第10話

 案内された客室は、セミダブルサイズのベッドが一つ、一人掛けのソファが二つ、ローテーブルが一つ、テレビ台と小型冷蔵庫が一つずつというシンプルなものだった。しかし当然のように部屋は広く、家具類はすべて一目でわかるような高級品だ。

 私の寝室として隣の客室を用意してくれたようだが、この状況で一人になるのは不安しかないのでリリの部屋にお邪魔させてもらっている。


「まったく、付き合ってられないよ……」


 珍しく不満を口にしながらリリはベッドに倒れ込み、真っ白で洗い立ての匂いがする柔らかなシーツでちっちゃな体を包み込んだ。

 ご機嫌斜めでミノムシみたいな格好になったリリのそばに腰を下ろし、ひょっこり覗いている黒髪ショートボブを撫でる。


「でも、リリ。本当にみんなから離れて大丈夫なの?」

「平気だよ。これ以上事件は起きないから」

「……それ、どういうこと?」

「どうもこうもないさ。そのままの意味だよ」

「…………」


 どうやらリリには事件の真相が見えているらしい。だからもう大丈夫と部屋に引き上げたということなのか。

 ……訊いても答えてくれないんだろうなぁ。


「そんなことより、ミコ」

「ん?」

「やっと二人きりになれたけど、どうしようか?」

「……!」


 誘うような目で表情をとろけさせ、リリは甘えた声でそんなことを言った。

 何を求めているのかなんて、考えるまでもない。


「ほんとにもう……」


 リリの声で頭の芯がゆらゆらと揺れる。今日一日、ずっと抑えていた感情がせきを切ったようにあふれ出した。

 シーツにくるまってじっと私を見上げてくるリリに覆いかぶさるようにして顔を近づけ、そっと唇を重ねる。

 ん……とリリの甘い吐息が耳を撫で、しびれるほどの快感が全身を駆け巡った。

 気がつけば私はリリをぎゅっと抱き締めて、もっと甘い声で鳴かせてみたいという衝動のままに可愛らしい桜色の小さな唇に自分のそれを押し付けていた。

 呼吸をするのも忘れてリリを求め、酸欠さんけつで目の前が真っ暗になって、そこでやっとお互いの顔が離れる。おぼれかけた人のように激しく空気を吸い、自分でも驚くほど熱い息を吐いた。心臓がうるさいほど激しくどうきざんでいる。これは酸欠のせいか、興奮のせいか。

 ……そんなのどうでもいい。

 今はただ、リリがいとおしくて、リリが欲しくてたまらない。それだけだ。

 リリをじっと見つめる。うるんだ瞳が、長いまつの奥から同じように私を見ていた。

 紅潮こうちょうした頬には薄く笑みが浮かんで、少しだけ視線を外して照れたような仕草を見せる。


「ミコはえっちだなぁ……」

「誘ってきたリリに言われたくないんだけど?」

「僕のどこがえっちなのさ?」

「私をえっちにさせるところ」


 言うと、ふふっとリリが笑った。

 可愛い。好き。大好き。

 止められない。


「……いいよね?」


 呟いて、リリを包むシーツに手をかける。


 ――今まで私は、だけは守ってきた。

 自分の想いが強すぎてリリを傷つけるかもしれないと思っていたから。

 以前、付き合って一週間で彼女カノジョをベッドに引きずり込んだという梁川やながわさんを私は笑ったが、それはそこに私自身を投影していたからだ。意識していなければ私もそうなってしまうとわかっていたから、梁川さんを笑い飛ばして自分自身をいましめていた。

 キス以上のことはしないようにと、抑えていた。

 大切なリリを私自身が壊してしまわないように。

 けれど、今は――


「…………」


 リリは何も言わなかった。

 体を守るようにシーツにくるまったまま、じっと私を見ていた。

 その薄く白いよろいを脱がせようとする私を止めようとはしなかった。

 一線を超えることを、リリは許してくれた。

 だから私は――


神前かんざき――ちょっといい?』

「――⁉」


 ノックとともにドアの向こうから梁川さんの声がして、焼き切れるほど熱を帯びていた頭の奥が急激に冷え、シーツを掴んでいた手を離した。

 すると、リリが

 それを目にした瞬間、頭だけではなく全身が凍りつくように冷え切った。

 私がやろうとしていたことが何なのかを、はっきりと自覚してしまったから。


「ごめん……リリ。私……」

「ん……大丈夫。ミコが悪いわけじゃない」


 微笑みながら言って、リリは私の頬を撫でた。その優しい手に透明なしずくが伝う。

 それが私の涙で、自分が泣いていることにそのとき初めて気がついた。

 同時に、私がリリの体を求めたのはだと気づいてしまった。

 誰よりもリリのことが大好きで愛おしいからじゃなく――私の中のがよくわからない衝動を起こして、それをぶつけてしまっただけだと。心からリリを愛し、心の底からその体を求めて一線を越えようとしたわけではなかったんだと。

