可愛いリリが雪山別荘で頑張る理由

南村知深

第0話

 ほとんど無意識だった。

 リリが表情を少しゆがめて「痛い」と私の腕を叩くまで、自分がリリの手を力いっぱい握り締めていることに気づかなかった。


「ミコ、大丈夫だよ。落ち着いて」

「う……うん……」


 私より背の低いリリがこちらをじっと見上げながら小さく笑みを浮かべた。そしていた手で私を抱き寄せ、背中をぽんぽんと優しく叩く。


「目を閉じて。ゆっくり息を吐いて」


 お風呂あがりの匂いのするリリは静かに語りかけるようにそう繰り返し、私の手から力が抜けるまでずっと背中をさすってくれた。

 おかげで気分が少し落ち着いて、呼吸することを忘れていた肺がゆっくり動き出した。


「ありがと、リリ。もう大丈夫。……ごめんね、痛かったよね。ごめん」

「平気。しかたないよ。を見て、ミコのような反応にならないほうがどうかしているんだ」


 きゅっと表情を引き締め、リリはくるりと振り向いた。

 その視線の先には、豊富な湯量の温泉が湧き立たせる湯気に満ちた大浴場がある。室内ながら露天風呂のような石造りで、浴槽よくそうは二十人くらい入浴しても余るほどの広さだ。さすがは梁川やながわ家が所有する別荘だけある。

 その大きな浴槽の手前、洗い場の真ん中にある大理石っぽい柱の根元に、浴衣姿の女性が手足を投げ出して背を柱に預けるような格好で座っていた。濡れた長い黒髪を頬や肩口に貼り付け、力なくかしいだ頭を肩に乗せ、くうを見るような焦点の合わない目がぎょろりと見開かれている。

 それと――白い顔の半分ほどを染める『赤』。

 それが血であることは、強烈で不吉な色彩いろと湯気に混じる鉄のようなにおいで嫌というほど理解させられてしまう。


「……


 浴衣の女性を近くで観察しながら脈拍みゃくはくをとっていた、パーカーにスウェットパンツ姿の女性が悲痛なおもちでそう呟き、ゆるゆると首を振った。


「冗談だろ……? そうだよな……?」


 信じられないとばかりにこわった笑みを貼り付けながら、茶色の短髪の男性が脱衣場から浴場に向かって歩き出す。それを慌てて止める黒髪の男性。茶髪の男性を引き戻すと、私のほうを向いて怒鳴った。


「警察を呼んでください! 早く!」


 時間が止まったかのような状況を叩き起こす大きな一声ひとこえに、その場にいた全員がハッと我に返る。

 警察。そうだ、警察だ。

 私がそう思ったとき、後ろにいた別荘の管理人さんが「わかりました……!」と慌てて脱衣場を飛び出して行った。それに続いて、メイド服姿の給仕係も駆け出した。

 私たちはどうすれば……とリリを見る。


「僕らもここから出よう。あんなのをじっと見るものじゃない」

「う、うん……」


 うなずくと、リリはつないでいた私の手を引いて出口に向いた。


「梁川さんも。ほら」

「…………」


 私と同じく愕然がくぜんとしていた梁川さんの手を取って、三人で脱衣場をあとにした。



 夕食をとっていたダイニングのテーブルに戻り、私、リリ、梁川さんと並んで座る。給仕のメイドさんが温かいお茶を入れてくれたのを飲むと、少しだけ落ち着いた。

 テーブルの向かいには頭を抱えてうつむく茶髪の男性、無言で手元をじっと見つめる黒髪の男性、両手でお茶のカップを包むようにして震える派手なメイクの金髪女性、けんにシワを寄せて考え事をしているらしいパーカーの女性の四人がいる。浴場でざんな姿になっていたのはこの人たちの仲間の一人だ。


「……大変なことになったわね……」


 ぽつりと梁川さんが呟く。こわは普段と変わりないが、テーブルの上で組んだ手や肩が小さく震えていた。スクールカースト最上位グループのボス的存在である彼女でも、さすがにこんな状況では平静へいせいでいられるわけもない。

