当たり前とは違う』という感覚、それだけが頼りなんだ。
言葉で説明するのは難しい。聞いても混乱するだけだろう。しかし、choleraとはそういうものなのだから、そう説明するしかないし、そういうものとして受け入れるしかないのだよ」
先生は栄田くんに背を向ける。
「私は書斎で仕事をする。君も仕事をがんばってくれたまえ」
先生が書斎の襖の向こう側に消え、玄関は静けさに包まれた。
栄田くんの意識の焦点は匂いに定められた。
快・不快ではなく、馴染みがない、その一点を強く意識する。
別世界に来たのだ、と強く実感した。これまでとは一切合財が違う、おいそれとは後戻りができない、そんな世界へと。
その選択には後悔していないし、今後することもないと信じている。ただ、現在の心境を率直に述べよと言われれば、「来てしまった」と答えたくなる。
丸椅子に腰を下ろすと、微かに軋んだ。事務机の天板に両手を置き、正面やや右にある玄関扉を見据える。
一枚のビターチョコレート色の木板に、真鍮製と思われるノブを取りつけたシンプルな作り。栄田くんの実家の玄関扉とは違い、擦りガラスがはめ込まれていない。したがって、屋内から外の世界を視認するのは不可能。
子供時代、栄田くんは自宅の玄関でよく一人遊びをした。その場所で遊ぶ利点があったわけではない。あらゆる場所で遊ぶことを厭わない幼年期の向こう見ずさが、多くの遊び場の中の一つとして抜擢しただけだ。
厳密な意味で無条件に選んだわけではない。幽鬼の気配漂う床の間がある和室や、嗅覚では感じ取れない臭気が立ち込める厠など、幼心に恐怖と嫌悪を感じる場所は排除した。一人っ子で、交友関係が狭い栄田少年にとって、一人きりでも安穏と時間を消費できるというのは、遊び場として必須の条件だった。
玄関は未知なる訪問者が予告もなく訪れる場所ではあるが、施錠されている。さらには、扉越しの音や匂いや気配で、すりガラス越しの映像で、訪問者の情報をおぼろげながらも迅速に確認できる。
障壁一枚を隔てて外界と隣接しているのが嘘のように、安心して遊びに没入できる場所。それが栄田少年にとっての玄関だった。
今こうして、静謐な空間に身を置き、覗き窓が備わっていない扉を正視しながら思うのは、視覚的な情報を取得できないのは想像以上に重圧がかかる、ということ。
現在、扉の向こうに人の気配は感じない。何者かが気配を殺しているようでもない。扉と壁のごく僅かな隙間から流入してくる、風とも呼べないほど微弱な風が肌に感じられるのみだ。
「……それにしても」
「cholera」とは、なんなのだろう?
先生の説明は曖昧だったため、それを足掛かりに具体的なイメージを描くのは不可能。choleraを恐れ、警戒しているらしい先生自身も、choleraがなんたるかを完全には把握しきれていない節があった。
聡明で博識なプロ作家である先生でさえも理解できていないのだから、一介の作家志望の頭が真実を導き出せるはずもない。事実、安易に定義するのは危険だ、という意味の警告を先生は口にしていた。恐ろしい存在なのだろうと察しはつくが、可能性の範囲は広大で、大まかに絞ることさえも難しい。
栄田くんは無意味だと薄々悟りながらも、無聊に任せてcholeraについて考え続ける。これというものを見つけられずにいるうちに、新生活にまつわる事柄へと意識が流れる時間が増えていく。
先生に満足してもらえる食事が作れるだろうか。先生はいつになったら小説について教えてくれるのだろう。来客や電話に失礼なく対応できるだろうか。
ジャンルは多岐にわたり、取り留めがない。
栄田くんは厠掃除のことを考えていたとき、襖が開く音がした。書斎の襖のようだ。
心身を緊張させて耳を欹てる。足音は真っ直ぐに玄関へと向かってくる。振り向くと、事務机の手前で音がやんだ。先生が懐に入れた手を抜いた。二つ折りにされた紙片を指先でつまんでいる。
「そろそろ夕食の支度にとりかかってくれ。少し早いが、米を炊くところから君にしてもらわなければいけないからね。ここ一週間の献立をメモしてあるから、ありあわせの食材で同じようなものを作ってくれ」
紙片が手渡される。谷折りにされた内側に文字列が記されていて、「蒲鉾」という文字が確認できた。
「夕食の準備が整ったら書斎まで呼びにきてくれ。頼んだよ」
先生が書斎に消えるまで待って、台所に直行する。家庭料理を作るために必要な器具は最低限揃っている。先生は自炊をしていると随筆で公言しているので、特に驚きはない。
渡された紙片を開く。癖のない整った筆致でつづられているのは、白米を主食に据えた和風の献立。
記載されているのは七日×三回分。全て、おかず一品に梅干しに白米という組み合わせだ。肉じゃがやシチューのような、何種類もの食材を使用し、調理にある程度手間がかかる料理は見当たらない。質素。この一言に尽きる。
手渡されたさいに見た「蒲鉾」の二文字は、レシピをメモしてあるのかと思っていたが、どうやらおかずとしてそのまま食されたらしい。料理名から推測した限り、肉や魚を使用した料理は殆どない。「秋刀魚の塩焼き」の文字列を火曜日の夜に見つけていなければ、菜食主義者かと疑っただろう。冷蔵庫の中を確認すると、食材は乏しい。
極貧に喘いで破滅した作家の存在は、経済発展が著しい当世においては過去となった感がある。しかし、古今東西の作家の日記や自伝や私小説、さらには作家を主人公とした伝記に数多く触れてきた栄田くんには、生々しい、現実的な危機に感じられた。
敬愛してやまない先生に彼らと同じ道を辿ってほしくない。持てる技術を総動員して、美味しくて栄養価が高い食事を提供しなければ。
意気込んだ直後、メモと同じような献立を作ってくれ、と頼まれていたことを思い出した。葛藤が生じたが、とにもかくにも米をとぐ。あとは炊くだけとなったときには、質素の枠を外れないように留意しつつ、少しでも栄養がある料理を作ろうと方針を固めていた。
二十一回中八回も登場していた蒲鉾は、動物性たんぱく質を手軽に摂取するために重用しているようだが、その役割を卵に一任する。卵料理ならばそつなく作れるし、アレンジをきかせるのも容易だ。
シンプルな卵焼きに、長ネギと小町麩の味噌汁、そして梅干しという献立にする。おかずは全て、ごはんが炊き上がるよりも先に完成した。
食事ができた旨を書斎まで伝えに行き、食堂にとんぼ返りして準備を整える。五分ほどで先生はやって来た。空腹を抱えて、食事をとれることに胸を弾ませて、という様子ではない。
一菜ではなく一汁一菜であることに、先生はいっさい触れなかった。炊きたてのごはんを茶碗に装って差し出すと、「少し減らしてくれ」。量を調節した茶碗を先生の前に置き、熱い緑茶を湯呑みに注いだところで、
「君も私といっしょに食べなさい。補足的しておきたいことが何点かあるから、食べながら話そう。食後にわざわざ機会を設けるのは時間の無駄だからね」
栄田くんの双眸は見る見る潤いと熱を帯びる。実現の可能性は低いだろうと諦めていたが、その実、密かに期待していた展開だったからだ。
冷静になれ。書生らしく振る舞え。浮かれたところを見せちゃ駄目だ。
心の中で自分に言い聞かせることで気持ちを繋ぎ止め、「ありがとうございます」と返す。そして自分の食事の準備に取りかかる。
書生兼玄関番が向かいの席に腰を下ろしたのを合図に、先生は椀を手にとって無音で味噌汁をすする。「君も食べなさい」と気をつかわれるのを避けるために、栄田くんは自主的に卵焼きへと箸を伸ばす。
「先生、料理の味はいかがですか。お口に合いますか」
恐る恐る確認を取ると、「問題ないよ」という簡潔な感想が返ってきた。
それを機に先生は本題に入った。前言どおり補足的な、こまごまとした説明で、渡し忘れたものを一つ一つ確認しながら手渡すかのようだ。
やがて言葉が途絶え、食堂内に聞こえるのは食器同士が触れ合う音と、あるかなしかの咀嚼音の二種類となった。
相席が決まった瞬間から覚えていた緊張感は、今や栄田くんの挙動をぎこちなくさせるまでに高まっている。息苦しいわけではない。空気はむしろ清らかに澄んでいる。それにもかかわらず、箸の動かし方はさながら出来の悪いからくり人形だ。
挙動の不自然さを自覚したことで、先生の目が気になり、箸づかいに向かう意識は強まった。うらはらに、説明を聞いているさなかよりも冷静に先生の所作を観察できるようになった。
背筋を真っ直ぐに伸ばして食事をとる先生からは、完成された美が感じられる。挙動に不自然さはなく、普段から今のような態度で食事をとっているのだと分かる。外界の音や気配や匂いすらも満足に観測できない静謐な空間で、朝も昼も夜も粗食を食してきたのだろう。梅干しや蒲鉾を頼みに白飯を食べ、手間をかけずに拵えた、野菜が中心の料理を胃の腑に収めてきたのだろう。
人の評価を気にせずに、己がやりたいと思うことを、なるべく美しく。
それはまさに、栄田くんが理想とする生き方だ。
栄田くんは今、涙ぐみたくなるような歓喜を感じている。
緊張を強いられるのだとしても。
料理をこぼすのを未然に防ぐべく、絶え間なく気を張っていなければならないのだとしても。
どんな困難が伴うのだとしても、先生と食事を共にしたい。なるべく、長時間。できれば、毎日。叶うならば、朝食も昼食も夕食も。
一方で、先生は静けさと孤独を好む人で、一人で食事をしたいのが本音だろうから、その意思を尊重するべきだ、という思いもある。今回は仕事に関する説明のための特例的な措置で、次回以降は別々に食事をとることになるはずだ、という諦めもあった。
「食器の後片付けと夜の仕事、頼んだよ」
食事が済むと、先生はさっさと食堂を後にした。
茶碗に付着した米粒は一粒もない。滑らかで白い内側の表面は、さながら風に均された砂漠の地表だ。
最後の一粒まできれいに食べよう。栄田くんはそう心の中で誓いを立てる。箸ですくった米の塊を、音を立てないように右側の奥歯で咀嚼した。
「入浴が済んだので、自室に引き上げます。戸締りは全て確認しました。先生、おやすみなさいませ」
書斎の襖の前、栄田くんは必要もないのに跪き、襖の厚みを考慮に入れた音量で告げた。
伝達事項があるならこの機会に伝えられるはずだ。そう考えて五秒待ってみたが、言葉はない。「失礼します」と告げて立ち上がり、振り向けばすぐ目の前にある自室の襖を開く。
室内は星のない夜空のように暗い。足を踏み入れたとたん、疲労感が押し寄せてきた。このまま眠ってしまいたかったが、布団を敷いていない。日記をつけるのもまだだ。
照明を灯し、風呂敷包みからノートとペンを取り出して卓袱台に相対する。記念するべき書生生活初日を迎えるにあたり、新品のノートを持参してきた。
ペンを握ったが、一文字目を刻む右手が動かない。考えがまとまっていないせいだ。漆喰の壁にもたれて二分ほどぼんやりしたのち、完璧主義に殉じる必要はないと開き直り、執筆を開始する。往々にしてあることだが、ひとたび書き始めると筆は滑らかに動く。
先生は想像に違わず尊敬に値する人だ。仕事はいろんな意味で大変だが、なんとかやっていけるだろう。京山家は静かすぎて少し寂しいが、直に慣れるはずだ。
現時点での唯一の明確な懸念は、「侵入を防げ」と命じられたcholeraの正体が全くの不明なことだが、今は目の前の仕事をこなすことに専念するべきだ。先生に認めてもらえれば、小説の書き方について教えてもらえるし、choleraについての情報も伝えてくれるに違いない。
そういった内容を、栄田くんの言葉で簡潔にしたためる。冒頭から末尾まで駆け足で読み返し、小さく頷いてノートを閉じる。
私語を交わす機会こそなかったが、食事を共にするという望外の幸運にも恵まれた。玄関番という仕事に対する戸惑いや難しさは感じたが、明日以降に巻き返せばいい。
今日一日の自信の振る舞いには合格点を与えられる。初日にしては上出来だ。
大きく息を吐き、口角をささやかに持ち上げる。
普段であれば日記に続いて、長編小説の構想を練ったり、習作の掌編小説を書きつづったりするのだが、今宵はあいにく体力も気力も使い果たしてしまった。
読書をするのも以下同文だ。風呂敷には選りすぐりの十冊を収めてきていて、全て先生の著作。
自己中心的な青年が利他的な行動を取ることによって意中の異性をものにしようとする試行錯誤の一部始終を描いた『純愛パラコート』。
少数派でありたい倒錯的な心理の魅力と醜さが主題の物語『真と善と美について』。
崩壊が確約されたコミュニティで理想の実現を画策する男が次第に目的を見失っていく『流刑の極北』。
