第5話 お父ちゃんの決心
栗林武雄は焦っていた。
まさか、ヤス子のやつ、小料理屋の志乃さんのこと勘繰ってんじゃねえべな…
そのまさかである。
35年前、家のどこにも妻の姿が見えなくなった時のことは忘れられない。
終わりだ…
目の前ってほんとに真っ暗になるんだな、と思いながら、腰を抜かしてしまったあの日…
長女は怒りの眼差しで睨みつけてくるし、長男はベソをかいて布団にくるまっていた。
ヤス子がいなければお茶の一杯も出てこない。
自動的に風呂は沸かない。
洗濯も、掃除も、ご飯も、何もできない自分に情けなくなった。
「あたしとケンのご飯はいいから、お父ちゃんとばあちゃんで食べな」
「お、おめえら、どうすんだよ、メシ」
「とにかく大丈夫だよ。行こう、ケン」
あの時京子は、いったいどこで食べてたんだか、と今でも思う。はなっから俺なんか頼らない、って感じだった。自分勝手に生きてきたくせに、こういうときに傷つく自分が嫌だった。
ヤス子なしの一週間は地獄だった。眠れないし、ヤス子はどこにいるのか、誰といるのか、帰ってこなかったらどうしよう。そればかりが心を支配した。
「帰ってきてくれ、おれが悪かった…ヤス子」
思わずつぶやいた時、本当にそう思ってんの、あんた。と声がした。
ヤス子の足にケンイチがすがりついていた。
声を押し殺して泣きながら。
「ヤス子…」
「心配になって帰ったら、なんだこの家は。豚小屋かい。まったく…」
「ヤス子…」
「なに」
「すまん。俺が悪かった」
「わかればいいんだ。二度目はないよ。わかってんだろうね」
「わかった」
そういうと武雄は、死んだように眠ったのだ。
朝、ヤス子に叩き起こされるまで、死んだように寝た。
「父ちゃん、いい加減に起きないとダメだべ!」
尻のあたりを叩かれ、目を覚ますと、居間で毛布をかけられ、枕までされていた。
家の中は見事に片付けられ、ピカピカになり、美味しそうな味噌汁とご飯が、焼き魚と共に食卓にある。
「えへへへ、やったー!母ちゃんのご飯」
「なーに言ってんの、子供みたいにさぁ」
ヤス子はいい女だ。
さすがだ。
俺はぜったい、ぜったい、大事にする!
そう誓って生きてきた、この35年。こんなことでしくじるわけにはいかない。
よし、今夜、志乃さんのことを話して誤解を解くぞ。
父ちゃんは力強くうなづくと、畑へ向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます