- 高校物理でわかる! - 大和対武蔵

藤井 俊

第1話

 Ⅰ はじめに


 太平洋戦争時に建造された世界最大の戦艦、大和と武蔵は“大和型戦艦”と呼ばれる同型艦である。

 本稿では当初、この二艦の強弱を考察しようと考えた。しかしながら、同型艦だけあって基本の装甲、兵装等は同一であり、速力もほぼ同等となっている。そうなると勝負は時の運ということになってしまう。

 これでは明確な判断を行なうことが困難であるため、大和と宮本武蔵の強弱について考察することとした。



 Ⅱ 両者の仕様


 大和、武蔵の仕様は以下のようになっている(注1)。


     大和               武蔵

 竣工: 1941年            1584年

 没年: 1945年            1645年

 全長: 263m             1.82m

 全幅: 38.9m            0.43m

 重量: 68200t           ~0.1t

 速力: 時速50キロ           時速30キロ

 構造: 外骨格              内骨格

 素材: VH鋼、MNC鋼         骨組織、筋組織等

 武装: 三連装46cm主砲三門他      大小二刀(二刀流)

 装甲: 水平230mm、垂直410mm    鎧、兜等、皮膚2mm(注2)


 一見してわかるのは、大和の寿命が圧倒的に短いことである。1941年12月16日の竣工で、1945年4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖で沈没しており、4年にも満たない。他方、武蔵は60年以上生きており、大和の15倍以上この世に存在していたことになる。

 これは、大和が戦艦という人工構造物であって、竣工後は原則として基本骨格は変わらないため劣化が進行してゆくのに対し、武蔵は生物で、新陳代謝により内部構造も刷新されることが大きな理由のひとつに数えられる。

 この点を除けば、両者はいずれも当時の標準的な戦艦、男性に比して相当大きな体格を有する(注3)等、概ね似通っている。


(注1)

 数値はWikipediaの「大和 (戦艦)」、および「宮本武蔵」による。大和の重量は公試排水量。速力は27.8ノットをキロに換算した。武蔵の全長は、文献値の六尺をメートル法に換算。全幅は身長から算出した成人男性の平均的肩幅。速力は100メートルを12秒で走るとして求めた。


(注2)

 武蔵の皮膚厚は人体の平均値


(注3)

 大和型に次ぐ全長を持つ長門型は225メートル。戦国時代男性の平均身長は1.55メートル。大和、武蔵とも、これらの数値に対し約2割大きい。



 Ⅲ 交戦条件


 武蔵が活躍した戦国時代末期から江戸時代初期と、大和の太平洋戦争期とは工業技術に大きな差がある。銃器を例にとっても、火縄銃と三八式小銃では、連射性能、命中精度等が異なっており、存命当時の技術しか用いることができないとすると、武蔵側がそれだけで不利になることは否めない。

 これについては、武蔵は科学・工業技術について、太平洋戦争期の軍部と同等の知識・技能を有していると設定する。したがって、優れた銃や火器が存在することを知っており、所有、利用できる。戦闘に要する資金にも不自由しないものとする。

 また、行動範囲が水上に限られる大和と、水陸いずれも移動できる武蔵の戦いであるので、極論をいえば、大和の主砲の最大到達距離である40キロ以遠の陸上に武蔵がとどまる限り、武蔵が敗北することはない。

 これはAとBのどちらが強いのかを考察する場合、必ず出来する問題である。対人格闘の優劣を競う場合を考えてみても、例えば一方が主とする技術が護身であるときには、その者にとっては、まず「逃げる」が最優先の選択肢となる。護身術は、身に危険が及ばないようにするのが技術の目的であることから、これが正しい行動となる。

 このため、逃げずに戦いを行なうこと自体、ある意味仮想的なフィールドにおける強弱を検討していることになるが、これはいたしかたないといえよう。

 本稿の目的である大和と武蔵、両者の強弱を確認するためには、戦艦対武人も同様の枠組みをもって検討すべきである。すなわち、武蔵は大和に接近して対決する必要がある。もちろん、大和より遠距離から攻撃する手段を武蔵が選択できる場合はこの限りではない。

 逆に、大和も洋上はるか沖合に投錨するといった戦術はとらず、港湾に停泊することとする。水陸両用である武蔵が船で水上を航行可能といっても、接近する過程で艦砲射撃から逃れる術がないためである。大和の停泊地としては、母港である広島県の呉軍港が適切と考えられる。

 なお、武蔵は自身の技術・兵法について、著書『五輪書ごりんのしょ』(注4)にとりまとめている。五輪書は現代においても広く読まれ、武術指南書としてのみならず、ビジネス書としても参照されている。武蔵がとる戦法については、この書の記述に則ることとする。


(注4)

『五輪書』の引用については、岩波文庫『五輪書 宮本武蔵著 渡辺一郎校注』による。なお引用部の解釈については、致知出版社『五輪書 宮本武蔵 現代語訳:城島明彦』、日本文芸社『宮本武蔵 五輪書入門 桑田忠親』等も参考にした。