若さ迸る最初期の代表作から、純文学と大衆文学の垣根を超越した知る人ぞ知る名作、賛否両論の問題作まで、幅広いジャンルの作品を取り揃えたというのに。
テーマが高邁だろうが、ストーリーが哲学的だろうが、文体が前衛的だろうが、京山東伝が描くのは全て、京山東伝の分身と思しき青年の内面。舞台が矢継ぎ早に移り変わろうが、個性的な登場人物が次から次へと現れようが、主人公がやることは一貫して、葛藤と煩悶と懊悩。
安易で大衆受けするハッピーエンドには着陸することは稀。だからといって、バッドエンドへの墜落がお約束になっているわけでもない。葛藤し、煩悶し、懊悩した果てに主人公が行き着いた地平にふさわしい呼称を、一読者が言語化するのは困難を極める。最適な言葉を模索する者は、木乃伊取りが木乃伊になるがごとく、京山東伝作品の典型的な主人公のように葛藤と煩悶と懊悩の深淵に沈むこととなる。
主人公がただひたすら思い悩む、それが京山東伝の描く世界なのだ。
思い悩むばかりが人生だ、そう京山東伝は言いたいのだ。
そのような、結論になっていない結論を最終結論と定め、京山東伝の世界にまつわる考察に幕を下ろすことになる。
取り上げるテーマはバラエティに富んでいるものの、「なにかに思い悩む主人公」が必ず登場するという意味ではワンパターンともいえる。また、書評家などからたびたび指摘されている欠点として、心理描写が冗漫な傾向があり、ときに堂々巡りに陥っている。
栄田くんに言わせれば、冗漫になったりループしたりするのは、青年の果てのない苦悩を表現するため。要するに、必要不可欠な冗漫でありループ。それも京山先生の持ち味の一つだと栄田くんは信じてやまないが、専門家や世間からはマイナス評価を下されることが多いのは、残念ながら現実だ。
文壇が下した小説家・京山東伝の客観的な評価は、有力な若手作家の一人というもの。若手作家のトップ、では決してない。独特の作風を確立した個性派作家だが、実力派と呼ばれることは少ない。著作の売上は多いとは言えないようだ。
実力に対して正当な評価が与えられていないようで、ファンである栄田くんとしてはもどかしい。
先生は『新進作家倶楽部』という、おおむね四十歳以下の作家で構成されたグループに属している。先生は現在二十九歳だから、あと十年は『新進作家倶楽部』に籍を置いていられる。栄田くんとしては、この十年の間に、先生にぜひとも名実共にナンバーワンの座にまで上り詰めてほしいと願っている。
筆記用具を風呂敷包みに仕舞い、卓袱台を壁に立てかけて夜具を敷く。照明を消して布団を潜り込むと、他人の家にいる実感が強く胸に迫った。
先生の家だ、と思う。
特別な場所だ、とも思う。
表情、言葉、しぐさ。先生に関連するありとあらゆる瞬間について振り返ってみたいと思ったが、やめておこう、とすぐに思い直す。興奮して眠れなくなるのは明らかだからだ。玄関番の仕事は思っていた以上に神経を使う。明日に支障を来たしたくない。
「choleraのことがなかったら、もっと楽だったんだろうけど」
choleraとはなんなのか。明日もミスなく仕事をこなせるのか。先生から小説について教えてもらうのはいつになるのか。
疑問や不安に向き合わないためにも、さっさと眠ってしまった方がいい。
疲労感と睡魔が速やかに願いを叶えてくれた。
栄田くんは目を覚まして早々、部屋に時計がないことに気がついた。
そういえば、玄関の事務机から見える範囲内にも、現在時刻を確認できる機器は一台もなかった。
先生はどうやら、栄田くんを迎え入れる準備が万全ではないらしい。
もっとも、手抜かりを責める気持ちは微塵もない。昨日一日で、先生は様々な機会を利用して、仕事のことや京山家での生活について説明した。その全てで、栄田くんの疑問や不安を払拭したい意思が感じられた。先生はあまり感情を表に出さない人だが、それでも誠意はしっかりと伝わった。
作家の中には目下の者に横柄に振る舞う者も少なくないと噂に聞くが、敬愛する京山東伝がその枠から外れる人物だったのは喜ぶべきことだ。そんな人物のもとで働ける僕は、文句なしに恵まれている。
「――よしっ」
掛け布団を蹴り飛ばして速やかに着替えを済ませ、布団を畳んで部屋を出る。
先生は起床していないようだ。昨晩のように襖越しに挨拶するべきかとも思ったが、まだ眠っている可能性を考慮し、朝食の準備に取りかかる。
白米を炊いている間に朝刊を取ってこようと、玄関から外に出る。日中は残暑厳しい菊開月のなかばでも、早朝の外気は冷たい。低温に委縮したかのように、京山家の背後から流れてくる緑の匂いはどこか希薄だ。
朝刊の一面を飾っていたのは、流行感冒に関するデマの検証記事。他には、条約改正を巡る政府の動き、遊郭で起きた心中事件の詳報、多発する鉄道事故に関する社説。栄田くんの人生に大きな変化があった昨日は、世界にとってはおおむね平穏な一日だったらしい。
朝刊を手に扉の内側に体を入れた直後、choleraのことを思い出した。
choleraなる存在は、扉が開いている隙に侵入した可能性もあるのでは?
込み上げてくる不安を懸命に抑えつけながら、神経を研ぎ澄ませて気配を探ったが、特に異常は感じられない。
しかし安堵はできない。choleraは不可視の存在の可能性もあるからだ。
とにもかくにも玄関扉を閉め、戸締りをする。各部屋を駆け足で見て回ったが、やはり特に異常は観測できない。
そういえば先生は、「仕事を始めるのは朝食を終えてからでいい」と言っていた。
つまり、choleraが京山家を訪れる時間帯は限られている? それともやはり、すでに侵入を果たしているが僕が認知できていないだけ?
焦燥する心をなだめながら先生の寝室へ向かう。あと二歩で到達というところで、微かな音を立てて襖が開かれた。現れたのは、藍色の作務衣姿の京山東伝。
相変わらず顔色はいいとはいえない。ただ、髪の毛は寝癖の一本もなく完璧にセットされているし、瞳は眠気に毒されていない。今すぐにでも執筆作業に取りかかれそうな、物静かながらも凛とした雰囲気に、栄田くんは瞬時に冷静さを取り戻した。
「先生、おはようございます」
昨日の就寝前、面と向かって挨拶ができなかった分を取り戻すように、深々と頭を下げる。
「おはよう。よく眠れたかい」
「はい、とても。朝刊を郵便受けから取ってきたのですが、どこにお持ちすればよろしいですか」
「明日からは食卓の上に頼むよ」
先生は朝刊を受け取る。視線が一面に落ちたが、青白い顔に浮かぶ表情に動きはない。
「新聞を読みながら朝食をとりたいから、君はあとから食べてくれ。昼食と夕食はどうする? 私と食事を共にしても気詰まりなだけだろう」
「わたくしは気詰まりではありませんが、先生にはゆっくりと食べていただきたいので、別々に食べるべきかと。そもそも、主従関係にある人間同士が同じ席に着くこと自体、異例ですから。今から朝食の準備に取りかかるので、半時間ほどお待ちください」
恭しく一礼し、大股で歩いて台所に戻る。
食い下がるという選択肢もあった。確率は低いだろうが、先生を説得できた可能性もある。毎日は無理だとしても、たとえば今日の昼食と夕食だけはいっしょに食べる、という譲歩案を示せば。
もっとも、後悔も落胆もない。むしろ清々しい気持ちだ。自分は正しい選択肢を選んだのだと心から信じられた。
朝食の配膳をするさい、念のためという気持ちで、朝刊をとりに行ったさいにcholeraが侵入したのではという懸念について先生に伝えると、
「問題はない。君は心配しなくてもいい」
その一言だった。
午前中は何事もなかった。昼食もつつがなく終わった。
栄田くんは手早く食事の後片付けを済ませ、玄関の事務机の椅子に腰を下ろす。
手持無沙汰な環境に長々と置かれるうちに気がついたのは、一日の準備を含む多くの作業をこなさなければならない午前と比べて、正午から日没までは長く、ゆえに退屈だということ。
暇を持て余し、取り留めもなく考えを巡らせる。それは昨日や今日の午前と同じだが、内容は仕事とも小説とも無関係なくだらないものだ、という明確な違いがある。まだ二日目、京山家に来て丸一日も経っていないというのに、早くも新生活に慣れつつあるらしい。
choleraが油断につけ込んでくるのでは、という懸念はもちろんある。しかし、ひとたびたわんだ神経は、おいそれと張りを回復できるものではない。
栄田くんを我に返らせたのは、どこか間の抜けたインターフォンの音色。
客人だろうか、と真っ先に考えた。一拍を置いて、choleraかもしれない、という疑いが浮上し、心身が一気に緊張した。
律儀にインターフォンを鳴らしたのだから人間のはずだ。自分に言い聞かせるように心の中で呟き、椅子から立つ。扉の鍵を開けた直後、そういう安直な決めつけが命取りになるぞ、という自戒の念が追いかけてきた。
葛藤が生じたが、戦いは二秒で幕を下ろした。栄田くんの右手は見えない力に操られるかのように、なかば無意識にノブを回した。
扉は外側から開かれた。
「やっほー! でんちゃん来たよ――って、あれれ?」
栄田くんは瞠目した。訪問者は、派手で、華やかで、肌の露出が多い洋服に身を包んだ、ハイカラな少女。
顔の造作には幼さが残っていて、二十歳に達していないだろう。巧みな化粧により、目鼻立ちの幼さは辛うじて痕跡を留める程度に塗り潰され、妖艶な色香がほのかに立ち昇っている。十代の少女にしては背が高く、髪の毛を赤みがかった茶色に染めているため、一見西洋人のようだ。
庇髪? 海老茶袴? おととい来やがれ。
そんなメッセージをひしひしと感じる。
華やかな容色と、舶来品と思われる香水のエキゾチックな芳香の合わせ技に、栄田くんはどぎまぎしてしまう。先生の評判を落とすような言動は慎まなければ、という意識が作用しなければ、目も合わせるのも難しかったかもしれない。
「えっと、どちら様でしょうか」
「でんちゃんのいとこだよ。心愛っていうんだけど」
無意識に媚びるような甘ったるい声。「でんちゃん」とは誰なのか尋ねようとして、先生のファーストネームである「東伝」に由来する綽名だと気がつく。
「君こそ誰? 見かけない顔だけど。でんちゃんの友達? 隠し子?」
「書生として雇われた者です。昨日から働き始めたばかりなんです」
「そうだったんだ。そりゃ知らないはずだよね。えっと、今でんちゃんは在宅?」
「はい。先生は昼食を召し上がったあと、ずっと書斎にこもられています」
「堅苦しいしゃべり方するんだね。敬語とか使って、疲れない? そういうの、わたしは絶対無理。真面目くんなんだね、君って。そういえば、名前は?」
「栄田件、ですが」
「へー、変わった名前! くーちゃんって呼んでもいいかな?」
「はい。お好きに呼んでいただければ」
心愛から目を逸らし、こめかみを掻く。
苦手だ、と思う。初対面なのに、この人はどうしてこうも馴れ馴れしいのだろう。
臆することなく目を見つめてくるので、心が安息できない。心愛の言動からは奇妙な自信が満ち溢れていて、堂々としているから、気後れしてしまう。やましいことなどなにもないのに視線を逸らしそうになる。
しかし、下方に逃がそうものなら、大胆に開いた胸元から覗く白い膨らみが目に飛び込んでくる。若い女性の間ではありふれたファッションだという知識は持っているが、堕落していると感じる。流行を批判的に見るのは保守的で、褒められたものではないと認識しているが、拒絶感は拭えない。
「話が逸れちゃったね。でんちゃんに用事があるから、上がってもいい?」
「えっ! 駄目ですよ!」
思わず上擦り気味の大声が出た。
「びっくりした。そんな声出さなくてもいいのに」
心愛はつぶらな目をさらに丸くしている。栄田くんは「すみません」と頭を下げ、肩越しに書斎を振り返る。言うべきか否か、少し迷ったが、
「choleraを絶対に家に入れるなと先生から厳命されているのです。だから、勝手に上がられては困ります」
「cholera? なにそれ」
「わたしも詳しくは知りません。……失礼ですが、心愛さんはcholeraになにか関わりを持っていますか?」
「関わり? そんなこと言われても分からないよー。choleraがなんなのかがそもそも分からないのに。それって、病気みたいなもの? それとも、危険人物のコードネーム的な?」
「いや、その……」
適切な返答を見つけられない。choleraのことを話したのは間違いだったかもしれない、という悔悟の念が胸に萌した。
来客というのは基本的には突然。それに対応できないのは、僕は玄関番には不向きということなのでは?
