七話 月嶺

 真南風まはえ与那原親雲上よなばるペーチン阿国おくに、水夫の四人を乗せて八重山を発った山原やんばる船は、北東の琉球を目指して海を駆けていた。


 変わり映えのない水平線の景色が続いている。跳ねた海魚をクロサギがさらう光景や、潮の匂いを帯びた風にもとっくに飽きてしまった。


 二日目までは風向きや潮流、星の確認などで忙しなく働いていた水夫も、あまりの安定ぶりにすっかり気を緩め、三日目以降は船尾に腰を下ろす時間が増えた。


「八重山の神女ノロはここまで優秀なのか。これほど穏やかな航海は初めてだ。行きの際は波待ちでいくつか島を経由したというのに、このまま那覇に着いてしまうぞ」


 与那原親雲上が船の進行方向を見つめながら呟いた。前方に雲ひとつない。この速度で進めばあと二日ほどで琉球南部が見え始めるだろう。


 八重山を発つ際、長崎御嶽なーすくおんにて航海安全の祈願を行った。生死を賭して海を渡るこの時代では、祈願する神女ノロの力が重要になる。


「まるで神様が見守っているかのようね」


 阿国が冗談めかして笑う。与那原親雲上も「馬鹿なことを」と一笑に付したが、真南風はとても笑う気分にはなれない。女は楽童子がくどうじになれない、という話が頭から離れないからだ。新川村の年貢免除の約束はどうなるのだろう。踊りを認めてくれた与那原親雲上や阿国の顔に泥を塗ることにもなる。


 阿国はかいがいしく端座たんざする真南風を見兼ねて、代わりに尋ねた。


「与那原親雲上、そもそもなぜ楽童子は男じゃないとダメなんですか?」


「琉球では女の踊りは神に捧げるものだとされている。人に向けて踊れば不浄となり、神に捧げることができなくなる」


 彼の答えに、阿国は鼻息を荒くした。


「男女差別です。大和ではそんな決まりはないわ。優秀な踊り手が性別を理由に登用とようされないなんておかしいと思います」


「私の使命は世界に誇る琉球舞踊りゅうきゅうぶようを極限まで高めることだ。性別や身分に関係なく、実力があるなら使う。罪人だろうが構わない」


「なんだ、踊奉行おどりぶぎょう自らがそう言うなら問題ないですね」


「あくまで私の意見は、だ」


 そう言って振り返った与那原親雲上の顔は青ざめていた。寒気がするようで、両腕を交差して二の腕を擦っている。


「踊りのためなら何でもするが、こればかりは相手が悪過ぎる」


「踊奉行さまがそこまで恐れるなんて。相手とは国王さまですか?」


 真南風がおそるおそる尋ねた。


「王よりも遥かに厄介だ」


 与那原親雲上の答えに首を傾げる。琉球王国の最高位が王のはず。それより厄介な者などいるのだろうか。


「もしかして聞得大君きこえおおきみってやつ?」


 阿国がいたって軽い口調で言うや否や、与那原親雲上はバタバタと駆け寄り、阿国の口を手で塞いだ。船が左右に大きく揺れる。


馬鹿者フリムン、軽々しくその名を口にするな! どこで聞いておられるか分からんぞ!」


 与那原親雲上は首を振り、しきりに辺りを確認している。かなりの怯えようだ。


「こんな海のど真ん中で、誰が聞くと言うのです。怖がり過ぎですよ」


「大和の人間には分からんのだ! あの方のお心一つで王国中の神女に呪われるのだぞ」


「私だって巫女をやってましたし。生半可な呪いは跳ね返します。出雲大社いづもおおやしろって知りません? 大和じゃ有名なんですよ」


「知らん。聞いたこともない」


「それって何ですか? 聞得……、」


 与那原親雲上に眼光鋭く睨まれたので、真南風は慌てて自分の口を両手で押さえた。与那原親雲上が手招きし、三人で身を寄せ合って小さな輪を作る。彼は深呼吸をして、蚊の羽音ほどの小声で囁いた。