 Ⅳ 武蔵は接近できるか


 では、武蔵が大和と戦うに際し、そもそも接近できるのかについて考察を進めたい。

 大和の46センチ主砲は、距離40キロの場合、三連装砲塔3門で9発を斉射した際の着弾範囲(散布界)が数百メートルから一キロとされている。発射間隔は30~40秒である。

 一方の武蔵は徒歩で接近するとは考えにくく、騎乗して移動すると想定される。大和の砲撃間隔を30秒とすると、この間の武蔵の移動距離は、多く見積もっても600メートルに届かない(注5)。

 大和は艦載機を発艦させて着弾位置を確認することが可能であり、位置を補正しつつ砲撃することができる。

 大和の九一式徹甲弾は約1.5トンの重量があり、初速780m/秒で発射される。運動エネルギーKは、砲弾の質量をm(kg)、速度をv(m/s)とすると、


 K=1/2mv^2   ………(1)


 で求められ、約4億6000万J(ジュール)となる。これは、TNT火薬100キロ以上に相当するエネルギー(TNT火薬1トンは約42億J)であり、着弾点周囲十数メートルは爆風で吹き飛ばされる。実際には空気抵抗により弾速が低下するため、エネルギーは小さくなるが、大和と武蔵の距離が近くなるにつれて低下の割合は小さくなり、しかも、砲撃精度も高くなる。Ⅱ章で確認したように、武蔵の装甲は大和に比して薄く、爆圧に耐えることは難しいと思われる。

 さらに、対地攻撃に際しては、大和は徹甲弾ではなく零式弾、三式弾等の、発射後に設定秒数で爆散する(もしくは弾子を放出する)砲弾も装填可能であり、一発で広範囲を攻撃することもできる。

 武蔵も当然回避行動をとると思われるが、前述した移動速度では大和の砲撃に被弾することは免れない。仮に、自動車を利用していたとしても、当時の道路事情や自動車性能から、馬と同等以上の回避性能を発揮できたとは考えにくい。

 武蔵は出発地点からほとんど進めず、大和に一太刀も浴びせることなく散ってしまうのであろうか。

 筆者はそんなことはないと考える。

 ここまでの議論は、武蔵のいる位置を大和側が補足している前提で進めてきた。

 しかしながら、そもそも武蔵が自身の所在地や攻撃開始時期を大和側に伝えるとは思えない。

『五輪書』でも、「場のくらいを見わくる所、場において日をおふという事有り」(戦いの場の良し悪しは、太陽を背にできるかで判断する)とし、戦闘における位置取りの重要性を述べている。大和が所在位置を隠すことがほぼ不可能であるのに対し、木立や草むらにひそむことも可能な武蔵がわざわざ居場所を教えるはずもない。武蔵は兵庫県(播磨はりま国)の出身であり、西国が本拠地である上、全国を回って兵法家との勝負を行なっている。呉港周辺の土地鑑も十分有していたと考えるべきである。

 さらに、武蔵の兵法家との戦いからは、定められた戦闘時刻より前、あるいは後に会敵場所に赴くことも戦術のひとつと武蔵が考えていることが察せられる(吉岡一門との戦い、巌流島の戦い)(注6)。

 武蔵は13歳から28、9歳にかけて、「六十余度迄勝負すといへども、一度もそのをうしなはず」と記しており、敗北がそのまま死につながるような対決を60回以上くり返している。場所や時刻に対する武蔵の考えは、これらの戦いの中で培われた極めて実戦的なものといえよう。

 すなわち、武蔵は問題なく大和に接近できる。豪雨、濃霧等の悪天候や、夜陰に乗じればさらに容易に達成できるであろうし、武蔵ならそのような状況を選んで行動を起こしたものと想定される。


(注5)

 日本中央競馬会(JRA)の芝コース上がり3ハロン(ゴール前600メートル)の競走馬最速タイムは31.4秒(2022年12月現在)。


(注6)

『武公伝』(1755年 豊田正脩著)等によれば、1604年に武蔵は京の著名な武芸家の吉岡家一門と3度戦い、当初2回は刻限に遅れ、3回目は一転して夜のうちに決戦場所にひそみ、油断している敵多数を急襲して打ち破ったとされる。

 また、武蔵が巌流島の戦いに遅参して行ったことは『二天記』(1776年 豊田景英著)等に詳しい。



 Ⅴ 武蔵は大和を切れるか


 大和に接近した武蔵はどうするか。ここは、まずは武蔵の剣術“二天一流”に従い、刀による大和の切断について検討してみたい。

“斬鉄剣”という言葉がある。極めて硬度、強度が高い、よく鍛えられた日本刀は鉄をも両断するという。実際、日本刀の刃の部分は鋼に焼き入れを施してマルテンサイト変態させたものであり、ブリネル硬度は700程度となる。一方、大和の船体側面(舷側)部分の装甲に用いられていたVH鋼の硬度は500程度であり、日本刀に劣る。よって、日本刀により大和に傷をつけることは可能だといえよう。