恐ろしい考えを否定したい気持ち。心の隙を衝いてcholeraが忍び込んでくるのではないか、という懸念。さらには、先生のいとこにあたる人に失礼があってはいけないという思い。それらが混ざり合い、一足す一足す一が三を超えて四にも五にも膨らみ、混乱に拍車がかかる。知らず知らずのうちに生まれていた、自力では心愛に対処できないという思いは、いよいよ誤魔化せなくなってきた。
「すみませんが、心愛さんが来たと先生に伝えてきますので、少々お待ちいただけますか」
「えー、待つの? なんで? 今までは普通に上がってたのに」
「家に上げてはいけないと、先生から命じられているので」
「もしかして、入りたければ窓ガラスを割って無理矢理入ってこいっていう意味? そんな乱暴な真似、したくないよー。ガチの緊急事態なら考えるけど、現時点では微妙なラインだし」
「すみませんが、その場でお待ちください」
扉を閉ざす。それ越しに聞こえないように注意しながらため息をつき、書斎へ。
「先生、お客様がいらっしゃいました。先生のいとこの心愛さんという方です。先生に用があるので会いたい、とおっしゃっているのですが」
昨晩のように跪いて報告すると、室内で微かに物音が立った。無音状態が数秒間続き、書斎の襖が開かれる。見上げた先生の顔は、怒りを押し殺しているように見えた。栄田くんの体は寒中に放り出されたかのように委縮した。
廊下に出た先生は、玄関の方を向いた。無人で、扉は閉ざされている。説明を求める眼差しが栄田くんへと注がれる。
「心愛さんは扉の外で待っていらっしゃいます。失礼かとも思ったのですが、choleraのことが頭を過ぎったので」
「そうか。中に入れなかったのは賢明だな」
先生が右手で虚空を下から上へと扇いだので、栄田くんは起立する。
「心愛と外で話をしてくる。心愛はcholeraとは無関係だろうが、家には上げない方がいい。君は机で待機していてくれ」
事務机からだと話が聞こえるかもしれませんが、構いませんか? 眼差しで確認を求めたが、先生は無言で襖を閉めて歩き出した。栄田くんはついていく。
「あっ、でんちゃん! こんにちはー。なんか、また痩せてない? まともに食べてないんじゃないの」
「書生が家事をしてくれるようになったから、むしろ豪華になったよ。そんなことより心愛、お前はこの前――」
先生が後ろ手に扉を閉めたため、言葉は中途で断ち切られた。
心愛に対する「お前」という呼称に落ち着かないものを感じながら、栄田くんは天板に片手を置いて耳を欹てる。彼女の高い声が辛うじて聞き取れるが、内容は全くの不明だ。
椅子に腰を下ろす。頬杖をついたが、いつ先生が戻ってくるか分からないと姿勢を正した。少しでも有意義に時間を消費するべく、夕食の献立について考えようとしたものの、頭が回らない。
十分ほどが経って扉が開き、先生が戻ってきた。栄田くんは覗き込むようにして外の様子をうかがったが、すでに心愛の姿はない。外気と共に入り込んできた香水の濃密な匂いが、かえって彼女の不在を強く印象づけた。
先生は去りゆくいとこの現在地を確認するというよりも、侵入の機会を虎視眈々とうかがっているcholeraを牽制するように外に一瞥を投げ、扉を閉ざした。机の端に右手をついて栄田くんと目を合わせ、
「心愛は今後もまた来るかもしれないが、上がりたいと言ってきても追い返しなさい。私からそう命じられたからと言って。しつこいようなら私を呼んでくれても構わない。では、夕食の時間までがんばってくれ」
急がない足取りで廊下を遠ざかり、書斎へと消える。
栄田くんは書斎の襖を凝視していたが、やがて捩じっていた首を戻し、先生が右手を置いていた場所に自らの右手を重ねた。冷たかった。掌を外し、頬杖をついて静かに息を吐いた。
「新進作家倶楽部主催の宴会があるから、君に同行してもらいたい」
先生が栄田くんにそう告げたのは、昼食の最後の一品である牛蒡と人参のきんぴらの小皿を、先生が着く食卓に置こうとしたときのこと。仕上げに振りかける白炒り胡麻を振り忘れていたことに、先生が着席してから気がついた関係で、一品だけ配膳が遅れていた。
先生は出したおかずを残すことがよくある。一つの料理に手をつけないのではなく、全ての器の中身に平等に残す。好き嫌いがあるからではなく、少食なのだろう。
書生として働き始めて今日で五日目。栄田くんが作る毎日の料理は、たんぱく質を摂取できる主菜に、野菜が中心の副菜が一品、それに白米と梅干し、という献立が定着していた。
先生のために作った料理はそのまま栄田くんの食事になる。座っている時間が長いとはいえ、おかずが二品だけでは少々物足りない。少ない皿数では栄養バランスを確保するのが難しい、という難点もある。
時間と食材にはある程度余裕があるのだから、もう一品、あるいは二品、という気持ちはあるが、封印している。先生の書生である以上、優先させるべきは先生の意向なのだから。
食事に関する具体的な指示は、初日の夕食時、茶碗に盛られた白米を指して「少し減らしてくれ」と言われたのみだ。しかし、先生の心中を慮り、より満足してもらうために独断でアレンジを施すのは、栄田くんの中では基本姿勢として確立していた。料理人としてだけではなく、小間使いとしても。
差し出がましいと思われないだろうか? 少なからず不安だったが、先生の反応を見た限り、試みはこれまでのところおおむね成功を収めていた。
瞬間的に判断し、繊細に配慮し、先生のストレスを少しでも軽減させる難しい仕事に、彼はやりがいを感じている。現時点で、小説に関する教えは一切受けていないから、それが最大の報酬と言ってもいい。
皿数へと注ぐことを禁じられた熱は、細部に工夫を凝らすエネルギーへと転化された。今日の夕食の副菜として作った、きんぴらの白炒り胡麻がまさにそうだ。象牙のような白色は、焦げ茶色が中心の一品においては彩りとして機能する。食感にアクセントがつく。
先生は料理の味をいちいち批評する人ではない。小さな工夫への言及も、賞賛も、最初から期待していない。栄田くんとしては、一口でも食べてくれればそれで満足だった。
『新進作家倶楽部主催の宴会があるから、君に同行してもらいたい』
ささやかな願いが叶えられる瞬間を夢想しながら、卓上に器を置こうとしていた折の一言だったため、完全に虚を衝かれた。発言自体も想像もしていなかった。
「今日の午後六時からで、場所はS町にある『ノラ屋』という屋号の旅館。帰りに重たい荷物を持つことになるかもしれないから、その役割を君に担ってもらいたい」
肩の力が抜けた。作家という言葉を聞いた瞬間は分不相応だと感じたが、そういうことなら納得だ。
「本当は留守番を頼むつもりだったのだが、今回はそうしてもらおうと思う。頼めるかな?」
「はい、もちろんです。同行させていただきます」
「いい返事だ。夕食が出るから、君もそこで済ませてくれ」
「承知いたしました。……でも、作家さんの集まりなんですよね? わたくしなんかがごいっしょして、よろしいのでしょうか。荷物を持つためだとしても、場違いなような、そんな気もするのですが」
「場違いな場に行くのも書生の役目だ。付き添いの人間には別室が宛がわれると聞いている。君が人前に出てなにかをするということではないから、まあ一つ頼む」
もう一度「承知いたしました」と言って、この五日間で会得した、足音を立てない歩き方で食堂を後にする。
銃声が断続的に響いている。距離は遠いが、一貫して北西の方角からだ。
非日常的なその音を耳にした通行人は、ことごとく足を止める。一・二秒ほどのタイムラグを経て銃声の遠さを認識し、歩行を再開する。直後、待ったをかけるように新たなる銃声が轟く。
道行く人々の多くが雨傘を開いていて、彼らの一定数が数十秒ごとに一斉に立ち止まるせいで、通行人の数の割に歩道は混雑している印象を受ける。対照的に、片側二車線の車道を行き交う車両の流れは憎らしいまでに円滑だ。
漆黒の洋傘を差した先生は、銃声には一瞬たりとも注意を払わず、ひっきりなしに雨が落ちる通りを進む。作務衣から燕尾服に着替え、鳥打ち帽を被るというスタイルだ。
『まともな余所行きの服を持っていないから、外出するときはいつもこの服装なんだ。大抵の場所であれば作務衣なのだが、今日の集まりは先輩も多いから』
双方の着替えが終わって玄関で落ち合ったさいに、弁明でもするようにそう述べていたが、クールな姿は先生にとても似合っている、と栄田くんは思う。広めに歩幅を取ってきびきびと歩くのも、服装に合致していて様になっている。速すぎるわけではないが、多数の通行人が行き交っている現在の環境では、気を緩めれば後ろ姿を見失いかねない。未知の場所に向かう緊張、先生と行動を共にする緊張に、はぐれてはならないという緊張が重なり、景色に注意を向ける余裕はあまりない。
せっかく先生と二人で外出できたというのに、景色を楽しめないのは残念だったが、仕事だからと気持ちを切り替えた。
「あと二分くらいかな」
赤信号に足を止めた先生は、前を向いたままひとり言のように呟く。呼応するかのように、北西の方角で銃声が響いた。雨脚は少し強まったらしい。赤が青に切り替わり、人が動き出す。
街灯の少ない道をしばらく歩いていると、先生は突然左折した。敷地の門を潜り抜けたのだ。前方には横に長い建物が待ち構えている。建物に向かって小道が真っ直ぐに伸びていて、終点に玄関が待ち構えている。
玄関扉は全面がガラスで、それ越しに受付カウンターが見えた。その周囲で待ち構えているのは、何人かの中居。二人の姿を認めると、年少の中居が扉へと駆け寄り、先生の手がノブを掴むよりも先に扉を開いた。声の揃えての、それゆえに没個性な「ようこそお越しくださいました」の挨拶。
内装と比べると随分と粗末なスリッパに履き替え、若い中居に導かれて廊下を進む。先頭から、中居、先生、栄田くんという隊列だ。
角を二つ曲がると、前方左手に上り階段が見えた。中居はその三メートルほど手前で足を止めた。「新進作家倶楽部様」と記された立て看板が入口に出ている。それを取り囲む無数のスリッパは、顔をしかめたくなるような乱雑さだ。
中居は恭しく頭を下げ、来た道を去る。先生はどこか冷ややかな目つきで彼女の背中を見送り、栄田くんの方を向いて階段を指差す。
