第8話

 マキさんがけんのためにダイニングを出て行ってから一時間ほど経った。その間、ユウジさんはイライラしながら部屋の中を歩き回り、ヨシタカさんがそんな彼が短気を起こさないように見張り、リカコさんは気を紛らわせるためかせわしなくスマートフォンを操作していた。

 梁川やながわさんはテーブルに着いてコーヒーカップに視線を落としたまま身じろぎ一つしない。

 それぞれ思うことはあるのだろうが、誰もそれを口にすることはなかった。


「…………」


 私は弥生やよいさんが入れてくれた濃いめのコーヒーを飲みつつ、膝枕で眠るリリの寝顔と柔らかいぽわぽわのショートボブを堪能たんのうしていた。人が亡くなった状況でお気楽なことを、と言われそうだが、こんな状況ですやすや眠ってしまうリリを見ていると、私のしていることなどさいなことだと思わされてしまう。異常事態に取り乱さずに済んでいるのも、そんなリリのおかげかもしれない。

 お礼にキスしておこう。

 いや、決して寝込みを襲っているのではなく、あくまでお礼なのだ。

 隣に梁川さんがいるので、見つからないようにしながらこっそりとリリの可愛らしい唇を――


「どうだった?」


 ヨシタカさんがダイニングに戻ってきたマキさんに声をかけた。それで目を覚ましたリリが起き上がる。……あと五秒遅れてくれたらよかったのに。


「その前に冷たい水をもらえんかな。喉がカラカラなんや」


 上着のパーカーを脱いでテーブルに置き、ぱたぱたとたまあせの顔を手であおぐ。浴室内は温泉の湯気でサウナ状態だろうし、そんなところに服を着たままで一時間もいれば汗もかくし喉もかわくだろう。

 弥生さんがキッチンから水をんだグラスを持ってきてマキさんに渡すと、それを一気に飲み干して長い息をついた。マキさんに同行していた五十里いかりさんも同じく水を飲んで額の汗をぬぐう。

 私たちの視線を一身いっしんに集めたマキさんはテーブルにグラスを置いて一同を見回し、はっきりとその言葉を口にした。


「結論から言うと――


 瞬間、空気がきしむように緊張が走った……ような気がした。その大元おおもとであるユウジさんの表情に隠しきれない怒りが貼り付いて、ギリギリとこぶしを握っている。

 マキさんは詳しく説明するから座れ、とジェスチャーで指示し、話を続ける。


「死因は頭をどんのようなもので何度も殴られたことや。少なくとも、滑って後ろ向きに倒れて柱で頭を打った、なんて原因やない。死亡推定時刻は現場の浴室内の湿度や温度が高いからはっきり断定できへんけど、ウチらが温泉に入ったくらいからリカコがスマホを探してた辺りまでやと思う」

「あたしもマキも、温泉から上がるまでトウカが生きてるの見てるじゃん。少なくともあたしが出たあとに、ってことじゃないとおかしいよね?」

「まあ、せやね」


 リカコさんの言葉にうなずき、マキさんはスウェットパンツのポケットからスマートフォンを取り出した。それをヨシタカさんに渡す。現場を撮影した写真が入っているらしい。

 ……って、ちょっと待て。


「リカコさんのあとに入ったのって、私たちだよね……?」

「そうだね」


 こっそりリリに耳打ちすると、あっさりとした答えが返ってきた。

 つまりそれは――


「私たちが疑われるんじゃない?」

「そうだね」


 そうだね、じゃないだろぉがぁぁぁぁぁッ!

 と、叫びそうになったが、その前にリリの人差し指が私の口を押さえた。ちょっと待て、ということらしい。


「リカコさんのあとに入ったのは僕たちだけど、そのときはまだ温泉にいた彼女とミコは話をしたよ。もちろん、僕たちが出るときも気持ち良さそうにしていたね」

「だとすると、死んだのはそのあとか……」


 リリの証言にヨシタカさんが呟く。あれ、疑われてない……?


