第7話

 響き渡った悲鳴にいち早く反応したのはユウジさんだった。椅子をたおすように勢いよく立ち上がると、走ってダイニングを出て行った。それに一歩遅れてヨシタカさん、マキさんが走り出し、私とリリ、梁川やながわさん、五十里いかりさんと続く。

 リカコさんが向かったのは大浴場なので、ダイニングがある東棟からエントランスホールを突っ切って西棟の開け放されたドアをくぐり、廊下を走って大浴場の暖簾のれんを跳ね上げる。

 脱衣場と浴室をへだてるすりガラスの引き戸が開いていて、もくもくと湯気が脱衣場に漏れ出ていた。


「おい、今の悲鳴は何だ? 何かあったのか?」


 引き戸の前で腰を抜かしたように座りこんでいたリカコさんに駆け寄り、ユウジさんが問いかける。しかし、リカコさんはまゆを寄せて震えるだけで言葉を発することはなかった。ただ、浴室のほうを指すだけ。

 その指が向けられたほうに目をやると――


「ひっ⁉」


 隣にいた梁川さんがしゃくりあげるような短い悲鳴を上げた。

 いや、それは遅れてやってきた弥生やよいさん……あるいは私の喉から漏れたものかもしれない。

 そんなこともわからなくなるくらい、目の前にあるものはしつだったのだ。


「…………」


 無意識にリリの手を取って、ぎゅっと握る。

 汗をかくほど熱い湯気にさらされているのに顔から血の気が引いてかんに震え、喉が干上がる。

 なんだこれは。何が起きたんだ。

 そんな疑問が高速で頭の中をめぐる。

 だが、その疑問の答えはまったく出てこない。


「ミコ、痛いよ」

「……?」


 リリの声と、腕を叩く衝撃でハッと我に返る。

 いつの間にかリリの手を力いっぱい握っていたらしい。慌てて離す。

 するとリリは私に抱き着いてきて、背中をぽんぽんと優しく叩いて「大丈夫だよ」と笑みを見せた。それだけで硬直していた意識が動き出す。


「…………」


 改めて浴室に目をやる。

 湯気が少し晴れて、正面の大理石っぽい柱がはっきりと見えた。その根元に、リカコさんが様子を見に行った相手の女性ひと――トウカさんが浴衣に通した手足を投げ出すように座っていた。濡れた長い黒髪を顔や肩、胸に貼り付け、糸の切れたあやつり人形のように首を横に曲げて、不吉な赤に顔の半分が塗りつぶされ、どこでもないくうを見つめる瞳を見開いて。


「……もう死んでる」


 マキさんがそう呟くのを聞くと、なぜか「そりゃそうだ」と思ってしまった。こんな状態の人間が無事だとは到底思えないから。


「警察を呼んでください! 早く!」


 ヨシタカさんが浴室に入ろうとするユウジさんを羽交はがめにしながら叫ぶ。

 その声に五十里さんと弥生さんが反応し、慌てて脱衣場を出て行った。


「マキ! 戸を閉めろ!」


 ヨシタカさんの鋭い声で、マキさんは急いで引き戸を閉めた。浴室から流れていた湯気が途絶とだえるとともに、びた鉄のようなにおいも閉ざされ、トウカさんの姿も見えなくなった。

 同時に、ユウジさんの体から力が抜けて、床に倒れ込む。


「ユウジ。気持ちはわかるが、ここはそっとしておくんだ。いいな?」

「あ……ああ」


 抵抗する気力もなくしたか、ユウジさんはヨシタカさんに連れられて脱衣場を出て行った。


「僕たちも出よう」


 そう言ってリリは私と梁川さんの手を取って、そのあとに続いた。



 リビングのほうが暖炉があって暖かいのだが、なんとなく大浴場から少しでも離れたいという意識があるのか、みんな当たり前のようにダイニングへ戻ってきた。夕食時の席順で席に着き、警察へ連絡している五十里さんの帰りを待つ。