「私はこの襖から入って、君は階段の下の扉からだ。小部屋があって、料理が運ばれてくると聞いている。宴会が終わるのに合わせて、君も部屋から出てきてくれ。この建物を出てすぐの場所で合流しよう」
先生は襖に手をかける。
その向こう側は作家たちだけの、選ばれた者たちだけの世界だ。みだりに見てはならない。まだ作家志望の書生でしかない栄田くんが、みだりに見ては。
「承知いたしました。失礼します」
早口に述べて頭を下げ、階段へと向かう。直後に襖が開かれる音がして、油っぽい匂いが、粗野だがどこか憎めない歓声と共に溢れ出した。
問題の部屋は、上り階段の下の狭隘なスペースから入れるようになっていた。
扉を開くと、それが引き金となって室内照明が灯った。十畳ほどの全体的に白い一室だ。中央に長大な机が二列、入口から見て垂直方向に並べられている。入口の対面の壁際に、戸棚と流し台。流しの横のスペースには湯呑みが積み重ねられ、電気ポットが用意されている。
入口から見て右手は、壁ではなく木製の戸になっている。その向こう側から漏れ聞こえてくるのは、歓声と嬌声。宴会場に通じているのだ。
流し台へと歩み寄る。蛇口を捻ると当たり前に水が出て、当たり前に冷たい。湯呑みはどれも清潔だ。観察と確認を行っている間も、絶えず聞こえてくる話し声や笑い声との対比で、静けさと平穏さを否応にも意識してしまう。
随筆を呼んだ限り、先生は宴会のような賑やかな集まりを好まない。参加者が同業者ばかりだとしても、その気持ちにポジティブな意味での変化はあまりないはずだ。
「今日の参加者は先輩が多い」と話していたことを思い出し、胸がますます切なくなる。
人付き合いが苦手な人間はたいてい、目上の人間とコミュニケーションを取るのも苦手とする。学生ではないのだから、先生の不器用な寡黙さを、徒党を組んでからかうような輩はいないだろう。だとしても、先生が抱いているネガティブな感情が消えるわけではない。
宴会に出席する代わりに、静かな家の中で小説作法について教え、教えられる時間を持っていれば、双方にとってどんなに有意義だっただろう。どんなに幸せだっただろう。
栄田くんは我に返って頭を振った。明らかに、出すぎた願いだからだ。そもそも、今回の集まりに参加することを快く思っていないというのは、栄田くんの勝手な想像に過ぎない。
分かるはずのない問題に頭を使っても疲れるだけだ。ひとまず先生のことは忘れよう。最短でも、合流を果たすまでは。
軽い精神的疲労と自己嫌悪、二つの意味からため息が出た。先生がいる宴会場にも、部屋の入口の扉にも近い、パイプ椅子に腰を下ろす。
直後、ノックの音が聞こえた。隣から聞こえてくる騒々しい陽気さとは相容れない性質を孕んでいて、だからこそ、音量はさほどでもないが栄田くんの耳に届いたという感じだった。
栄田くんは最初、先生が呼んでいるのかと思った。宴会場に通じる戸に向き直ろうと、椅子からなかば腰を浮かしたところで、もう一度同じ音。外界に対する注意力が増していたため、今度こそノックされた場所が分かった。この部屋の入口の扉だ。
返事を待たずにノブが回り、全開近くまで開かれた。姿を見せたのは、中居。栄田くんと先生を宴会場まで導いた若い中居だ。彼女は営業スマイルと共に弁当の箱と緑茶の缶をテーブルに置き、部屋を出ていった。
椅子に座り直してさっそく箱を開く。年齢が高いユーザーを意識したおかずが詰められた、幕の内弁当だ。彩りへの配慮が充分ではなく、華やかさにひと押しが足りないせいで、白米に埋め込まれた小梅がサイズに不釣り合いな存在感を放っている。味は満点と及第点の中間、やや及第点寄りといった程度だ。
黙々と弁当を頬張りながら、書生生活を始めてからずっと食事量が控えめだ、という事実を思う。
十八歳の男子の胃袋には、はっきり言って物足りない。肉料理を筆頭に、甘味や揚げ物など、高い満足感を得られる食べ物にありつけていないのも不満だ。初日に渡された献立のメモには、それらの食材や調理法で作られた料理が一品も記載されておらず、それに忠実に作らなければならないせいで。
ごはんを炊く量を増やしたり、秘密裏に自分だけおかずを一品付け足したりと、方策ならばなくもない。先生に不服を申し立てれば、変更を許可してくれる可能性もある。
しかし、書生の分際で先生の方針に異を唱えるのはいかがなものか。師の言いつけに従順に振る舞ってこそ、人としても物書きとしても成長できる。そんな思いが栄田くんにはある。
主菜ではなく副菜の待遇で、一切れの鰤の照り焼きが箱の隅に収まっている。肉はもちろん魚も、蒲鉾を除けば随分と食べていないから、小さな一切れでもご馳走だ。
白い身から血合いを箸でどけていると、いきなり宴会場の戸が開いた。
出し抜けに背後から聞こえたその音に、栄田くんの肩は月まで飛んでいきそうな勢いで跳ね上がった。
「ありゃりゃ。なんだぁ、ここは」
年齢不詳の声が、酒の匂いを帯びた空気と共に栄田くんのもとに届いた。
宴会場の賑わいを背景に、戸口に佇んでいる者がいる。肩が剥き出しになりそうなほど大きく浴衣の前をはだけた、生え際が大幅に後退した男性だ。顔全体が赤らんでいる。額が広い分、赤く染まっている領域は広く、さながら赤鬼だ。
「こんなところにも部屋があったんだねぇ。知らなかったよ。さんざ酔っぱらって横になったら気持ちよさそうな、美しい床だなぁ。……それにしても」
赤鬼氏は目を合わせてきた。後退した生え際とはうらはらに、目鼻立ちからは若さの残滓が観測できる。
栄田くんは酒を嗜まない。家族や友人に酒飲みがいないからか、嗜みたいという誘惑に駆られたこともない。アルコールは人格を悪い意味で大胆にさせ、厚かましくさせる、という先入観を彼は持っている。不躾な要求や質問をされるのではないかと、なかば無意識に身構えた。感覚としては、酔っぱらった作家が闖入してきた、ではなく、酔っ払いの男に絡まれた、に近い。
「青年、君は誰だい? あんたみたいな若いお仲間は、残念ながらご存じないねぇ」
「わたくしは作家ではなくて、単なる作家志望の一般人です。京山東伝先生の書生として働いていて、今日は荷物持ちのために先生に同行しました。宴会中はこの部屋で待機しておくように、という指示が下っているので、食事をしながら待っていたのです」
「ああ、そう。京山先生の書生さん。あの人嫌いが、書生なんて雇ったんだ。そうなんだぁ」
「五日前からお世話になっています。choleraを家に入れないように玄関番を一人雇いたかった、という話はうかがっています」
「choleraか。なるほど、なるほど」
赤鬼氏は口を半分開けた顔で頷く。栄田くんの隣の椅子を引き、不必要に大きな声で「よいしょ」と言って腰を下ろす。栄田くんは食べかけの弁当と手つかずの缶を、さり気なくテーブルの彼方へと押しやった。
赤鬼氏は椅子ごと栄田くんに向き直り、上体を四十五度ほど前屈させ、ほろ酔いの人間特有の、上機嫌で開けっ広げな微笑を点灯させた。
「そういえば、京山先生はcholeraを異様に怖がっていたねぇ。何日間かいっしょに暮らしてみたのなら分かると思うけど、沈着冷静で物怖じしない男でしょう。老成という言葉を使いたくなるような。しかしその実、内心では大いに怯えているという」
話の内容よりも、酔っているにもかかわらず活舌がよく、発信するべき言葉の選択が円滑に行われていることに、栄田くんは驚いた。
「おっと、ごめんよぉ。君の先生を悪く言うつもりはないんだ。むしろ尊敬しているよ。しっかりとした信念をもって創作活動に励んでいる、職人気質の人だからね。物静かながらも精力的に。君はまだ若いが、分かるだろう? プロフェッショナルをリスペクトする心ってものが。年下だろうが犯罪者だろうが――ああ、聞きようによっては京山先生の悪口になっちゃうな。要するになにが言いたいのかというと、私たち作家はみな芸術至上主義的傾向の持ち主であって、素晴らしい作家と素晴らしい作品こそが正義。分かるよねぇ?」
嫉妬などというくだらないものに囚われることなく、優秀な後輩を正当に正確に評価する、度量の深さ。芸術至上主義という思想に対する共感。書生の身分である自分を軽んじることなく会話してくれること。
栄田くんはその全てが嬉しくて、年端もいかない子供のように顔を綻ばせて頷いた。
それを見た赤鬼氏は、若さが残る目鼻立ちに不思議と釣り合った、好々爺じみた笑顔で二度三度と頷く。しかし直後に首を傾げ、
「えーっと……。君は随分若いようだが、新人作家かな? デビューはどこの出版社から?」
「いえ、わたくしは作家ではなくて、京山東伝先生の……」
「ああ、思い出した。書生の若人ね。しゃべっていないとすぐに酔いに負けるんだよなぁ。仕事と同じでアウトプットしてなんぼだよ、アウトプットして」
赤鬼氏は周囲を見回す。おもむろに茶の缶へと手を伸ばし、プルタブを開けてラッパ飲みをした。缶から口を離したあとの息の吐き方は、酒を呷った直後のそれを連想させる。誤りを指摘しようかとも思ったが、
「……あの。choleraについてお訊きしたいのですが、よろしいですか」
「ん? どしたの?」
寸前で方針を転換し、恐る恐る意向をうかがう。赤鬼氏はもう一口飲み、空とぼけているようにも見える顔を軽く突き出して栄田くんの顔を見返した。
「choleraとは、どういった存在なのですか? choleraに目を光らせるために先生に雇われた人間として、ぜひ知っておきたいので、教えていただければと思いまして。話をさせていただいた感じ、choleraにお詳しいようなので」
「choleraについて教えて、か。それは、それは……」
「説明が難しい存在なのですか? 先生も、あえて教えてくれなかったのではなく、説明しづらかったからこそ言葉少なだったような、そんな様子にも見受けられました。変幻自在で名状しがたい存在だ、とは言っていましたが」
「ああ、そうなの。私の場合、京山先生とはまた違った意味から説明しづらいねぇ。全くできないことはないけども。だって私、choleraの実在を信じていないんだもの」
驚くべき発言だった。にわかに信じられない。酔っているせいででたらめを言っているのではないかと疑ってしまう。
非社交的な先生が、人を雇ってまで自宅への侵入を防ごうとしているcholeraが実在しない、だって?
