第6話

 温泉につかって十分に温まり、心行くまで楽しんだのでそろそろ出ようかとリリに告げる。リリは少しのぼせ気味の赤い顔でこくりとうなずいた。

 トウカさんはもう少し入っているからと言うので、彼女を残して大浴場を出る。リカコさんが言ったとおり本当に温泉が好きなようだ。ふやけたりのぼせたりしないのだろうか。

 脱衣場には浴衣が置かれていたが、この洋館で和装というのもなんだかおかしな気がしたので自前の服を着た。それからリリの髪をドライヤーで乾かしてやり、私の髪を乾かしてもらって、ありがとうのキスをする。トウカさんがいたから思うようにリリといちゃいちゃできないのでモヤっとしていたが、その一回で一気に解消された。知っていたことながら、やはりお風呂上がりでいい匂いのするリリの可愛さはメジャー級だ。

 リビングに戻ると、ソファにユウジさんとヨシタカさんがいて、五十里いかりさんとなにやら話し込んでいた。その顔つきが真剣だったので、何か問題でも起きたのかと思った。


「何かあった?」


 先ほどと変わらず暖炉の前の椅子にいた梁川やながわさんに訊く。手にしていた雑誌を閉じて膝に置くと、窓のほうを向いて一言。


「手配したレッカーが天候の悪化で今日は無理だと連絡があったのよ。だから一晩泊めてほしいと」

「あー……」


 やっぱりそうなったか。私たちがゲレンデ行きを中止してから三十分くらいして降り始めた雪は、今や大降りだ。風も少し出てきている。弥生やよいさんの予想通り、吹雪ふぶきになる予感しかしない。


「どうするの?」

、放り出すわけにもいかないでしょう」

「ですよね……」


 つまらないことを訊いてしまった。

 梁川さんの父や祖父は政治家である。りょに欠けた言動で要らぬ悪評を立てられるようなことはしないほうがいいだろう。それは娘である梁川さんも理解している。……というか『例の件』で自覚せざるを得なくなったというべきか。

 つくづく親が平凡な家庭の生まれでよかったと思いつつ、ぽけーっと突っ立っているリリを抱き寄せてその頭を撫でた。


「そういえばリカコさんとマキさんがいないけど……」

「リカコさんはスマホを探しに行って、まだ……いえ、戻ってきたみたいね」


 ドアを開ける音に梁川さんが振り返ると、無事スマートフォンが見つかったらしく満面の笑みを浮かべたリカコさんがリビングに入ってきた。心なしか顔がツヤツヤしているようにも見える。


「助かったわー。マキ、ありがとー……って、どっか行った?」


 部屋をキョロキョロ見回し、リカコさんはそう呟きながらユウジさんの向かいに座った。


「マキなら車に置き忘れた荷物を取りに行ってくると言って、さっき出て行ったぞ」

「マジで? 雪降ってんでしょ?」

「ああ。ヨシがついていくと言ったけど、大丈夫だからって、一人で」

「ふうん……」


 特に心配している様子でもなく、リカコさんはテーブルのお茶(さっきとは違うカップだ)を飲んでスマートフォンを操作し始めた。それにしても、この人は誰のカップでも関係なく飲むのか。奔放ほんぽうだなぁ。


「みなさま、そろそろ夕食のお時間となりますが……」


 弥生さんがやってきて、ていねいにお辞儀しながらそう告げる。

 リカコさんが「おなか空いてたんだー」と真っ先に立ち上がり、男性陣二人に早く行こうよと鼻にかかった声で急かした。

 しかし、マキさんが戻るまで待ってやれとヨシタカさんに返され、少しばかり機嫌が悪くなった。あからさまに聞こえる「これだから地味メガネは……」という独り言テイストの文句が途切れることなく続く。本人に聞かれたらどうしよう、なんてことは考えていないらしい。

 ともかく、彼らの決定で夕食はマキさんが戻るのを待つということになった。正直、家主や私たちの意見も聞かずに決められたのはどうかと思わなくもないが、ここで反論したところで意味がないし、全員揃わないままに食事を始めるのもなんだか居心地が悪いので黙っておいた。

 ここはその不満を、リリをなでなですることで解消しておこう。

 いやしかし、本当に可愛いなぁ、リリは。永遠になでなでしていても飽きる気がしない。

 ……あ。こういうことをしているからトウカさんに付き合ってることがバレたのか? 気をつけないと。

 でも……やめられない。

 だって、可愛いんですもの。わかってー。



 それから二十分ほど経って、頭や肩に雪を乗せたマキさんが戻ってきた。ユウジさんたちと一言二言ひとことふたこと交わし、上着のポケットから手のひらサイズの小さな箱とひものようなものを取り出してソファに置いた。モバイルバッテリーとスマートフォンの充電用ケーブルらしい。ずっとスマートフォンを使っていたのでバッテリーが切れて、それで必要になったのだろう。

