はちみつレモンのリップクリーム

しお

はちみつレモンのリップクリーム

「いてっ」

プチッ、という自分にだけ聞こえる音を立てて、横に伸びきれなかった下唇が亀裂を生む。

「どうした?」

「唇切れちゃったみたい。」

「あー、最近乾燥しはじめてるもんね。リップとかハンドクリームとか使ったほうがいいよ?あ、私の貸そうか?」

彼女がポケットから取り出してみせたのは、白の円柱に黄色の模様が入ったリップクリームだった。

「いいよ。なんか悪い気がする。」

「別にいいのにー。」

そう言いながら、彼女は白い蓋を開け、自分の唇にそれを塗りはじめた。口を軽く開き、上唇の中央にリップクリームを当て、唇の縦幅に合わせて上下に動かしながら右端まで進める。再び上唇の中央に戻り、今度は左端に向って進む。すると今度は口の開きを少し大きくして、下唇の中央にリップクリームを当てる。上唇と同じように、細かく上下に動かしながら、左右それぞれに向かって塗っていく。口を開いたときに現れた、唇の内側の色が濃くなっている部分が目に留まる。なんて鮮やかで綺麗な色なんだろう。そこから視線を外せなくなった。催眠術にでもかかったかのように瞬きもせず見つめていると、上下の唇が内側に巻き込まれ、擦り合わせられる。リップクリームと一緒に、口の中に吸い込まれそうになった。


「どうかした?」

「……あっ、いや、珍しい塗り方だなーと思って。」

「ああ、これね。横に塗る人も多いけど、ほんとは縦に塗った方が効果あるんだって。お母さんに聞いたんだ。」

「へー。」

仕事を終えたリップクリームが、蓋をされスカートのポケットに仕舞われていく一部始終を、ぼーっと目で追った。

「そうだ」

その声で意識が戻り、声の発生源へ視線をやると、うっすらと光沢のある唇と目が合う。彼女が言葉を発するたびに、あの内側の色の濃い部分が見え隠れする。

「5時間目、体育だよね。昼休み終わる前に早めに行かない?」

「あ、うん。」

返事をしてジャージの入ったバッグを取りに席を立つが、脳裏に唇が焼き付いて離れない。今まで意識して見たことはなかったが、上唇の方が下唇よりもやや薄く、綺麗なM字型をしている。M字の中央の谷は細くて深く、唇の色と肌の色とが西洋人形のようにはっきりと分かれている。無色のリップを使っているはずなのに、赤色寄りの鮮やかなピンク色をしているのは、血色が良いためだろう。一度意識してしまうと、どうしたらそれ以外のことを考えられるのか分からなくなってしまった。



 更衣室で着替えを始めても、唇が忘れられない。他のことへ思考を移そうと、目をきょろきょろ泳がせる。みんな更衣室では他人をあまりじろじろ見ないようにしているので、不審者のようになってしまう。慌てて動かした視線の先に、薄い水色の下着が目に入る。布地と同じ色のレースでカップ部分が縁取られ、両胸の間には小さな白いリボンが付いている。一昨日の体育の授業のときには全く気付かなかったが、彼女に抱いていたイメージよりもだいぶ可愛らしい下着だった。人の胸をまじまじと見ているのを悟られないように視線を逸らすと、首の根元の右後ろに目立つほくろを発見する。こんな場所のほくろ、本人すら知らないことだってあるだろう。いや、更衣室でこんなことを考えたら駄目だ。込み上げるほのかな優越感を掻き消すように、ジャージの半袖を勢いよく被った。


 ◆


 帰宅し、夕飯も済ませた後、宿題に取り組むわけでもなく、ベッドに寝転がってスマホと睨み合う。検索窓に入れる単語の組み合わせを変えては、虫眼鏡ボタンを押す。「唇 見てしまう」、「友達 見てしまう」などを入れると、検索結果には「異性の友達」や「脈アリ」、「恋愛」といった単語が目立つ。彼女は友達ではあるが異性ではない。しっくりこない結果に首を捻りながら検索を続けると、「女同士 気になる」というサジェストに辿り着いた。その検索結果から分かったのは、女性同士で恋愛をしている人たちもいるということと、同性を好きになってもおかしくないということだった。

 私が、あの子を、好き。そう呟いてみても何も違和感は無かったが、それが恋愛感情かと言われると、頷くことはできなかった。


 ◆


 翌朝、なんとなくそわそわして早めに学校に着いてしまった。普段は始業ギリギリに教室に入ることが多いので、数名しかいない静かな教室は、なんだか落ち着かない。居心地悪く座ってリュックの中身を机の中に移していると、前のドアが開いた。