赤鬼氏は茶の缶を再び手に取り、何口か飲んでテーブルに戻す。口角から垂れた液体を手の甲で拭い、腕を組んだが、すぐさま解除して天板に肘をつく。心なしか、先程までよりもぼやけた瞳を栄田くんに向けながら、
「いやね、書生くんの雇い主が変人だと言いたいんじゃないよ? これはね、こういう言い方をすると信用が置けないかもしれないけども、個人の感じ方の問題なんだよ。choleraに対して、京山先生はやや病的に怖がっていて、一方の私は端から信じちゃいない。そういうことなんだよね、君」
赤鬼氏は頬杖をついていない方の手をテーブルへと伸ばしたが、缶から三十センチ離れた虚空を掴んだ。空気を捕まえる動作を何回かくり返したのち、断念して引っ込める。その手で、雫が滴ってもいない口元を拭う。
「その説が正しいか否かじゃなくて、どの説を正しいと思うか否かだな。つまりね、書生くん。君がどう解釈するかによって、choleraがいかなる存在になるかが決定するということだよ。君はcholeraを防ぐために雇われた人間なのだから、差し当たっては、choleraは有害な存在であると仮定し――いや、違うな。私がcholeraはこういうものだと定義してみせたところで、その定義が君の場合にも適用されるわけではないからねぇ。影響を受ける可能性ならばあるけども。うん、あくまでも影響ならばね。これはよく使われるたとえなんだけど、神様みたいなものだよ。宗教と言い換えてもいい。ほら、あるだろう。汎神論とか不可知論とかさ。神が実在するとして、それを私たちがどう捉えるかなんだよね。問題はその一点にあると言っても過言ではないよ。もちろん、ここで言う『実在する』は便宜的な表現であって、実在しないと考えても一向に構わない。そうすれば天罰が下るおそれもないしね。ということはさ、君。君にとってはある意味、非常に都合が悪いことかもしれないけど――」
「若いの相手になにをやっとる。みっともない」
突然の声に、栄田くんと赤鬼氏は共に振り向く。中背痩躯の三十歳くらいの男性が、部屋と宴会場の境界線の内側、すなわち宴会場の領域の最先端に佇んでいる。
照明の光を浴びて金属的な輝きを放つスカイブルーの眼鏡のフレームを、男性は人差し指で押し上げる。レンズの奥の目尻は鋭いが、茶褐色の瞳からは精神的な落ち着きと年齢的な成熟が感じられる。
不意を衝かれたことへの反射的な反応と、声の主を確認したい欲求とが相俟って、栄田くんは男性――青鬼氏の顔を視界の中央に置いた。しかし意識は、むしろ対象の周辺、すなわち宴会場の情景へと流れた。青鬼氏が邪魔になり、全容を把握するには遠く及ばないが、それでも注意を惹きつけられた。
中央やや左の天井から、赤い帯によって全裸の女性が吊るされ、四・五人の男が取り囲んでいる。一人は、赤黒いような青黒いような色合いの、なにかどろどろしたものが少量入った皿と割り箸を両手に持っている。一人は、中身が空らしいビール瓶を片手に提げている。それ以外の人間は手ぶらだ。
空間の右端、カーテンが引かれた窓に近い場所に置かれているのは、髪結い床にあるような重厚な椅子。その座面には、ひょっとこの面を後頭部に括りつけた、細身だが引き締まった体形の三十前後の男が、体ごと背もたれを向いて屈んでいる。
戸が開かれてから遅れること十数秒、雑多な料理の匂いが混ざり合った匂いが栄田くんの鼻孔を刺激した。
軽い嘔吐感と眩暈とに同時に襲われたが、症状は一瞬で治まり、我に返る。その後はなぜか青鬼氏にしか焦点を定められなくなった。
青鬼氏は僅かに眉根を寄せて赤鬼氏を見た。赤鬼氏はにこやかに右手を挙げ、
「おう、土川先生。土川先生も議論しに来たのかい?」
「なにが議論だ。しゃべっているのはあんたばかりでしょうが。ふと気がついたら、若い子に絡んでいるあんたが見えたから、醜態を晒す前にと思って慌てて駆けつけたんだよ。他の者は見てのとおり、酔っぱらってどうしようもないから、仕方なしに」
青鬼氏が肩越しに後方を一瞥した瞬間、栄田くんの視点の固定は解除された。宴会場の全容を把握しようという意欲はすでに消滅している。青鬼氏は顔を栄田くんへと振り向け、
「本岡先生、この若者は?」
「京山先生の書生さん。最近雇われたらしいよ。京山先生、choleraに対してかなり神経質だろう。だから、それについての議論をちょっとね」
「一方的にしゃべり散らして、議論もなにもなかろうに」
「だったら講釈と言い換えてくれてもいい。少なくとも、立場の弱さにつけ込んで絡むなんていう、じじむさい真似はしとらんよ。そうだよね、内田くん?」
「あ、はい。栄田、ですけど」
「講釈というのは、cholera対策のこと?」
「対策云々よりも、choleraそのものについてだね。さっき書生くんにも言ったけど、私はcholeraの実在は信じてないから。えーっと、土川先生は確か……」
「実在は認めるが、対策はしようがない派だ。ある意味、本岡先生以上に京山先生との相性が悪い考え方かもしれないね。――君」
青鬼氏は栄田くんと目を合わせる。
「君は京山先生に、choleraに関する情報を集めろと頼まれたのかな?」
「いいえ。わたしは『自宅にcholeraを入れないように』と命じられただけで、他になにをしろとは言われていません。ただ、choleraという存在に関してあまりにも無知なので、作家の方とお話ができたこの機会に、ぜひいろいろ訊いてみたいと思いまして」
「ああ、そういうことか。私は京山先生とはスタンスが大きく違うから、choleraのことをあれこれ語ると、君を混乱させてしまうかもしれないが……。一つだけアドバイスをするとすれば、根を詰めすぎるな、かな」
「根を詰めすぎるな、ですか」
「たとえば、cholera専用の捕獲網が開発されたとすれば、choleraは網目よりも小さな体に進化する存在だからね。そんなもののために、かけがえのない人生を浪費する必要はない。そういうことだ」
「京山先生が聞いたら静かに憤りそうな、恐ろしい台詞だねぇ。土川先生は、あれかい? 京山先生と喧嘩がしたいの? おっかないなぁ。いやはや、おっかない」
赤鬼氏は場違いにも思える明るい声で言って、いつの間にか手にしている茶の缶に唇をつけた。直後、目を丸くして口を離し、缶を左右に揺する。青鬼氏、栄田くんの順番に視線を投げかけ、おどけたように肩を竦めてみせる。放り投げられた缶がテーブルの上に転がり、硬質ながらも軽やかな音が鳴る。
「諍いは起こり得ないさ。我々作家はみな、スタンスは人それぞれだと重々承知しているのだから。そんなことより本岡先生、そろそろ戻りましょう。若者相手に管を巻くくらいなら、酔いつぶれてしまった方がよっぽどましだ」
「管なんて巻いてないよぉ。私は一文人としてcholeraを――」
「はいはい、行きましょう」
青鬼氏は有無を言わさず赤鬼氏の腕に腕を絡ませる。なかば強制されて、なかば己の意思でといった動きで、赤鬼氏は椅子から立ち上がる。二つの体が完全に室外に出て、青鬼氏の手が音もなく戸を閉ざす。
静けさを回復した部屋の中、栄田くんは座り直してテーブルの方を向く。横倒しになった缶からは、液体は一滴もこぼれていない。弁当の続きに箸をつける気にはなれない。頬杖をつき、なんとはなしに、湯呑みのかたわらに鎮座する電気ポットに双眸を据えた。
仕事に慣れつつある。
荷物持ちとして宴会に同行したのを機に、栄田くんはそう実感するようになった。
書生として働き始めて六日目の今日、慌ただしい朝の業務を終え、玄関の事務机に着いた直後には、この仕事にも慣れたなぁ、と心の中で呟いた。呟いたあとで、明日の同じ時間にも同じ呟きを呟くのだろうと思った。それは自分という存在に明日が約束されているくらい確実なことに思えた。
何事もなく午前が終わった。昼食の食器を速やかに片づけ、約二時間ぶりに事務机に着く。
外に最も近いが、自室よりも少し温かい空気。扉の確固たる木目。座面だけが柔らかく取り繕われた椅子の座り心地。廉価な金属を思わせる天板の硬度と冷たさ。
静寂。生物が死に絶えたかのような、扉の向こうの世界。
いつもどおり平和な世界で、栄田くんは眠気を覚え始めた。
これはまずいな、と思う。
勤務中に眠気に襲われたことはこれまでにも何度かあった。いずれも軽症、意識的に精神を整えようと試みることで、たちどころといってもいい迅速さで解消した。
今回のそれは、幸いにも、過去の事例と比べて強いわけではない。
ただし今の栄田くんには、「仕事に慣れた」という自覚がある。ひとえにそれが物を言って、居眠りという過ちを犯しそうな気がしてならない。
うとうとしている隙にcholeraが侵入したら、取り返しがつかないことになる。
扉は閉ざされ、しかも施錠されているのだから、その心配はない? 常識的にはそうだが、相手はcholeraだ。プロ作家の言語能力をもってしても定義不可能な、掴みどころのない存在だ。あらゆる形で忍び込まれる可能性があり、事前に予測を立てるのは不可能。その認識は、昨夜の赤鬼・青鬼両氏との会話を経て強化された。最悪の事態を防ぐためにも、絶対に眠ってはならない。
眠気覚ましに珈琲を飲みたいと訴えれば、先生は許可してくださるだろうか。怠慢だと見なされないだろうか。まさか、散歩に行くのは許されないだろうけど。いや、でも、分からないぞ。先生は寡黙だから気難しい人に見られがちだけど、そういうところも確かにあるけど、その実なかなか寛大だ。だから、頼んでみたら案外あっさり許可が下りるかもしれないぞ。
などと、取り留めもなく想念を弄んでいると、
「こんにちはー。宅配便でーす」
眠気が木の葉のように吹き飛んだ。
机の縁を無意識に掴み、扉を凝視する。外の世界を透視するまでもなく、確実に何者かが存在している。
栄田くんが眠気と格闘している隙に、京山家を訪問した者がいる――。
背中の中心あたりに、いくら拭っても拭い去れなさそうな冷たい空気が滞っているのを感じながら、椅子から立ち上がる。
玄関扉にぴたりと貼りつき、改めて気配を探る。依然として何者かがいる。発言者と同一人物なのは間違いない。もたもたしているとcholeraではない存在だとしてもcholeraに変身しそうな気がして、思い切って開く。
幅三十センチの隙間から見えたのは、大手宅配サービスのモスグリーンの制服を着用した、二十歳過ぎの男性。軍手をはめた両手で、一辺が三十センチの立方体の段ボール箱を抱えている。没個性な顔に浮かんでいるのは、標準的で模範的な営業スマイル。
「京山東伝さん宛のお荷物です。サインをお願いします」
求められるままに、差し出されたペンで「京山」とサインする。
「重いので、お荷物は下に置きますね。ありがとうございましたー」
