第1話

 ――それは冬休み前から始まっていた――



 二学期の期末試験の最終科目が終わった、その休み時間。

 私――那須野なすの深瑚みこは、長かったテスト期間が終わった開放感とその結果への不安を半々に味わいながら大きく伸びをした。


「お疲れ、ミコ。どんな感じ?」


 私の前の席が空くと、いつものようにリリ――神前かんざき璃々那りりながやってきて私の机に伏せながら言った。

 こちらもいつものようにリリのさらさらぽわぽわの黒髪ショートボブの頭をで、私は深いため息をつく。


「微妙なとこ。赤点はないと思うけど……」

「勉強会の効果は薄かったか……まあ、


 私に負けず劣らず大きなため息をついて、リリは苦笑した。

 テスト前の一週間、私は放課後にこの教室でリリに勉強を教えてもらっていた。さすが学年トップクラスの成績を誇るリリの解説は、正直なところ教師よりわかりやすく、下から数えたほうが早いという成績の私でもすらすらと問題が解けて、一週間であっさりと全教科の試験範囲の課題をクリアできたのだ。予定していた時間より早く勉強が終わった日は、ごほうびとしてリリといちゃいちゃするくらいの余裕もあった。

 そうして本番を迎え――問題用紙を前にして、勉強の成果をはっしようと記憶を掘り起こした。

 するとどういうわけか、覚えたはずの勉強内容がまるで浮かんでこず、リリとのキスや甘い言葉のやり取りばかりが思い起こされてしまうのだ。勉強したことがエベレストの頂上辺りまですっ飛んで行ったような感覚だった。

 焦りのあまり頭の中が真っ白になり、なかばパニック状態になりながらも解答欄をなんとか埋めた――まではいいが、自分で何を書いたのかも覚えていない有様ありさまだ。

 そんな状態での正答率など期待できようはずもないわけで。

 それが私の期末テストの成績が危機的状況にあるかもしれない理由である。


「そうなるよねって……わかってたなら、なんでいちゃいちゃしてくれたの?」

「ミコがしたいって言ったから。僕は期末テストが終わるまで我慢したほうがいいって何度も言ったはずだよ?」

「はい。そうでした。私ってほんと馬鹿……」


 完全なる自業自得に頭を抱える。


「ねぇ、リリ」

「ん?」

「私が赤点取って落第したら、いっしょにもう一回二年生やってくれる?」

「僕はすでに進級要件を満たしてる。ムリだな。いまさら落第できるわけない」

「この優等生め!」


 ぺしぺしとショートボブの頭を叩く。その感触が心地良くて、気づけば『叩き』から『なでなで』に変わってしまっていた。いつの間に……リリ、恐ろしい子……。


「そもそも、基本的に赤点を取っても合格点に達するまで補習や追試をしてくれるし、毎日学校に来て授業を受けているミコが留年するなんてありえないよ。何らかの理由で出席日数が全然足りていないなんてことがない限り、中学校ぎむきょういくで留年するほうが難しくないかな?」

「うん。知ってる。言ってみただけだから」


 私立中学とはいえ、義務教育ではない高校と違って留年するというのはあまり現実感がない。ちょっとばかり悲劇のヒロイン的な演技をしただけだ。


「まあ、その補習や追試で冬休みがなくなる可能性はあるけど」

「……リリ、赤点にならないように一緒に祈ってくださいお願いします」

「祈る時間があるなら、追試でいい点が取れるように勉強することをオススメするけどね、僕は」

「うぐ……」


 泣きながらすがる私を正論で叩きのめし、リリはくすくすと笑った。


「神前。ちょっといい?」


 ……と、そこにやってきた人影に視線を上げる。

 二年A組のボス的存在、スクールカースト最上位グループのトップに君臨する梁川やながわさんだった。代々政治家を輩出はいしゅつする家系のご令嬢れいじょうで、見た目も成績も運動もトップクラスという人だが、いわゆる『良家イイトコのお嬢様ジョーサマ』にありがちな女王様気質で人を見下す傾向にある。

 特に彼女と同じように運動も勉強もトップクラスにいるリリを敵対視していて、何かにつけて対抗し、マウントを取ろうとしてくるなんな人だ。

 ただ、リリはまったく気にせず相手にしていないのでいつも空振りしている。


「何か用かい、梁川さん」


 机に置いた両腕を枕にしてあくびをしつつ、リリは眠そうな目で女王様を横目で見上げた。その気だるげで面倒くさそうな態度に梁川さんが一瞬表情を引きつらせたが、すぐに小さく息をついて真顔に戻した。

 特に張り合うようなことが起きていないのにこうして話しかけてくることは非常に珍しいし、反抗的なリリに文句の一つも言わないのは初めてではなかろうか。

 そんな女王様の奇妙な行動を興味深く見ていると、彼女は覚悟を決めたようにリリを見つめて言った。


「冬休みに入って初めの土日、予定は空いているかしら? よければ別荘に招待したいのだけど」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「……え?」