 それに気づいたとき、涙といっしょに恐ろしい勢いで罪悪感があふれ出した。


 リリを怖がらせてしまった。

 リリに要らない覚悟をさせてしまった。


 そのことが怖くて。申し訳なくて。

 そんなことをさせた自分が嫌でたまらなかった。


「ごめん……ごめんなさい、リリ……」

「謝らなくていい。謝らないで、ミコ」

「…………」


 シーツからい出してきたリリが私に抱き着く。

 リリには私に一線を越える覚悟がないことがわかっていたんだろう。一時いっときの気のたかぶりでしかないと、わかっていたんだ。

 だから私を誘うようなことをして、それを自覚させるために受け入れるフリをした。はっきりと言葉にして気づかせたら私が傷つくと思って、そんな行動に出たのだろう。

 私が必ず気づくと信じているから。梁川さんの邪魔が入らなくても、きっと理解すると。

 リリはそう考えてくれた。

 そんな気がする。


「僕はミコのそばにいるよ。大丈夫」


 小さい体で。頼りなく細い腕で。

 私をぎゅっと抱き締めてくれた。

 いつもは私の腕の中にリリがいるのに、今は違う。

 いつもと逆なのに……すごく、安心する。

 私を突き動かしたよくわからない衝動や不安も溶けていくようだった。


「ねえ……私、いつから泣いてた?」

「いいよね? ってとても苦しそうな顔で言ったときから」


 私を心配するようにリリは答えた。それはきっと……悲鳴を上げそうなほど苦しげにこわっているのような顔だったのだろう。

 その時点で間違ってるって、私も無意識では気づいていたんだ。だから知らないうちに泣いていたんだと思う。

 でも、何がどう間違っているのかは今もわからないままだ。どうして私がリリを襲うようなことをしたのかも、わからない。

 わかるのは――自分らしくなかったということ。

 それと、リリにそんな顔をさせてはいけないということ。

 それだけ。


「……抱き締めるのもいいけど、抱き締められるのも悪くないね」

「そうだろう?」


 冗談めかして言うと、リリは悪戯いたずらっぽく笑った。

 抱き合ったままベッドに倒れ込む。

 ひたいが触れる距離で見つめ合うと、自然と笑みが浮かんできた。

 ……やっぱり私、リリが大好きだ。リリがそばにいてくれて、本当によかったと心の底から思う。


那須野なすの、いるんでしょ? 神前は寝ちゃったの?』


 再び梁川さんの声。

 いい加減返事をしないと押し入ってきそうな気配だ。

 リリに軽くキスをしてベッドを下りる。そしてドアを開けると――


「大変なことになってるから、すぐに来て」


 冗談をはさむ余地もない強張った顔で、梁川さんはベッドに横たわったままのリリに言った。



 私たちがダイニングに戻ると、ユウジさんが親のかたきを見るような目でこちらを向いた。異常にギラついた暗い炎を瞳の奥にともらせ、今にも掴みかかってきそうな雰囲気を全身から発している。この数十分で何があったんだ……?


「マキのアリバイが証明された」


 簡潔にヨシタカさんが説明してくれて、それだけで事情を察することができた。

 つまり、彼らの間でということだ。


「マキが本当に車まで行ったなら、雪に足跡が残っているはずだ。だからそれを確かめてみたら……間違いなく車まで往復した跡があった。距離と雪の降り方を考えれば、時間的に犯行は不可能だという結論になった」


 と、ユウジさん。よく見るとヨシタカさんとユウジさんの頭や服が少し濡れている。言うように、わざわざこの大雪の中を調べに行ったらしい。

 それが事実なら容疑者がいなくなったということになるんだけど。


「なるほど、そうきたか……」


 はあぁぁぁ……と心底面倒くさいと言いたげに長大息ちょうたいそくして、リリは可愛い顔が台無しになるほどけんに深いシワを寄せた。


「どういうこと、リリ?」

「トウカさんを殴ることができたのは、リカコさんとマキさんだけじゃないだろう」

「……ひょっとして……?」

「そう。

「うあ、やっぱり……」


 嫌な予感が的中し、私は先ほどのリリに負けないくらいのため息を漏らした。

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