「おはよーっ!」

そわそわしている原因のにこやかな顔が現れ、教室にいる生徒たちが、口々に挨拶を返す。私が知らないだけで、毎朝この交流があったのだろう。そう思うと、これまでの1年と半年が勿体ないような気がしてきた。

「あれ?茜、今日は早いね。もしかして1限の宿題忘れた?」

「持ってきてますー。おっちょこちょい咲希さんとは違いますー。」

「ひっどー」

わざとらしいやり取りに笑いながら、彼女は自分の机にリュックを置き、笑顔のままこちらへ近付いてくる。

「茜、英語のワーク、最後の長文分かった?」

「ああ、大体解けたと思うけど……提出今日じゃないよね?」

「え」

「今日は単語テストじゃない?」

「……やっば。ちょっと茜手伝って。」

慌てて自分の机に戻り、リュックから単語帳を取り出した彼女は、またこちらに戻ってくる。

「手伝うって言っても、単語なんて自分で覚えるしか……」

そう言いながら横向きに座りなおすと、単語帳と赤シートを持った彼女が、自分の席に着くかのように私の膝に座った。

「え?」

「私が英単語見ながら日本語言うから、違ったらヒント教えて!あと覚え方あったらそれも。」

「いや手伝うとは言ってないんだけど……」

「じゃあ左上から!んー、『夜明け』!」

「……はい、正解。」

こういう強引さを持って周りを巻き込んでいくところ、それも本当に嫌がっている人は対象から外し、なんだかんだやってくれる人だけを巻き込むところが、彼女の憎めないところだと思う。何を隠そう私自身が、なんだかんだやってくれる人の代表例である。


 肩越しに単語帳を覗き込んで正誤判定をしていると、自然に鼻腔に入ってくる彼女の匂いが、とても良い匂いなことに気付く。この高校は香水が禁止されているので、服の柔軟剤か、保湿に使っているクリームか何かだろう。さっきまで通学していた汗がどこへ消えたのか不思議になるくらい、甘い花のような香りがする。それに、この「良い匂い」を作り出しているのは、人工的なものだけではない気もする。


 始業5分前のチャイムが鳴りはじめたとき、ちょうど最後のページまで進んだ。

「よし!これで7割はいける!気がする!」

「ほんとかなー。普段からギリギリなのに?」

「茜先生が教えてくれましたのでー。ご心配どうもー。」

口では茶化しながらも、鼻は彼女の残り香を、腹と太腿は彼女のぬくもりを恋しがっていた。


 ◆


 その日の放課後、帰り道にあるドラッグストアに寄った。行き慣れないリップクリームコーナーへ赴き、容器の色を手掛かりに、彼女と同じ物を探した。幸いメジャーな種類らしく、記憶と一致する商品を一目で見つけることができた。それを持ってレジに向かう途中、ふと見かけた洗剤コーナーに寄ってみる。商品が置かれた棚に提げられている、ビーズの入った透明な容器。目に付いたものに近付いて香りを嗅いでみて、記憶の中の彼女の香りと照合する。5つくらい嗅いだところで匂いの違いが分からなくなってきたので、諦めてレジで会計を済ませることにした。困ったことに、どの香りも記憶と一致しないどころか、彼女のそれを超えることはないと感じた。


 ◆


「おはよ!」

翌朝一番に声をかけてくれた彼女は、昨日までと違い、制服の上に紺のセーターを着ていた。

「おはよう。あったかそうだね。」

「でしょー。今日風強いらしいからさ。ほんとはグレーとかの方が制服に合うと思うんだけど、校則がねー。でも、これも可愛くない?優等生っぽいし。」

はいはいそうだね、といい加減に返事をしてみせつつ、気付かれないように彼女の全身を視線でなぞる。袖で手の甲が7割くらい隠れていて、ほとんど指だけが見えている。その指先の爪も、磨いたばかりなのかつやつやしている。厚い生地で体のラインが普段よりゆるやかになっており、私と大して体格が変わらないのに、可愛いぬいぐるみのように見えてくる。ぬいぐるみにするように、全身をぎゅっと抱き締めたら、どんなに心地良いだろうか。昨日彼女が座ってくれたときの感覚を思い出しながら、想像力を総動員して思い浮かべる。