宅配業者の男性は非の打ちどころのない丁寧さで箱を地面に置き、駆け足で去っていった。
箱は予想以上に重く、持ち上げようとした瞬間に小さく声を漏らしてしまった。事務机の横まで移動させ、扉を施錠して書斎へ。
襖越しに荷物の到着を報告すると、先生はすぐに出てきた。先生、栄田くんの順番で玄関まで移動する。
先生は段ボール箱を前に屈み、穏やかだが容赦ない手つきでガムテープを剥がし始めた。栄田くんはそのかたわらに佇んで作業を見守る。開封された瞬間、瑞々しい土の匂いが香った。
「サツマイモだ。私の実家から送られてきたものだ」
先生は箱の中から、長さが三十センチになろうかという一個を取り出し、自らの顔の高さにかざす。全身にうっすらと砂をまとっているが、赤紫色のボディがありありと想像できる。実家暮らしをしていた時代に母親がよく作ってくれた、サツマイモの天ぷらの香ばしい香りさえ甦るようだ。
随筆で書いていた、と栄田くんは思う。先生の故郷は海が近くて、農家はみな海岸の砂浜によく似た砂地で作物を育てていて、先生は小学生のころに授業で――。
先生は手にしたサツマイモを、手首を回転させて角度を微調整しながら眺める。遠方に思いを馳せている目だ。
やがて我に返ると、肩越しに栄田くんを振り向いて告げた。
「私の実家がある地域の特産品で、甘味が強い品種なんだ。毎日の食事に使ってくれて構わない。調理方法も君に任せる。箱は台所の米櫃の横に置いておいてくれ。頼んだよ」
栄田くんは入浴後、持参した十冊の中に三冊ある随筆集の目次を確認した。サツマイモの収穫にまつわる思い出をつづった随筆『目の中の砂』が収録された一冊があったはずだが、勘違いだったらしく手持ちの中にはなかった。
先生の実家からサツマイモが届いたこの機会に、久しぶりに読み返したかったので落胆した。ただ、内容は細部まで覚えている。お気に入りで、くり返し読んだ作品だからだ。
『目の中の砂』では、先生が小学校低学年のとき、授業で芋掘りを体験したさいの模様が描かれている。
サツマイモ掘り体験それ自体、あるいは農業や自然の素晴らしさを語った随筆ではない。もしそのような内容であれば、先生がいくら格調高く書き上げたとしても、栄田くんの評価はそれなり止まりだっただろう。
あらすじはこうだ。
サツマイモ掘り体験が行われる当日は気持ちのいい秋晴れが広がったが、あいにく風が強かった。先生の故郷は海沿いの鄙びた町で、特産品であるサツマイモは砂地で育てる。強風が地表を払って砂を巻き上げるたびに、児童一同は一斉に、やや誇張されてはいるが切実な悲鳴を上げた。
良好とは口が裂けても言えない気象状況だったが、大半の児童にとって芋掘りは愉快な体験で、マイナスを帳消しにする喜びと楽しみを感じているようだ。彼らは目をこすり、口の中の砂を吐き出しながら、地中から赤紫色の宝物を発掘する作業に躍起となった。
先生も同じく楽しんだが、体力に乏しいためすぐに疲れてしまった。他の児童たちは元気いっぱいに芋掘りに励んでいるが、先生はこれ以上体を動かすのはごめんだと思った。
そこで作業の邪魔にならないよう自主的に畑の隅まで移動してじっとしていることにした。
軍手を脱いだ手は頻繁に目を触った。先生が選んだその場所は、人が壁になって風を遮っているため、砂の被害からは保護されている。目に砂が入る事例が続発し、目をこする児童がそこかしこで見られるため、手持ち無沙汰なせいもあって無意識に真似てしまうらしい。
やがて先生に話しかけてきた者がいる。引率として畑までいっしょに来ていたクラス担任の女性教師だ。「今の私よりも若かった」との記述があったから、二十代前半。一人だけ集団から逸脱した行動をとる京山少年に、教師は「私が普段からよく目にしてきた、実に彼女らしいにこやかな顔」で、こんな言葉をかけたという。
「こうも風が強いと嫌になるよねぇ。でも、芋はまだ土の中に残っているし、もう少しがんばってみようか。目をこすりすぎるのはよくないから、あそこの水道で洗ってこようね」
この発言に、先生は子供心に憤りを感じたという。
目に入った砂を気にする素振りは、無意識の模倣に過ぎなかった。子供はもともと演技が不得手なものだが、先生には他者の目を騙そうという意図すらなかった。大人が客観的に見つめれば、たちどころに演技だと看破できたはずだ。
さらに言えば女性教師は、一学期の全期間と二学期の一か月間と少しの間、クラス担任を務めている。当然、受け持つ児童の性格などはある程度把握している。先生が内向的で、単独行動を好む少年だと知っていたはずだ。つまり、先生が「目に砂が入った」以外の理由から作業していなかったのを見抜いていた可能性が高い。
それなのに、かけた言葉は『目を無理にこするとよくないから、あそこの水道で洗おうね』。
女性教師が的外れな発言をしたのは、京山東伝をあくまでも「普通の児童」として扱いたかったからではないか。先生はそう推察している。
十把一絡げに扱った方が管理する側としては楽だから。
ただそれだけの理由で、自分の「普通」とは違うところを、個性を、見て見ぬふりされた。
当時八歳の先生にそのような理屈は解せなかったが、大人特有の狡さを敏感に感じ取り、憤ったのだ。
先生は心境とはうらはらに、目を洗うふりをするために水道まで行くという行動をとった。「普通」で括られたのも、誤解されたのも不服だったが、なんと言って抗議すればいいかが分からなかったのだ。
『抱いた想念を言語化できなかったその過去は、親に叱られたり級友から罵倒されたりするよりも屈辱的な経験だったと、大人になった今では明確に認識している』
作中にはそんな一文もさり気なく挿入されている。
先生はこの一件に長らく悩まされることになる。視点を少し変えるたびに違う感情や想念が込み上げ、ありとあらゆる角度から、多種多様な言葉で先生を苛んだという。
児童に理解がある「いい先生」でも、児童の個性を蔑ろにすることもある。恐らくは悪意なく、無意識に。
「普通」ではない自分、自分の「普通」ではないところに気がついてほしかった、幼い下心。
幼い自分の稚拙な演技を見て見ぬふりするくらいなら、いっそ声をかけなければよかったのに。演技なのだから。目に砂は入っていないのだから。「児童の肉体的健康を守る」という義務は生じないのだから。
何年経とうが、女性教師は己の行為を反省するどころか、その過去を思い出すことすらないに違いない。
もし当時に戻れるなら、拙くても、論理的に破綻していても構わないから、女性教師に異を唱えたい。
実際に戻ったとしても、自分は恐らく、適切な言葉が見つけられないからではなく、勇気を奮い起こせられないせいで抗議できないだろう。
女性教師を見つけ出して、こんな出来事がありましたよね、私はあなたの言動のここに納得がいきません、傷つきました――などと、大人として、小説家として、全身全霊で説明を尽くせば、彼女は謝罪するだろう。しかし、自分の心情を心から理解したうえでの謝罪にはならないはずだ。
『こんな些事に二十年以上が経った今も思い悩み続けている私は異常なのだろうか?』
そんな悲しい自問と共に作品は幕を下ろしている。
異常なんかじゃないです、先生。
読み終えるたびに、栄田くんは決まって心の中でそう呟く。
先生は自分が異常かもしれないと疑っている。その時点で、異常ではない。
その自問に先生自身が答えるとすれば、「異常ではない」になるだろう。その意味でも、異常ではない。
たとえ「異常だ」と答えたとしても、真に異常な人間は自分を異常だと認めるはずがないから、異常ではない。
京山東伝は、当たり前の日常に落ちているささやかな歪みも見逃さない、『目の中の砂』に出てくる女性教師とは違って見て見ぬ振りができない、繊細で優しい心の持ち主だ。
だからこそ、栄田くんは先生に惚れ込んでいる。
題材として取り上げるのが発電所で起きた大規模な事故だろうが、今世紀最大のパンデミックだろうが、先生が焦点を当てるのは一個人の心。政府の対応を批判しない。世間の無関心を非難しない。他人に異議を申し立てることもあるが、それはその者が個人的な世界に干渉を及ぼしてきた場合のみに限られる。
世界に適応できない自分。弱さ。社会性と社交性。葛藤。煩悶。懊悩。
どんなに広大な世界も、始まりは一人のちっぽけな人間から。
先生が書く作品に共通するメッセージだ。ご丁寧にも作中で明言されているわけではないが、先生の全ての作品を読み込んできた栄田くんにはそれが分かる。
先生の作品を思い返したことで、先生に対する敬愛の念がいっそう高まった。仕事に慣れてきて気が緩みがちだったが、明日から心機一転がんばれそうだ。
先生のために、明日はサツマイモを使った料理を作ろう。絶対に失敗はできないぞ。
この仕事を始めて以来、遅い時間にもかかわらず、心がこんなにも元気なのは初めてだ。
昨夜の決意は、昼食作りを始めた正午半時間前に挫かれることになる。
メインの食材にサツマイモを使うのは決定済みだが、具体的になにを作るのかは、冷蔵庫の中身と相談しながら考えるつもりだった。残っている食材はまだまだ豊富で、ある程度自由に作れそうだ。
しかし、考え始めて早々に壁にぶつかった。
初日に「なにを作るかは任せる」と言われたが、一週間分の献立がつづられたメモを見た限り、先生は特定のジャンルの料理を積極的には食べたがらない。肉類、甘味、揚げ物などがそうだ。これらを除外したサツマイモ料理を考えた場合、もともとレシピを知っている大学芋や、栄田くんの好物の一つである天ぷらは選択肢から消える。栄田くんは、基本的な作り方を知っている料理に関しては、他人様に出せるレベルのクオリティで作れるし、ある程度のアレンジをきかせられるが、レパートリーはそう豊富ではない。
迷いに迷った末、サイコロ状にカットして味噌汁の実とした。
配膳のさい、「昨日先生のご実家から送られてきたサツマイモを使いました」の一言がなぜか言えなかった。
先生はいつもどおり、味の感想は一言も口にしなかった。
京山家に来てから初めて、靴箱の上の黒電話が鳴った。目前に迫った仕事の終わりと、その先に確実に待っている、二番風呂でも熱い京山家の湯船。二つについて思いを巡らせているさなかのことだ。
栄田くんは雑念を瞬時に頭から消し去り、心を少し緊張させて黒電話を凝視する。平凡なデザインのその一台は、無機物らしい愚直さで呼び出し音を奏でている。
玄関番の仕事に臨んでいる間、栄田くんは電話がかかってくる事態を想定したことはほぼない。もっぱら扉の外の世界に意識を向けているからだ。
ただ、考えてみれば、choleraは必ず扉の向こうから来るものなのだろうか? たとえば音の粒子とでも呼ぶべき存在と化し、受話器を取った瞬間にその人物の耳に流れ込む、などという可能性は考えられないだろうか?