 マキさんは小走りに暖炉に駆け寄ってくると、震えながら炎に手をかざした。


「ウチを待っててくれたんやって? ほんまに申し訳ない。突然押しかけて、ごはんと部屋まで用意してもろて。君は命の恩人やね。このお礼は後日必ずさせてもらうから。ありがとうな」

「いえ、そんな」


 マキさんの心のこもった礼の言葉に、梁川さんは顔を赤くしながらうつむいた。真正面からの純粋なしゃに照れているらしい。女王様らしくない一面を見てしまった。帰ったら小波渡こばとさんにチクってやろうと思う。


「そういうのは感心しないなぁ」


 私の心の中を読んで、リリは呆れたように呟いた。

 冗談だよ。そんなことしないって。


「では、ダイニングまでお越しください」


 そう告げた弥生さんの案内でダイニングに移動する。

 部屋の中央には長テーブルが一つと、それをはさんで向かい合うように六脚ずつ置かれた計十二脚の椅子。テーブルには真っ白なクロスがかかっていて、金色の燭台しょくだいと色鮮やかな花を活けた花瓶が置かれている。壁の飾りにたいしたスピーカーからは静かにクラシック音楽が流れて、まるで映画やドラマに出てくる上流階級の晩餐会ばんさんかいに紛れ込んでしまったかのような気分だ。昼食のときはテーブルとクロスだけだったので、ここが同じ部屋なのかと目を疑いたくなるほど雰囲気が違っていた。

 テーブルにはカトラリーとネームプレートが置かれていて、右側奥の席に梁川さん、その隣がリリ、次いで私となっていた。大学生の五人は私たちの向かい側になる。ユウジさん、トウカさん、ヨシタカさん、リカコさん、マキさん、の順だ。

 テーブルの短辺の席、いわゆる『館の主人の席』はなく、椅子自体が置かれていない。梁川さんがそこに着いて偉そうにふんぞり返ると思っていたのに、期待外れもはなはだしい。


「そういえばトウカさんがまだみたいだけど、待ちましょうか」


 梁川さんが言うと、リカコさんが「いいよ、ほっときなよ」と手を振った。


「そのうち出てくるだろうから、先にあたしらで食べようよ。ねぇ?」

「……そうだな。いつものことだし。始めていただいてもいいですか?」


 リカコさんに同意して、ヨシタカさんはうなずいた。その言葉を受けて五十里さんが家主にくばせすると、始めなさいと合図を返した。

 マキさんは待つのにトウカさんは放置か……まあ、それが彼らの『普段』なのだろうと思っておく。

 トウカさんを除く全員が席に着いたところで、五十里さんと弥生さんが前菜の皿を運んできた。名前もわからない料理だが、盛り付けがすごく綺麗で芸術品みたいだ。

 初めてこういう席に着くのでテーブルマナーがよくわからず、リリに教えてもらいながら普段使わないフォークとナイフにちょっぴり苦労しつつ前菜を一口。


(うわ、すごく美味おいしい……)


 未経験の美味びみに思わず口元がほころぶ。

 昼食のときも感じたことだが、調理を担当しているという弥生さんと五十里さんの奥さんの腕前は一級品だ。私の好みを知っているはずもないのに、何を食べても好きな味で、美味しくて手が止まらなくなる。毎日こんな料理が好きなだけ出てきたら食べ過ぎてしまい、一週間もしないうちに体重が倍になることけ合いだ。今日はコース形式なので一人当たりの量は決められているからそうはならないものの、なんという危険な料理だろうか。

 梁川さんはいつもこんな美味しいものを食べているのか……うらやましい。


「今日は特別にあなたたちを招待したから特別なものを用意しただけよ。毎日こんな豪華なものを食べているわけではないわ」


 あとでそう言われたけど、本当かどうかはわからない。彼女と私との『豪華』の基準が違うだろうから確かめようがないし。

 そうして、絶品料理を十分楽しんだ夕食はとどこおりなく済んだ。リリも食後のデザートとコーヒーをいただくころにはすっかり満足した表情で、来てよかったと呟いた。それを耳にした梁川さんの嬉しそうな顔ときたら……今まで私の中にあった『傲慢ごうまんな女王様』という彼女のイメージを変えなければいけないかもしれない、そう思わされる可愛らしさだった。

 もちろん、美味しいデザートにご満悦まんえつなリリの笑顔に比べたら大したことないけれど。

 

 これは天地開闢てんちかいびゃく以来変わらない真実だ。


「……それにしても、トウカは遅すぎないか?」


 なごやかな雰囲気から一転、ユウジさんが不安げに呟いた。確かに、夕食が始まってかなり経っているのに、いまだ姿を現さないのはおかしい。彼女が大浴場に行ってから二時間以上過ぎているのだ。いくら温泉好きと言っても限度がある。


「リカコ、ちょっと見てきてくれないか?」

「ん。わかった」


 ユウジさんに言われて席を立ち、ダイニングを出て行く。

 それからしばらく、クラシックの調べが部屋を満たし――


「きゃあああああああああああああああッ!」


 屋敷中に響き渡る、リカコさんの悲鳴がおごそかな旋律を切り裂いた。

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