六話 詠み人知らず

 は、瑠璃色の海にぽつんと浮かぶ山原やんばる船の上空をふわふわと漂っていた。


 体をひるがえし、遠く離れてしまった八重山に視線を移す。深緑の島はまるで太平洋に取り残されているかのような寂寞感せきばくかんがある。


 全ての大陸が一繋がりだった頃に八重山で生まれ、気が遠くなるほどの悠久の時を過ごした。めくるめく季節の変遷を味わい、様々な文化の勃興を見守った。


 八重山はどの時代も歌と踊りを中心に回る島だった。一年で最も重要とされた火喰いの神を奉る年に一度の祭儀「天降アマリ大祭たいさい」も、海山の幸を捧げ、島民が三日三晩踊り明かすというご機嫌な儀式だった。


 ところが信仰を禁じられ、年貢の取り立てが厳しくなり、誰もが朝も夜も働くようになると、島に満ちていた歌舞音曲かぶおんぎょくはすっかり消え失せてしまった。


 きっと昨晩の祝宴をきっかけとして、少しずつ以前の八重山を取り戻していくだろう。島民の血に深く刻み込まれた芸能への愛を目覚めさせるには充分な夜だった。


 要するに、真南風の踊りは百年にも及ぶ暗い時代を打ち壊し、島の歴史を変えたのだ。


 それだけの力を持っている以上、――八重山の土着神である火喰いの神――が、守るべき地を離れ、真南風についてきてしまうのは仕方のないことだった。


 火喰いの神は再び船内を見下ろした。はて、と首を傾げる。阿国が演奏をしているのに、真南風が踊り出さないことが不思議だった。なぜか彼女は膝をつき、何度も船底に頭を打ち付けている。


 少し考えて、これは新しい踊りなのだと解釈した。火喰いの神は船に降り、真南風の隣で動きを真似をしてみた。



 水夫は異変に気付き、かいを置いた。

 彼は王府の要職を乗せるために手配された熟練水夫だ。海では些細な見逃しが大惨事に直結するため、常に意識を張り巡らせている。

 この船に乗っているのは真南風、与那原親雲上、阿国、そして自分を含めた計四人。それなのに、なぜか船内にもう一人いるように感じられる。


 しかし何度見回してみても間違いなく四人だけなので、気のせいだと判断した。手巾で額の汗を拭いながら、「若夏うりずんにしては暑すぎるな」と呟いた。




 ◇




 於茂登岳おもとだけの中腹で、伯母は北東に向かって進んで行く山原船を眺めていた。


 伯母の背後には彼女が人知れず機織きおりをするための山小屋がある。この十二年間、日が出ている時間の大半をここで過ごした。もう二度と来ることはないだろう。


 真南風が夜な夜な一人で踊っていることは知っていた。その姿を見るたびに胸が締め付けられた。


「私を恨んでいるだろうね。ふん、別に許してほしいなんて思ってないよ」


 伯母が船に向かって言った。今まで何度も後悔したが、彼女にはである真南風を守る他の方法が思いつかなかったのだ。


 ――伯母は十二年前の夜を思い出していた。


 嵐の晩、駆け落ちして八重山を出た妹が訪ねてきた。傷だらけの体で、赤子の真南風を抱いていた。二人ともひどく衰弱していたので中に入るよう促したが、頑として断られた。妹は最低限の事情だけを話し、伯母に真南風を託した。