「……まさか」
いくら掴みどころがないcholeraとはいえ、音の粒子説はあまりにも非科学的で、馬鹿げている。
待たせるのはよくない。起立して受話器を取る。
「もしもし。京山東伝の自宅ですが」
「ああ、件くん。東伝くんかと思ったら」
聞こえてきたのは、大人びた落ち着きの中に一陣の薫風を感じさせる声。
「お久しぶりです、愚昧さん。仕事机のすぐ近くに電話機が置かれているので、先生よりも先に出られました」
「ああ、そうだったんだ。件くんの声を聞くのは五億年、いや六日ぶりかな。思ったよりも元気そうだね」
「はい。大きな失敗もなくやれているので、その自信が精神的な余裕に繋がっているのだと思います。愚昧さんは先生に用事ですよね」
「東伝くんにっていうか、あなたに用事があるから、その許可を取るために東伝くんと話がしたいって感じ。件くんが働き始めて一週間になるから、いっしょに食事でもどうかと思って。この前と同じ『紀尾井坂の虎』に、明日のお昼十二時に。どうかな?」
宴会に出かけるさいにも思ったが、choleraに侵入されるおそれがあるのに、玄関番が外出しても大丈夫なのだろうか? 先生が一人になるのはまずいのでは? 懸念を愚昧さんに伝えると、
「大丈夫。choleraは天邪鬼なところがあって、準備を万端にしていないと来ないから。まあ、その説明はざっくりしすぎているけど、とにかく件くんがお出かけしても平気だから」
「……本当に大丈夫でしょうか」
「大丈夫、大丈夫。明日のお昼に外出してもいいか、東伝くんに確認を取ってきて。もしくは、電話に出てもらうか。まあ、後者の方が確実かな」
釈然としなかったが、「分かりました」と答えて書斎へ向かう。
愚昧さんから電話があったと襖越しに報せると、すぐに先生が現れた。要件を伝えると、どことなく浮かない顔つきで首肯し、
「私が話した方がよさそうだな。いつ替わるか分からないから、横で待機していてくれ」
先生と共に玄関まで引き返し、先生が電話に出る。
「三輪木か。うちの書生を連れ出したいそうだが」
「うん。息抜きをした方が絶対いいし、あたしもあの子と食事に行くのが楽しみだし」
「適度な休息の必要性は私も理解している。好きにすればいい」
「おっ、今日は素直だね。こっちは核戦争をする準備をしていたのに。逆に残念かも」
「虫の居所がいいことに感謝してくれ」
先生は耳から受話器を離し、栄田くんに手渡す。
「聞いてた? そういうわけだから、いつもの時間にいつもの店まで来て。喜んで奢らせてもらうね」
「……本当によかったんでしょうか」
「いいの、いいの。どうせ栄田くんが外に出ている間はcholeraが来るはずなんてないんだから」
その根拠について尋ねたかったが、愚昧さんはさっさと通話を切った。
受話器を置いて振り返ったときには、先生の姿は消えていた。
入口の扉を開くと、暑苦しくも陽気な揚げ物の匂いが歓待した。
店内は全体的に薄暗いが、シャンデリアの働きによってテーブルの上だけが明るい。配置されたテーブルとテーブルの間隔は、一見ゆとりがあるように見えて、誰か一人でも通るとたちまち窮屈さが漂い出す。食器同士がぶつかり合う音。肉体労働者の野太い笑声。身をくねらせる生娘の嬌声。
栄田くんは入店してすぐの場所で足を止め、愚昧さんを目で探した。見当たらない。約束時間は過ぎているから、もう中にいるはずだ。氷山のように巨大なヒレカツをトレイに載せた給仕が眼前を通過するのをやり過ごし、通路を奥へと進む。
顔の右半分がひきつれた若い女性が、古びたポスターの中、バナナ色のビキニ姿で嫣然と微笑している。グラスが床に落下したらしい破砕音。油くさい、どこか淀んだ大気中に、甘ったるい葡萄の香りが流線形の存在感を煌めかせる。
直後、奥まったテーブル席に愚昧さんの姿を発見した。
「件くん、久しぶり」
栄田くんが声をかけるよりも先に、愚昧さんは彼の存在に気がついて声をかけてきた。握ったスプーンごと左手を挙げながらの呼びかけだ。すくう部分の大部分がクリーム色に染まっている。
愚昧さんはコーンポタージュのカップを唇に近づけて一口飲む。湯気が立ち昇っているが熱がっていない。栄田くんは先生との共同生活ですっかり癖になった恭しいお辞儀をし、対面の椅子に腰を下ろす。
「大変だったよ、件くんの席を確保しておくの。次から次へと座ろうとしてくるから、そのたびに『恋人の席なので、申し訳ないですけど』って言って」
「恋人、ですか」
「そう言った方が威力出るでしょ。でも今日は、どうしてなのかな、いつもにも増して強情な客が多くてね。最後の一人なんて、しつこい上におっぱいを触ってきて」
「大丈夫だったんですか?」
「見てのとおりね。蹴飛ばしてやったら吹っ飛んでいったよ。今ごろは金星を通過したあたりじゃないかな。注文はトンカツの大皿でいい? それと、ごはんとキャベツ」
「定食だと汁物が重複するから、ということですね」
「そうそう。待ちきれずに、というか、あたしが勝手に早く来ただけなんだけど、コンポタを頼んじゃったんだよね。熱いから、ちびちび飲めば時間もつぶれると思って。スープはどうする?」
「僕は遠慮しておきます。その代わり、デザートが食べたいです」
「了解。あたしもなにか食べようかな。シャーベットとか」
「いいですね。揚げ物を食べたあとだから、あんこが入った和菓子とかじゃなくて、軽く食べられるものの方が」
「気が合うね。まるで元は同じ人間だったみたい」
もう一口、二口と、スプーンを典雅に動かしてスープを口に運ぶ。通りかかった男性給仕を呼び止め、注文を済ませる。
「どう? 一週間、書生として働いてみて。電話で話したときは、まあまあ順調なのかなって感じたけど」
「はい。おおむね、そうですね」
「含みのある言い方をするじゃない」
「いえ、順調ですよ。小さなつまずきや失敗は当然ありましたけど、なんとかやっていけそうかな、という手応えは持ちました」
愚昧さんはテンポよくスプーンを操りながら、「そういうことなら、よかった」という顔で頷く。詳細を知りたい願望が黒目の中で瞬いている。栄田くんはありのままを話した。
「なるほどね。まあ、そういうキャラだもんね、東伝くんは」
愚昧さんは歯を見せて朗らかに笑う。さらけ出された口内は、歯の滑らかな白さの主張が強く、真紅の口紅の鮮やかさと艶やかさを際立たせる。
その口にトンカツが挿入され、上下の歯によって先端の三分の一ほどが切断される。彼女の口はそう大きくはないが、大きく開いて料理を招き入れるため、食べ方は豪快に見えるし、食べ進めるペースも速い。
食べながらでも平気でしゃべる人だが、今回は口腔が空になるまで待ってから、
「交渉すればいいのに。肉類をもっと食べた方が精がつきますよ、執筆活動にもプラスになりますよって。もしくは、自分用にちょっと豪華なおかずを作ってもいいか頼んでみるとか」
「後者に関しては、そこまでする気はないですね。なんといっても書生の身ですから。差し出がましいというか、おこがましいというか」
「そう? ふぅん。そういう考え方するんだ」
もう一口、二口と続け様に食べて、一切れのトンカツは愚昧さんの胃の腑に消えた。新たなトンカツを箸で掴み、それを虚空で軽く振りながら、
「あたしだったらはっきりと言うけどね。野党議員みたいに毅然と。死活問題とは言わないまでも、生活の質が明らかに低いわけでしょう? 雇用される側として、待遇改善を要求する権利は当然あるわけだから。件くんは心が優しすぎるの。あたしに訴えてきたということは、相当参っているんでしょう?」
「相当、ではないかもしれませんけど。でも、愚昧さんと話しながら、先生に実際に訴え出る場面を脳内でシミュレーションしてみたんですけど」
「うん」
「強いて改善を求める必要はないのかな、という気がしてきました。物足りないといってもカロリー的には充分ですし。それに週に一度、こうして愚昧さんに食事を奢ってもらえるなら、少し不満があるくらいが逆にいいのかな、とも思います。人間としても、作家志望としても修行の身としては、ある程度厳しい生活に身を置くべきだと思うんですよ」
「やっぱり真面目ちゃんね、件くんは」
突然、グラスが連続して割れる音が聞こえてきた。どうやら人為的に破壊されているらしい。栄田くんは音がした方を向いたが、狼の顔を持つ大男の体に遮られて状況が視認できない。
狼男は、狼そのものの口とはうらはらの行儀よさで、箸の持ち方も美しくトンカツを食らっている。平皿に盛られた揚げ物は、動物園の虎に与えられる餌のように山盛りだ。グラスが割られる音にはまるで関心を払っていない。
口角から滴る、微かに泡立った涎を見て、慌てて顔を自分のテーブルに戻した。
グラスが割られる音はいつの間にかやんでいる。しばし黙々と食事をするだけの時間が流れた。
「愚昧さんにもう一つ、相談というか、意見を聞きたいです。choleraについて、なんですけど」
テーブルに着いて初めてグラスの水で喉を潤し、おもむろに切り出した。千切りキャベツを取り皿に装ったばかりの愚昧さんは、「どうぞ」というふうに頷く。栄田くんは宴会場で赤鬼氏や青鬼氏と交わした会話や、赤鬼氏と青鬼氏が交わした会話について、記憶に忠実に、順を追って話した。
「というわけなんです」
説明がひと段落すると、愚昧さんは栄田くんに視線を重ねて首を縦に振った。
「お二方の話を聞いた限り、choleraは定義するのが困難な存在なのは確かだと思うんですよ。でも、もし愚昧さんが、上手い表現というか、choleraを端的に言い表す言葉を知っているのなら、教えてほしいです。それが難しいなら、愚昧さんがcholeraという存在をどう考えているかだけでも」
「なるほどね。分かった」
愚昧さんは箸をテーブルに置く。栄田くんはすでに箸を手放している。愚昧さんは紙ナプキンで唇を拭い、拭いた側を内側にして二つ折りにし、念のためという感じでもう一度同じ箇所を拭く。それをカップの下に挟み、テーブルに肘をついて栄田くんへと軽く身を乗り出す。
「『定義するのが困難』という表現は少し違う気もするけど、まあいいや。あたしが思うにcholeraというのは、実在しているかもしれないし、実在していないかもしれないもの。実在しているのであれば、防げるかもしれないし、防げないかもしれない。要するにあたしは、choleraの本質を掴むことを最初から諦めちゃっているわけ。赤鬼氏だか青鬼氏だかが言っていた、東伝くんと一番相性が悪い考え方なのは誰かっていう話。それは赤鬼氏でも青鬼氏でもなくて、実はあたしなのかもね。神罰を恐れて、藁にも縋る思いで祈りを捧げている人に向かって、神がいるかいないかが人間ごときにどうして分かるの、いるかいないか分からないものに怯えるなんて馬鹿馬鹿しい、そう嘲笑っているようなものなのだから」
口元だけで微笑し、すぐに真顔に戻る。
「ただ一つ確かなのは、来た、と思った瞬間には終わっているということね。まあ、本当にcholeraなんていうものが実在するならば、の話だけど」
「それって……。僕の力では、というか、誰の力でもcholeraの侵入を防ぐことは不可能、という意味ですか」