「今から言うことは一言一句漏らさず肝に命じておけ。琉球王国は政教一致せいきょういっちが大原則だ。政治を司る王府が表の車輪だとしたら、裏の車輪が神に仕える神女組織。両輪の大きさが等しく滞りなく回転することで国の運営が成り立っている」


「恐れ入りますが、八重山にも神女はおりました。でも彼女たちは蔵元のお役人さまの言うことを忠実に聞いていましたが……」


 真南風がちょこんと小さく挙手して発言した。与那原親雲上はため息をつき、首を横に振る。


「八重山は百年前に異教の地として王府から宗教弾圧を受けているだろう。琉球の神女とは別物だ」


 神女ノロとは、王国全土に点在している御嶽おんを守り、様々な祭儀を執り仕切る琉球式の巫女である。


 基本は世襲制で、代替わりの度に国王から任命証書を授与される。さながら国家公務員の扱いだが、決して王の権威をもって信仰が成り立っているのではない。実態は逆である。王府が国家運営のために神女組織を政治に取り込んだのだ。


 そもそも琉球人の核は御嶽信仰だ。まず御嶽があり、その周りに人が住み着くことで集落が形成される。必然的に御嶽を管理する神女が権力を持つ。王府が搾取するために後から用意した頭職かしらしょくよりよほど地域に根ざした存在だ。島人の全ての予定は宗教儀礼の日程から逆算して組まれる。集団から個人に至るまで選択決定の理由は神託や占いに拠るところが大きい。


 そして、それら神女を束ねるのが「聞得きこえ大君おおきみ」である。


「聞得大君は王の女系親族が選ばれる。つまり王族であると同時に神女組織の長なのだから、琉球の表裏を握っているも同然だ。かつては聞得大君の独断で王が決まったことすらあるという。しかも今代の聞得大君である月嶺げつれいは、琉球史上最高の霊力を持つとの噂だ。私も一度だけ拝謁はいえつを許されたことがあるが、あれは人ではない」


 与那原親雲上は言葉を切り、息を呑む。もう一度周囲を見渡し、ゆっくりと口を開いた。


「……あれは、神だ」




 ◇




 真南風たちが向かう那覇なはの港は今日も賑わっている。現地の琉球商人や海人うみんちゅはもちろん、対馬や博多の商人、海賊である倭寇わこうに加え、明人やポルトガル人なども盛んに出入りしていた。様々な人や品物が入り乱れ、盛況を極めている。


 十六世紀から十七世紀にかけて、アジア一帯で銀による一大交易ブームが巻き起こった。石見銀山で朝鮮伝来の精錬法が確立され、大和の銀が大量に造られた。

 さらに南アメリカでも銀山が拓かれ、大航海時代真っ只中のヨーロッパ勢が香辛料や絹を求めて多くの銀を明に持ち込んだ。


 明の公式通貨であった宝鈔ほうしょうの価値が著しく下落し、銀での取引が基本となった。その結果、いち早く銀を確保し、明の商品を流通させた者は莫大な富を築いた。

 琉球は明と朝貢貿易ちょうこうぼうえきによる専売ルートを確保しており、その窓口である那覇は流通網の最先端だった。この時代、那覇には王族や豪族に匹敵するほど裕福な海商が次々と生まれた。


 そんな金と欲望が渦巻く商都、那覇からおよそ三里ほど離れた台地に、首里城しゅりじょうはひっそりと佇んでいる。


 城内には十の御嶽があり、うち重要な四つが「けいうち」と呼ばれる森の中にある。大和の一般的な城であれば城内に森などあり得ないが、これも琉球が政教一致たる所以である。

 琉球の城は御嶽おん拝所うがんじゅを中心として建設される。つまり本質は軍事施設ではなく神殿なのだ。


 広葉樹が生い茂る京の内を、一人の女性が歩いている。


 その姿はため息が出るほど美しい。汚れ一つない下ろしたての白衣に、紅型びんがたと呼ばれる総柄の打掛けを羽織り、髪を留めるジーファーには豪奢な金の鈴飾りが付いている。極彩色の彼女は、長閑な森の風景から不自然なほど浮いていた。