 先ほど見た光景はなんだか酷く現実感が薄い。夢か、テレビの向こうの出来事のような感覚だった。

 しかし、トウカさんの席に用意された食器類がそのまま残されているのを見ると、否応いやおうなしに現実だったんだと自覚せざるを得ない。恐ろしい姿で発見された彼女がその席に着くことはない、と。

 ……早く警察が来てくれないかな。

 警察が来てくれれば、それで安心できるから。

 そう、思っていたのに。


 


 道路が雪崩なだれで通れなくなったというのだ。

 五十里さんのその報告で、いっそう場の空気が重くなった。

 しかたがないだろう。

 だって、あれはどう見ても事故じゃなく――


「誰だ……?」


 地の底から湧き上がるような、ユウジさんの低い声の誰何すいかに、全員が息をのむ。

 その問いの意味は、おそらく全員が理解しているのだろう。

 だからこそ、答えられずにいるのだ。

 ――ユウジさんは続ける。

 より明確めいかく意図いとをもって。


「誰がトウカを殺した……?」


 勘違いの余地もない、直接的な問い。

 私たちを見回すユウジさんの目がばしっている。その迫力に弥生さんと梁川さんが小さく悲鳴を上げた。私だってそうなりそうだった。リリが手をつないでそばにいてくれなければ。

 リリは、鬼気きき迫るユウジさんににらまれても平然と……いや、少し眠そうな半眼はんがんをしていた。状況がわかっていないのだろうか。いや、リリに限ってそんなまさか。


「滅多なことを言うな。これが事故か誰かの故意か、わからないんだぞ」

「寝ぼけているのか、ヨシ? どう見ても事故じゃないだろうが」

「だから。事故かどうかは調べてみてから判断しようと言っているんだ」


 今にも掴みかかりそうな気配のユウジさんに、ヨシタカさんは至って冷静にそう言った。そしてマキさんのほうを向く。


「マキ、頼めるか?」

「いや、警察に任せたほうがええって」

「その警察が来られないんだ。ユウジが爆発する前に、頼む」

「……気は進まんけど……わかった」


 青い顔をしてうつむいていたマキさんはゆっくりと立ち上がって、弥生さんにナイロン手袋を用意するよう言ってから、五十里さんといっしょにダイニングを出て行った。


「何をする気なんです?」


 梁川さんが恐る恐るたずねた。家主としてそれを知っておく必要がある、と思ったのだろう。

 ヨシタカさんは話していいものかどうかを少し迷うような仕草でけんにシワを寄せ、やがて小声で言った。


「トウカの死因を調べるんだ」

「ああ、みなさん医学部だから……」

「それもあるけど、マキは父が法医学者で同じ道を目指しているから、けんに関する知識が俺たちよりずっと多いんだ」


 なるほど。それで事故かそうでないかがわかれば、ユウジさんも落ち着いてくれるだろうというわけか。

 まあ、今のユウジさんが素直にマキさんの話を信じるかどうかはわからないし、となると余計に冷静でいられなくなりそうだけど。ユウジさんのトウカさんに対する反応は少し異常な気もするし。

 ……あ、ひょっとして……。


「あの、ヨシタカさんちょっと訊いても?」

「何?」

「ユウジさんとトウカさん、恋人同士だったりします?」

「…………」


 沈黙。

 だが、そのでそれが事実だとまるわかりだった。

 そういうことならユウジさんの激しい反応も理解できる。


「ミコ、むやみに首を突っ込むような真似はしないほうがいい。目立つことはせず、大人しくしていてくれ」


 眠そうにしていたリリが私にもたれかかるようにしながら上目遣いで言う。そんな顔でそんなふうに言われたら引っ込むしかないじゃないか。


「わかった。リリの言うとおりにする」

「うん。こういうのは警察に任せるのが一番いいんだ」


 きゅっと私の手を握って、リリは小さく笑った。


「…………」


 そんな私たちを梁川さんがじっとにらんでいることに気づいていたが、私は何も言わず黙っていた。

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