「来ていない間は防げている、とも言えるけどね。でもまあ、それは詭弁かな。真実みたいな詭弁というよりも、詭弁みたいな真実なのかも」
「僕が玄関番として働く意味はあるんでしょうか。お金までいただいて、防ぎようのないもののために」
「いいのよ。東伝くんをいくらか安心させてあげている報酬だと思って、喜んで受け取っておけば」
お代という言葉を聞いた瞬間、いささか唐突ながら、先生から小説に関してまだなにも教えてもらっていないことを思い出した。食事の悩みとcholeraの脅威が追い打ちをかけ、物理的な圧迫感さえ覚えた。
「どうしたの。食べようよ、件くん」
大皿のトンカツは残り僅か。双方の白米の残り具合を考慮すれば、愚昧さんはもう一枚分、追加で注文する可能性が高そうだ。密かに楽しみにしていたデザートのことを考える心のゆとりは、今の栄田くんにはない。
再び、グラスが割られる音が聞こえ出した。
気が緩む時間帯を時折挿入しながらも、基本的には緊張の連続である京山家での生活において、入浴が栄田くんの数少ない安らげる時間になりつつあった。
書生として生活を送る以前は、長風呂でも烏の行水でもなかった。疲れたときにぬるめの湯に長く浸かり、汗を多くかいた日は入念に体を洗う。必要に応じて適切に活用しているだけで、愛好しているわけではなかった。
京山家に来てからは、疲労を蓄えるのが常態化したために、入浴時間は必然に長くなった。ただ、仮に疲労感とは無縁の書生生活が訪れたとしても、栄田くんは長風呂の習慣を改めないだろう。
どういう仕組みなのか、お湯を張ってからいくら時間が経っても、京山家の浴槽の湯は地獄のように熱い。覚悟を決めて身を首まで沈むと、さながら眠気が飛ぶように、疲れの大半が一瞬にして消失する。一分ほど耐えると、熱さに慣れた体が心地よさを感じ始める。その心地よさが栄田くんは堪らなく好きだ。
もっとも、入浴時間を快く思う気持ちや、疲れを除去したい欲求だけが、彼にその時間を求めさせるのではない。
入浴後は先生への挨拶を終えれば、完全な自由時間。先生に迷惑をかけなければなにをしようと構わない。
作家志望の栄田くんとしては、習作の執筆、もしくは読書に費やしたい。現在、長編の構想をじっくりと練りつつ、短編の習作を書き進めている状況なのだが、その習作の執筆がままならない。技術的な迷いが複数あり、それを無視することも、自力で克服することもできない。そのような状態のままエチュードを書きつづる意義を見出せず、足止めを余儀なくされている。
創作に関する悩みであれば、京山東伝という、これ以上ない教師が間近にいる。栄田くんが自力では解けない難問でも、先生ならば解き明かすのは朝飯前だろう。
小説家・京山東伝から小説の書き方について教わるのも、書生として勤めることの報酬の一つだ。詳細こそ語らなかったが、愚昧さんはそう明言していた。
しかし、書生として京山家で働き始めて一週間となる現時点で、先生から教えを乞う機会には一度も恵まれていない。
自ら教授を願い出るだけの勇気は栄田くんにはない。肉や甘味や揚げ物など、もっと精がついて、心も楽しめるものを食べた方がいいですよ、と進言することと同じく。
先生が殆どの時間書斎にこもっているという意味では、頼みごとをしづらい環境だといえる。随筆などを読めば、「先生が一日に執筆時間に費やす長い」という情報は容易に読み取れるが、こうも外に出ないのは予想外だった。それとも、今は仕事が忙しい時期なのだろうか?
真相がどうであれ、先生が大切にしている時間を邪魔するのはもってのほか。とはいえ、書斎の外にいる先生に、必ずしも必要ではないのに話しかけるのは畏れ多い。
ならばせめて、自主的に鍛練したいところだったが、スランプに陥ってしまってままならない。
栄田くんは今日、脱衣所に入った瞬間、スランプも長風呂の要因の一つだと悟った。創作活動に費やす時間を取るのが怖い。だから始める瞬間を少しでも先送りにするために、長く湯に浸かっている。
入浴後から就寝までの時間を創作活動に費やさなければならない義務はない。しかし、せっかく先生のもとで生活するのだから、創作活動に宛てる時間を意識的に増やしていこう。増やしていくべきだ。京山家に来るに先立ってそう決意した。
栄田くんが勝手に決めただけなので拘束力はない。したがって、早めに寝てしまっても誰からも咎められない。毎日の疲れは小さくなく、朝が早いのだから、時間を無駄使いするくらいならむしろ早めに就寝するべきだ。
そう理解してはいるのだが、部屋に戻ってプライベートな時間を消費していると、課題に取り組まざるを得ない空気をどうしても感じてしまう。
創作のこと。食事のこと。先生との接し方。
大きなことから些細なことまで、数多くの懸案事項を抱えている現状に、今さらながらに気がつく。
窮状を訴え出る勇気。救いの手が差し伸べられる気配。どちらも現時点では望み薄だ。
「……とにかく」
湯に浸かろう。一日の疲れを癒そう。長く息を吐いて気持ちを切り替え、己を鼓舞するようにてきぱきと服を脱いでいく。
上半身裸になったところで、廊下で微かな物音がして、栄田くんは塑像と化す。脱衣所の戸のすぐ近くだ。
体ごと戸に向き直る。きちんと閉めたはずだが、握り拳が行き来できるほどの隙間が生じている。軽く鳥肌が立った。
誰かが中を覗いているのだ。
戸が音もなく開かれた。
「……先生」
京山東伝だ。死に装束を想起させる純白の寝間着を着た、先生。
その顔には、気後れの色が表れている。顔こそ栄田くんに向いているが、目を見ていない。
普段の先生とは明らかに様子が違う。
かけるべき言葉に迷っているうちに、自分が半裸であることを思い出した。猛烈に込み上げてきた羞恥の念に、溺れる人間のように両手を虚空にさ迷わせる。手にしている肌着の存在に気がつき、大慌てでそれで体を隠す。
栄田くんがあたふたしている間、先生は口を噤んでいる。顔の方向は使用人だが、視線を合わせようとはしない。この場から離れようとする素振りも見せない。
「あの、先生。わたくしになにか用でしょうか?」
「いや……」
先生は後頭部を掻く。二人の視線が漸く重なった。
「君に用事があるのは確かだが、脱衣中に入ってきたのはよくなかったね。就寝する前に伝えなければと焦るあまり、こんな形になってしまったのだが」
「とんでもありません! わたくしは使用人なのだから、いつでもお好きなときに声をかけてください。気をつかう必要はありません」
「しかし、脱衣場の中はさすがにまずいね。君が入浴を終えてからにしよう」
「いえ、この場でお願いできますか。先生を待たせるわけにはいきませんから。あ、でも、上を一枚だけ着させてください」
首肯が返ってきたので、大急ぎで肌着を身に着ける。先生の視線をひしひしと感じ、顔から火が出る思いをしながらの作業となる。「用事」のことで頭がいっぱいで、伝える相手につい注目してしまっているだけだ。そう頭では理解していても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
もたつきながらも着衣を完了し、恥ずかしさを懸命に堪えながら先生に向き直る。先程までの先生がそうだったように、話し相手の目を見ることができない。無意識に、右腕をL字に曲げて胸を隠していることに気がつく。肌着の上にも着ればよかった、と思ったが、先生の前で隠しごとをするのは失礼だ。引力を感じながらも右手を下ろす。そろそろ深夜に足を踏み入れる時間帯の京山家を支配するのは、王の前に跪く千人の兵士のような静謐。
「君に伝えておきたいのは、小説のことだ」
文字どおり一瞬にして、照れくささが吹き飛んだ。
「この一週間、君に小説のことはなに一つ教えなかったね。気が緩むといけないと思って方針は伝えていなかったが、一か月経って勤務態度に問題がないようなら、少しずつ教えていこうと考えていたんだよ。しかし、予定を少し早めて二週間後の夜から、小説執筆に関する講義を執り行おうと考えている。時間は、そうだな、君の仕事が終わってから入浴するまでの間としようか。どうだろう?」
「断る理由はありません。ですが、その……」
喉が鳴らないように唾を飲み込む。
「本当に、よろしいのですか? 考えがあって、一か月後からと決められたのでしょう。わたくしとしては、教えてくださることを口頭で確約していただいただけでも充分です。ですから、無理に時期を早めなくても」
「それでは私の心が納得しないよ。君には迷惑をかけてしまったから、少しでも埋め合わせをしないと」
「迷惑、ですか?」
「たとえば、宴会のとき。君に持ってもらった荷物、あれは一人でも持てる重量だった。タクシーを呼ぶことだってできたしね。それなのに君を連れ出したのは、要するに甘えていたんだ。従順で有能な使用人をみなに見せびらかしたいという、低俗な欲求もあったかもしれない」
「ですが、作家の方に話しかけていただいて、かけがえのない、素晴らしい経験ができました。華やかな場の近くにいられたのもプラスになりましたし」
「それはただの結果論だよ。それに、迷惑をかけたのはそのときばかりではない。際限がなくて列挙しきれないが、他にも君が不当な負担を負った場面が多々あったはずだよ。君は仕事だから仕方ないと思っているかもしれないが、不合理で不条理な負担だったと私は思う。客観的に見てもそうだろう」
体の奥から込み上げてくるものがあった。その瞬間は弱いものにも感じられたが、秒刻みに勢いを増していき、恐怖感さえ伴った。溢れる、と思った。
先生は僕のことを考えてくださっている。こんな取るに足らない人間のことを。一介の書生に過ぎない僕のことを。
小説について教えてもらう。確かにそれも大事だが、このことと比べれば、埃も同然のちっぽけな報酬に過ぎない。
尊敬する先生から、大切な存在だと認められている!
これに肩を並べる喜びなど、この世界にあるはずがない。
栄田くんの表情の変化を目の当たりにして、先生の表情は目に見えて和らいだ。
「君は三日後から、堂々と私の講義を受けなさい。主人の命令には絶対的に従う。それが使用人としての君の方針なのだろう?」
「――はい。ありがたく教わりたいと思います」
声に自然と力がこもった。踏ん張っていたなにかが呆気なく転び、栄田くんの双眸から二条の液体が流れ落ちる。
先生は滑らかな挙動で栄田くんとの距離を詰め、両腕で柔らかく抱き締めた。反射的に見返した顔は、聖母じみた微笑に包まれていて、溢れ出す水量が増した。顔を正視されるのを厭って俯き、先生の胸に額を触れさせる。おこがましい行為だという自覚はあったが、許容してくれると確信できたのでそうした。
栄田くんの判断は正しかったらしく、先生は拒絶するどころか、両腕の締めつけを強めた。強さよりも優しさが増したような、そんな力の変化だ。
涙は止まらないし、止めようとも思わない。先生のもとで働くことができて、僕は幸福だ。魂の最深部からそう実感した。
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