 女性がおもむろに立ち止まる。すると蝉の声がぴたりと止んだ。木の根の間を這っていたハブは土に潜り、周囲を盛んに跳ねていた飛蝗バッタも地にしがみついた。


「嫌な風じゃ。胸騒ぎがする」


 女性が呟いた。南西から吹く風に妙な気配があった。


「そういえば、ここ七日ほど風向きが変わっておらんな……」


 通常、若夏うりずんの季節風は南から吹く。数週間は風向きが変わらないこともざらにある。とはいえ風速までもが一定で、ここまで天気が乱れないのは出来すぎている。


「南西から何かが来る」


 女性が空を見上げた。天気に影響を与えるほど強大な力を持つ者が、琉球に訪れようとしている。そう考えると辻褄が合う。


聞得大君きこえおおきみ加那志がなし


 そこに、二人の女官が駆け寄ってきた。恭しく頭を下げると、彼女たちの顎から汗の滴が落ちた。顔面蒼白で足が震えている。


 それほど目の前の女性――聞得大君である月嶺げつれい――が恐ろしいのだ。


 女官の一人が搾り出すように声を出した。


「恐れながら申し上げます。首里天しゅりてん加那志がなしがお呼びです」


 首里天とは国王のことで、加那志は敬称だ。女官はなんとか伝令の勤めを果たせたことに安堵した。


わらわは忙しいと伝えておけ」


 しかし月嶺は冷たい声で答え、踵を返す。簪にある金の鈴が澄んだ音を鳴らした。躊躇いなく森の奥に進んでいく。

 まさか王命を断られるとは思わなかった女官は慌てて顔を上げた。


「き、聞得大君加那志、お待ちくだ……」


 呼び止めた瞬間、月嶺が首だけ振り向いた。女官は月嶺の琥珀こはく色の瞳に見つめられ、全身を見透かされているかのような心地になった。太陽が照っているのに、まるで冬至のような寒気に襲われる。


「貴様ら、妾を煩わせるとは覚悟はできておるんじゃろうな。棒叩き百回、で三百回に処してやろうか?」


「ひ……っ、申し訳ございません!」

「お許しください!」


 二人の女官は崩れ落ちるように跪いて謝罪した。月嶺に命じられた棒叩きは通常と違ってなぜか傷の回復が遅く、漏れなく三日以内に命を落とすことで有名だ。神秘的な雰囲気と気難しさも相まって、業務上話しかけるだけで誰もが狼狽ろうばいした。


 月嶺が森の奥に消えると、凍りついた時間が動き出すかのように蝉の声が戻ってきた。森中の生き物が活動を再開する。二人の女官は大きく息を吐き、立ち上がった。


「助かった……。でも困ったわ。どう報告すれば良いの」


「ありのままを伝えるしかありませんよ。早く行きましょう。ここ、何だか寒気がします」


 二人はうなだれながら、京の内から城郭に戻った。上司に叱られることを想像すると気が滅入る。


「……それにしても」


 女官の一人が足を止めた。人工的に整備された城の一画にある、手付かずの原生林を振り返る。ハイビスカスの花が石垣から溢れ落ちるように咲いている。


「なぜ三人分なのかしら? 私たち二人しかいないのに」


 するともう一人の女官が自身の平らな腹を撫で、その疑問に答えた。


「実は……昨日、医者に子を授かったと言われました……」


 二人は顔を見合わせた。月嶺の言う通り、こちらは三人だったのだ。もう一度京の内を見る。その人智を超えた能力にしばし呆けた後、逃げるように走り去った。



 まもなくして、那覇の港に検閲体制が敷かれた。特に西は一艘たりとも通すなと、月嶺が直々に通達した。真南風一行が到着する数刻前の出来事だった。



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