「僕たちには動機がないだろう。彼らとは初対面だし、トウカさんとトラブルを起こしたわけでもない」

「そっか。そうだった」


 そう説明されて、ほう、と安堵のため息が頭の芯に入った熱とともに口から出ていった。


「まあ、状況的に容疑者にはなるかもしれないけど」

「ダメじゃん……」


 追加の一言でがっくりとうなだれる。大丈夫だよ、とリリが頭を撫でてくれなければ泣いちゃっているところだ。


「その中学生ふたりが風呂から出たあと、トウカはずっと一人だった。夕食が終わってリカコが様子を見に行くまで。それまでの間、誰がトウカを殺せる?」


 と、ユウジさん。疑問を投げかけるようなくちりだが、その目はリカコさんとマキさんに向いている。


「何よ? あたしを疑ってんの?」

「…………」


 それに気づいたリカコさんが語気を荒げて言い返した。

 ユウジさんは沈黙している。


「あたしはずっとスマホを探してたんだって。浴室には入ってない」

「証明できるか?」

「…………」


 今度はリカコさんが黙る。

 アリバイというやつだろうか。私たちが大浴場に行く前にリビングを出て行った彼女は、私たちがお風呂から戻るまで一度も顔を見せなかったらしい。他の場所で誰かに姿を見られていないのなら疑われるのもしかたがない。

 しかし。


「待て、ユウジ。リカコがリビングに戻ってきたのは、この子たちが温泉から戻ってきてから五分ほどしか経っていない。犯行に使える時間はそれだけだ。それじゃあ犯行は不可能だろう」


 マキさんのスマートフォンに検視画像を表示させ、ヨシタカさんが反論する。

 それを聞いたリカコさんはほっと表情を緩めたが、ユウジさんは態度を変えなかった。


「五分もあれば余裕だろうが。殴るだけなんだぞ」

「違う。それだけじゃない」

「何だと……?」

「思い出せよ、ユウジ。

「あ……」


 その状態を撮影した画像をかざすヨシタカさんの意図いとを理解したか、ユウジさんはようやくこわった顔から力を抜いた。

 ……で、どういうこと?

 そう思ってリリを見る。しかしリリはわからないと言いたげに肩をすくめただけだった。いや、わかっているけど話すのが面倒くさいという感じか。

 疑いがかかるかもしれないんだから、もうちょっと真剣になってもらいたいんだけど……眠いのかな。


「管理人さん」

「はい」


 こちらのやりとりに関係なく、ヨシタカさんの話は続く。


「トウカが着ていた浴衣はあなたがたが用意したものですよね?」

「そうです。脱衣場に置いてあるもので、どなたでもご利用いただけるようになっています」


 五十里さんが答えると、ヨシタカさんはくるりとユウジさんに振り向いた。


「つまり、彼女らが温泉を出てすぐに浴室に入り、トウカを殴って浴衣を着せて、柱のところまで運ばなければならない。それをリカコの細腕ほそうでで五分以内にできると思うか?」

「……無理だろうな。しかし、トウカが自分で浴衣を着ていたとしたら?」

「この二人が出るとき、トウカはもう少しいると言ったそうじゃないか。それをひるがえして温泉から上がり、浴衣を着ているところを襲われたというのか?」

「それは……」

「もしそうなら犯行現場は脱衣場になるが、脱衣場に血痕けっこんはなかった。致命傷になるだけの傷を負わせるために何度も殴ったら、普通はあちこちに血が飛び散るものだ。それを一目でわからないくらいに拭き取る作業が追加されたら、絶対に五分以上必要だ。そうだろう?」

「…………」


 ヨシタカさんの推理に反論できず、ユウジさんは再び黙ってしまった。


「一つええか?」


 話が途切れたところでマキさんが手を挙げ、一斉に視線を集めた彼女は続ける。


「殴られたとき、トウカは浴衣を着てへんかったと思う。傷の大きさに対して浴衣についた血が少なすぎる。多分……裸のときに殴られて、ある程度出血したあとに浴衣を着せられたんやないかな」

「何のために?」

「知らんがな。犯人に訊いてや」

「だから。


 言って、ユウジさんはマキさんをぐっとにらみつけた。

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