 あまりにも予想外の質問だったらしく、リリはしばらく言葉を返せずにただ梁川さんを見つめ、やっとのことで間の抜けた声を上げた。

 私も同じで、梁川さんが何を言っているのかまるで理解できなかった。

 さらに梁川さんも私たちの反応が意外だったようで、しばらくキョトンとしたあとに少し語気を強めて繰り返す。


「だから。あなたをうちの別荘に招待したいと言っているの」

「……理由を訊いても?」

「借りを作っておくのは嫌だからよ」

「……?」


 さすがのリリも意味がわからないとばかりにまゆを寄せ、体を起こして私を見た。むろん私にも意味がわからないので、何も言えることはなかった。


「君に貸しなんてあったかな?」

よ」


 少し苛立ったように短く言って、梁川さんは「察しろ」とばかりににらんできた。

 彼女の言う『例の件』というのは、以前クラスで起きた貴重品盗難事件のことなのだろう。公式には未解決ということになっているのだが、騒動の発端ほったんであり当事者である梁川さんはリリの尽力で大事おおごとにならず解決したことを知っている。

 それに関して少なからず責任を感じているから『借り』という表現になっているのかもしれない。


「あれは僕のを話しただけと言ったはずだよ。君に貸しも借りもない」

「それじゃあ私の気が済まないのよ」


 その気持ちを理解しているのかいないのか、リリは面倒くさそうに返した。口調からすると本当に気にしていないという感じだが、梁川さんはそれが気に召さないようだ。机に両手をついて、身を乗り出しながらリリをさらに睨みつける。頼み事をする態度ではない……と言いたいところだが、口を挟むと面倒なことになりそうなので黙っておく。

 思い起こすと、確かにあの件で梁川さんは直接の関係者に頭を下げたが、事件を解明したリリには何も言っていない。

 それはそうだ。普段から敵対心を燃やしている相手に頭を下げるなんて、彼女のプライドが許すはずがないのだから。

 しかし、『借り』だという意識がプライドに勝って、それを返さなければと思ったらしい。リリも気にしていないし、女王様なんだから気にせず無視すればいいのに……こういうところはりちというか真面目というか。だからこそ人がついてくるのかもしれないけど。


「つまり、梁川さんはリリにあの件のお礼をしたいと?」

「さっきからそう言ってるでしょ? 那須野あなたは本当に理解が遅いわね。近所の犬と取っ組み合いのケンカでもしていればいいわ」


 キレながら嫌味を言われた。

 いや、理解も何も、梁川さんの口から一言も『お礼』という単語が出ていないのですが。


「それで、どうなの?」

「お誘いはありがたいけれど、遠慮しておくよ。興味がない」

「ふぅん。この私の招待を断るなんて、いい度胸してるわね」


 そんな憎まれ口を、

 どれだけリリを誘いたいんだこの人は。

 そんなふうにあきれる私を彼女はじっと見つめ、「なんとかしなさいよ」と声を出さずに命令した。

 私、あなたの手下でもなければ梁川グループの人間でもないんだけど……。


「梁川さんの別荘って、どんなところ?」


 無視するとなんとなく面倒なことになりそうな気がして、しかたなく興味を持ったようによそおって訊いてみる。リリの気を引く情報を聞き出せば行く気にできるかもしれない。

 梁川さんも私のこうんで、嬉々ききとして説明を始めた。


「自然に囲まれたいいところよ。近くにゲレンデがあるし、別荘に温泉を引いてあるわ。どちらも楽しめるわよ」

「ゲレンデってことは、スキーとかスノボができるの?」

「当然。梁川家うちの所有だから好きに使えるわ。もちろん用具も全部揃えてあるから、手ぶらで行っても問題ないのよ」


 自慢げに言って、梁川さんは目を細めて口の端を上げた。誇らしいのはわかるが、その表情は嫌味に見えるのでやめたほうがいいんじゃないかなと思ったりする。


「リリはスキーやスノボはやったことある?」

「んー……スノボは小学生くらいから毎年シーズンになると家族で行っているから、人並みに」

「ほんと? 私はやったことないんだよね。教えてよ」


 だから一緒に行こうよ、と言外の意図いとを視線に乗せてリリを見つめる。


「んー……」


 リリは難しい顔をして黙り込んだ。

 あからさまに『面倒くさい』と思っているが、私が行きたいと言うのでどうしようか迷っているといったところだろう。

 もう一押し。


「温泉もあるんだって。一緒に入ろ?」

「……わかったよ。ミコが来るなら行くよ」


 私のアタックにされ、リリはしかたなしとうなずいた。

 その途端、梁川さんの瞳がキラリと輝く。


「初めからそう言っておけばよかったのよ。まあいいわ、詳細はまた知らせるから楽しみにしておきなさい」


 いつもの調子を取り戻し、高笑いを上げそうな勢いでそう言うと、ぽちぽちとスマートフォンを操作し始めた。

 それを制するようにリリが一言、ぴしゃりと付け加える。


「ただし、親の許可が出たらの話だよ」

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