 まして、この別荘のオーナーは彼女の祖父だ。家族が所有する別荘でこんなことが起きたのだから、内心の動揺は私たち以上だろう。


「大丈夫だよ、梁川さん。警察が来れば心配ないよ」

「そうね……神前かんざきの言うとおりよね……」


 リリの言葉に強張った表情を少しだけ緩め、梁川さんは長く息をついた。

 普段から女王様然とした態度で多くの取り巻きを引き連れている彼女も、やはり中身は私と同じ中学二年の女子なのだ。何かにつけて敵視しているリリの励ますような一言を素直に受け取ってしまったことでそう思わされる。

 むしろ、こんな状況で平静を保っているリリが異常に見えてしまう。いや、むやみに取り乱したりせず、冷静でいてくれたほうが頼りになるからいいんだけども。


「…………」


 静まり返ったダイニングに、ガタン、と窓が鳴る音が響いた。

 反射的にそちらに目をやると、真っ暗な夜を背負ったガラスに映る自分と目が合った。なんとなく椅子から立ち上がり、窓際まどぎわに歩み寄る。

 窓の外はかなりの荒天こうてんだった。ひゅう、びゅう、と風が鋭い音をたてながら、黒い舞台に白い雪をでたらめに舞い上げて、凍えるような冷たい踊りを強制していた。昼ごろから降り続いていた雪が吹雪ふぶきに変わりつつあるらしい。


 ……嫌な予感がする。


 暗い外を見ていると不安がどんどん大きくなりそうな気がして、いそいそと席に戻ってリリの手を取る。その手をそっと握り返して、リリは小さく微笑んだ。

 小さい手なのにすごく温かい。それだけで不安も怖さも薄れていくようだった。


「ねぇ、リリ」

「ん?」


 声をひそめて呼びかけると、リリはもたれかかるように体を寄せて私の口元に耳を近づけた。ショートボブの髪からいつものリリの匂いがして、こんなときなのにキュンと胸が鳴ってしまった。言いかけた言葉が喉につかえてしまう。

 それを出すためと、今すぐにでもキスしたい衝動しょうどうを抑えるために、大きく深呼吸する。

 吸い込んだ空気には目一杯のリリの香りが含まれていて、まずいことに衝動が増加した。

 これはいけないと息を止めて我慢するも、苦しくなって思わず空気を吸い込む。

 もちろんそれにもリリの香り。

 衝動、倍プッシュ。

 圧倒的あっとうてき悪循環あくじゅんかん……っ! でも幸せ……っ!


「何してるのよ……? 那須野なすの


 梁川さんの呆れたようなツッコミで我に返る。

 そうだ、コントをやっている場合ではなかった。

 なんでもないよ、と返し、リリの耳元で疑問をささやく。


「リリ、ひょっとしてなんだけど……お風呂のあれ、……?」

「僕はなんとも言えない。言わないほうがいい」


 いやにきっぱりとした返答をして、リリは首を振った。


「どうして?」

何事なにごとにもというものがあってね……」

「お嬢様……!」


 リリの言葉をさえぎって、血相けっそうを変えた管理人さんが駆け込んできた。

 お嬢様やながわさんはじかれたように立ち上がり、息を切らす管理人さんに駆け寄る。


「どうしたの、警察へ連絡は?」

「それが……」


 ふうふうと何度か肩を上下させて息を整えると、管理人さんは言った。


「この吹雪のせいで、この別荘に続く一本道の途中にあるトンネルのところで雪崩なだれが起きて、通れなくなっているそうなんです……!」

「ええっ⁉ それじゃあ……」

「はい。この吹雪がやんで道路をふさぐ雪を除去するまで、警察は来られないと……」

「そんな……」


 絶望的な報告で、梁川さんはその場に膝からくず折れてうずくまった。

 その様子を見ていた全員が沈黙し、しんと部屋が静まり返る。

 これは……本当にとんでもないことになってしまった。

 そう思いながらリリを見る――と。


「お約束を口に出すと、こんなふうに『雪山山荘クローズドサークル』のフラグが立つんだよ……」


 そう呟いて、心底面倒だと言いたげな顔をしていた。

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