 暴風が吹き荒れる闇夜に消えて行った妹は、翌朝、蔵元の役人に捕まって処刑された。


 伯母はぐずる真南風を抱きながら、長崎浜に晒された妹の生首を見つめた。脳内には彼女が最後に告げた事実が反芻していた。


「真南風、お前はオヤケアカハチの曾孫ひまごだ。お前の先祖は島のために戦った英雄だった」


 湿った風が山林の隙間を駆け回り、海へと抜けていく。伯母の呟きは周囲の広葉樹のざわめきに紛れて消えた。


 琉球王府の宗教弾圧に背き、八重山で反乱軍を率いたアカハチは、国家反逆罪で一族郎党皆後しにされた。どの文献にもそう記録されている。

 しかし実際は、アカハチの妻である古乙くいつが王府軍に捕まる直前、納屋に子を隠していた。


 時は流れて真南風が生まれたが、すぐに両親が追われ、親子は生き別れになった。遠縁だった妹の手に渡り、ついに伯母を頼った――というのが事の経緯だ。


 逃げ切れないと判断した伯母は蔵元に交渉し、妹と共に真南風も処刑したと報告させた。その後も八重山上布を賄賂として納め続けることで島の戸籍から抹消してもらっている。私腹を肥やすことに余念がない役人のせいで、伯母はこの山小屋で真南風以上に働き詰めの毎日を過ごした。


 時には役人の慰みものにされることもあった。妹を処刑した男に抱かれるのは耐えがたい苦痛で、火箸で腹わたをぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような心地だった。このときばかりは子宝に恵まれない自分の体に感謝した。


 しかし、そんな地獄のような日々も終わりだ。与那原親雲上が真南風の身元を預かったからだ。


 蔵元が王府に真南風の出生を明かせば、与那原親雲上の顔に泥を塗ることになる。官吏かんり社会において階級は絶対だ。しかも原因が自身の不正となれば、更迭はおろか死罪にされても文句は言えない。

 真南風は十二年もの間、戸籍に名がなかった。もう王府に追われることはないだろう。


 真南風は知らない。

 自分の本当の名が、だということを。


「八重山の百姓が楽童子だなんて大したもんだ。ここでの暮らしは忘れて、お前は踊りのことだけを考えな。もう二度と帰ってきてはいけない。もし帰ってきたらまた殴ってやるからね……」


 伯母は目を閉じて祈った。真南風の未来が希望に満ちていることを心から願う。すでに船は水平線の彼方に消えていた。親子のように連れ立って飛ぶクロサギの鳴き声がした。


 伯母が真南風に厳しく当たったのは、怖かったからだ。子供が生まれなかった伯母にとって、普通に育てるとどうしても我が子のように思えてしまう。

 しかし真南風は蔵元の気が変わればいつ処刑されてもおかしくない身だった。我が子が殺されるのを見ているしかないなんて、とても耐えられるとは思えなかった。身内の死刑は妹だけで充分だ。


 だから必要以上に真南風を責め、愛着が湧かないように努めた。それなのに全て無駄だったようだ。


 こんな気持ちで見送るなら、もっと優しくすれば良かった。何度も抱きしめてやれば良かった。一緒に歌って踊れば良かった。とめどなく流れる涙を拭いながら、そう思った。


 伯母は真南風に何も与えてやれなかったので、せめてもの償いで歌を残した。


『真南風乙ぬ 美童ぬ なまりや

 五つぃしや 父とぅぬけ うだそうぬ

 七つぃんや 母とぅぬけ うだそうぬ

 ならたんが くり一人立つぃまけ

 なら伯父 掟伯母 なしゃ行き

 伯父付くぃ 伯母付くぃ うだそうぬ

 父ぬおーたか こーぬある笠ん かびみだ

 母ぬ おーたか 袖ぬある着物 ぬきみだ

 つぃくでぃ ふつぃ すぃかまふつぃでぬ 思いぬ

 降らぬ雨 すがん風ぬ すぐだら』


(真南風乙という名のかわいらしい子どもは

 五歳で父を亡くし

 七歳で母を亡くした

 一人では生きていけないので

 伯父と伯母のところに厄介になった

 父がいたら縁のある笠を被ってみたかっただろうに

 母がいたら袖のある着物を着てみたかっただろうに

 畑で働いていると虐めたことを思い出す

 涙は雨のように降り、思い出は風のように吹き荒れ、過ぎさってゆく)


 真南風が八重山で過ごした日々を詠んだこの『真南風乙節まへーらつぃぶし』は、八重山民謡を代表する一曲として、現代に至るまで歌い継がれている。


 なお、歌の作者の記録はない。である。



https://kakuyomu.jp/users/shinkq7/news/16818093073701923302

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