第32話 珍獣現る
メキシコの発掘がひと段落し、アイくんが帰国していたので、ルリコは手料理でもてなす一方、新しく副料理長になったサッちゃんの料理も食べてもらっていた。
「美味しいよ!サッちゃん。このポークソテー、身体に染みる!ああ、日本に帰ってきたなぁ…」
アイくんはお世辞を言わないので、サッちゃんは喜んだ。
「ありがとうございます、旦那さん」
「だっ、だっ…」
「あれ、だって社長の旦那さんですもん」
そ、、う、だ、ね…なんか、照れるっていうか
「ほら、旦那さん、アイスコーヒー」
ルリコはニヤニヤしながら、カウンター越しにアイくんにグラスを渡した。
ランチタイムのピークが過ぎたこの時間、運命の輪には穏やかな時間が流れていた。そう、この女が来るまでは…
「げっ!」
「なにが、げっ!よ!いらっしゃいませでしょーが!」
「お客さま、あいにく本日はラストオーダーとなりまして、申し訳ございません」
「いいから、Bランチ。アイスコーヒー先にして」
「何しにきたのよ、手嶋!」
「あんたが結婚したってデマを聞いたから、確かめにきたのよ」
店長の靖彦が、顔色も変えずにアイスコーヒーを運んできた。
「どうせ、嘘でしょうけどね」
手嶋と呼ばれた女性は、ストローをちぎりながら憎々しげに言った。
「嘘じゃありませんよ。僕が旦那です」
アイくんがカウンターから首をひねって言った。
「え…うそ…」
手嶋は目を見張ったまま、フリーズしている。
「そんな嘘ついてどうするのよ、私も暇じゃないんだよ。わざわざ東京から確かめに来るなんて、あんためちゃくちゃ暇してんのね」
手嶋はアイスコーヒーを一気に飲み、Bランチを一気に食べ、帰って行った。もう何も喋らなかった。
店長以外のスタッフと、アイくんは、ポカンと後ろ姿を見送った。
「なに?あの人」
怪訝な顔のアイくんと、スタッフにルリコは説明した。
手嶋は高校の同級生で、昔から何かと私に喧嘩を吹っかける女だった。
同人誌とかに小説を発表してたら、本当にデビューしたのよ。今から10年くらい前かな。
その小説には毎度私らしき人が出てくるの。
「えっ?!」
「どんな役で?」
「そりゃもう、殺されたり、酷い目にあったり、男に騙されて無一文になったりするんだよ」
あはははと笑うルリコ。
「ルリちゃんの大ファンなんだ!というか、ストーカーに近いな」
そうなの。
あいつは5年に一度くらい、私の店に来るから。
「店長は取材されて大変な目に遭うのよ」
「今日は社長がいて助かりました」
靖彦が薄く笑った。
「岩盤浴はバレてないようね、よかった」
「社長、グラタンすぐできますけど、召し上がりませんか?」
「えー、ほんと?サッちゃんのグラタン楽しみだ。今日のCランチだね!」
「サッちゃん、僕にもください」
アイくんはよく食べる。
「読みたいな、さっきの人の小説。爆笑じゃない?僕が読んだらさ」
「手嶋カヲルっていう名前だよ。悔しいけど、なかなか面白いよ。自分が酷い目に遭うのもウケるし」
後日、手嶋カヲルの本を読んだアイくんは、不覚にも感動の涙を流したのだった。
次回作は僕も出てくるといいな。
きっと、殺されるんだろうけど。
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