「そうだ。昨日の帰りに、咲希と同じリップ買ったんだ。」

「え、ほんと?今使ってる?」

「うん。家出るときに塗ってきた。」

私の返事を聞いた彼女は、キスでもしそうな勢いで顔を近付けてきた。そして、鼻ですんすんと音を立てる。

「やっぱりいい匂いするよねこれ。はちみつレモンの香り。」

「う、うん。」


 ◆


 キス。キス。ベッドに仰向けになって、そればかり考えている。間近であの唇を見られる……いや、キスするくらい近付けば、逆に見えないんだろうか。顔の前に手の平を出して、その表面に彼女の顔を想像する。そのままじわじわと顔に手を近付けてみる。手の平が鼻の先に触れたところで、我に返ってベッドの上で万歳する。恋に悩める高校生は、みんな夜な夜なこんなことをしているのだろうか。

 私が彼女に向けるこの気持ちは、一体何なんだろう。ハグはできたら嬉しいけれど、彼女とのキスを想像してみても、あまりぴんと来なかった。その先……女性同士でできるのかさえ分からないが、それらしい雰囲気のシーンを想像してみても、どこか他人事のように感じる。同級生の話を盗み聞いて少しだけ知識はあるが、私もいつかするのかもしれないな、くらいの感想しか生まれない。これは恋愛感情か否かの基準にはならなそうだ。もし彼女に恋人ができたとしても、クラスの子たちときゃっきゃしながら応援できてしまいそうな気がする。ただし、その恋人が女性、しかも学校の知り合いだったら。教室や廊下、通学路で仲睦まじくする様子に、心が騒めいてしまうかもしれない。でもその騒めきだって、親友が奪われたことによる嫉妬と区別が付かない。もうお手上げだ。


 万歳したままの右手でスマホを手繰り寄せ、検索エンジンを開く。「友達から告白された」で検索してみると、友達に告白されて思い悩んでいる人たちが何十人も、質問サイトで相談していた。男女問わず告白に戸惑っており、それがショックだったという人も、悩んで眠れないという人もいる。仲の良い友達だったのに、告白され付き合って別れたせいで関係が終わってしまったという人さえいた。私は、彼女が困ったり、彼女と一緒にいられなくなったりする未来を求めているのだろうか。そういうリスクよりも、付き合ったり結婚したりできたときの幸せを求める人なら、相手に思いを伝えるのかもしれない。

 私は、どっちなんだろう。


 ◆


「今日も風、強いねー。」

教室の約半数がセーターを着るようになったある日、昼のお弁当を食べ終わった後、2人で並んで窓の外を見ていた。

「あ、山田くんたちがサッカーしてる。元気だねー。」

「ほんとだ。ほんと元気ねー。」

食後の眠気もあり、縁側に並ぶ老夫婦のような会話をゆったりと続けた。

「……あのさ、咲希。」

「んー?」

「咲希せんぱーい!」

私が声を発するのより先に、後ろから大きな声が聞こえた。

「ごめん、部活の後輩。ちょっと待ってて。」

3人の女子生徒に囲まれた彼女は、一瞬で老婦から「咲希先輩」へと変身した。背中を見るだけでも、それが分かった。

「どしたの?」

「この子が咲希先輩のジャージ貸してほしいって」

「変な言い方しないでよ!えっと、ジャージ忘れて、咲希先輩サイズ近いので……」

「いいよ。ちょうど今日の2限、体育だったんだ。」

「知ってます!この子先輩のクラスの時間割把握しててー」

「だから変なこと言わないでってば!違うんです、私先生に時間割聞きに行く係だから、それで……」

「分かった分かった。可愛い後輩に好かれて嬉しい限りだわ。そうだ、ついでに今日の練習メニューについてなんだけど……」


 窓の下の壁に背もたれのように寄り掛かり、スカートのポケットからリップクリームを取り出す。自分の体温で温まったそれは、蓋を開けずとも甘酸っぱい香りをうっすら漂わせていた。

 今はまだ、この気持ちは心に秘めておこう。そう決意して、口に厳重な鍵をかけるように、ゆっくりとリップクリームを塗った。彼女と同じように、小刻みに上下させながら。


 卒業する頃には、この気持ちにも整理が付いてくれるだろうか。そして10年後くらいには、あの頃は楽しかったねーなんて、お互い別々の指輪をしながら言うのだろうか。それとも、私はあの頃から好きだったんだから!なんて痴話喧嘩を、同じ指輪を左手に嵌めてできる日を、期待してしまってもいいのだろうか。

 振り返って窓の外の空を眺め、上下の唇を擦り合わせる。雲の流れが速い。このリップクリームを使うようになって少し経つが、まだ彼女の唇のようにはならず、ときどき乾燥で切れる。そのたびにあの日を思い出し、自分の記憶力の良さに辟易しそうになる。小さなため息をつくように、誰にも聞こえない声で呟いた。


「ファーストキスは、はちみつレモン味。なんてね。」

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