 しかしながら、切断することはできるのであろうか。

 インターネット上の情報ではあるが、日本のテレビ局の特番で、日本刀で鉄パイプを裁断するという企画を居合の達人が受けたことがあったが、事前に練習で用いた昭和の軍刀は、2ミリ厚の鉄板を試し切りしようとしたところ、折れてしまったという。刀匠にさらに強靱な刀を発注し、番組ではそれを用いて鉄パイプを斬ることに成功し、また、特番第二弾として、0.4ミリ厚の鉄板の裁断にも見事に成功した。

 だが、達人をもってしても、厚さ400ミリを超える大和の舷側装甲を通常の日本刀で切断することは困難だと考えられる。

 では、通常ではない日本刀を用いることはありえるであろうか。

 熊本県八代市立博物館には、舟島(巌流島)で佐々木小次郎を倒した木刀(舟の櫂を削って作ったとされる)を、武蔵自身が再現して細川家に献上したとする木刀が収蔵されている。その長さは四尺、約127センチある。これは、武蔵が通常用いていた大刀が刃渡り二尺四寸(約73センチ)、柄を含めても100センチ少しであることに比して相当長い。小次郎の刀が、物干し竿と称する刃渡り三尺(約90センチ)のものとされていることから、これを上回るよう考えたものと推定される(注7)。

 この事実から導かれるのは、武蔵は二刀で戦うことにこだわってはいないということである。『五輪書』においても、二刀流を唱える理由として、刀や脇差は本来片手で扱うものであり、両手を使うやり方しかできないと、馬上や走るとき、足場が悪い場合などに対応できないことを述べている。あくまで実戦的な得失から判断しているのである。

 ならば、大和に対する場合も、専用の武器を考案するのが武蔵のあり方だと考えられる。

 それはどのようなものか。

 長大な刀剣であろうか。例えば、刃渡りが40メートルある刀であれば、大和の全幅がもっとも広い場所であっても両断することができる。しかし、日本刀の重量は刀身のみで600~700グラムある。70センチ程度の武蔵の大刀を基準に考えると、長さ、幅、厚みすべて50倍以上となることから、重量は75~90トンと計算される。「刀は片手で」を標榜する武蔵といえど、振り回すことは困難であろう。あらかじめ垂直にふりかぶった状態で港湾に立てておき、大和が入港してきた際に勢いよく倒すことが考えられる。しかし、40メートルの高さにそびえる刀に大和側が気づかないと想定することは難しい。

 また、そもそも、立てた巨大刀が単に倒れ込むだけでは大和に致命傷を与えることはできない。倒れ込みでは、巨大刀の位置エネルギーが運動エネルギーに変換されることになるが、重心位置の高さh(m)を刀身の中央と仮定し、刀身重量をm(kg)、重力加速度をg(m/s^2)とすると、摩擦抵抗がないと仮定すれば、倒れた際の運動エネルギーは、重心位置の位置エネルギーと同等となるため、


    K=mgh   ………(2)


 で求められる。刀身重量が100トンあるとしても、エネルギーは約2000万Jにとどまる。

 これは、先に求めた大和の主砲発射時に砲弾が持つエネルギーの20分の1以下である。

 大和の装甲は自らの46センチ弾による被弾に耐えられるよう設計されており、この巨大刀の運動エネルギーでは大和を破壊することは不可能といえる。内通者に火災を発生させて、なましてから攻撃を行なう、同じく内通者に化学物質による構造材の部分溶解を依頼する、等と組み合わせることも考えられるが、船体強度に大きく影響を及ぼすような手段がとれるのであれば、そちらに注力すべきであり、巨大刀を用いる必要性がなくなる可能性が高い。

 また、内通者の活躍が中心となる戦術により勝利したとしても、それを武蔵の勝利とよぶことはためらわれる。

 

(注7)

『武将感状記』(1716年、熊沢淡庵著)では、武蔵が櫂から作ったのは二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀であるとしているが、これでは間合いの利点はないことになる。



 Ⅵ 武蔵は大和をいかに攻撃するか


 前章で、武蔵は二刀にこだわらない旨を述べたが、巌流島の例では、先述のとおり、二刀どころか日本刀を用いることも不要と判断している。『五輪書』でも、「有構無構うこうむこうといふは、太刀をかまゆるといふ事あるべき事にあらず」(「有構無構」というのは、太刀の構えはあってないようなものだという意味である)とし、「みな敵をきるえんなりと心得こころうべし」と、目的は敵を斬ることであって、形式にこだわる必要はないと述べている。

 ならば、攻撃武器は刀に限ることはなく、単なる鉄塊のようなものを落下させるのでも構わないことになる。これであれば、巨大刀に比べ製造や設置の難易度が格段に軽減される。

 先述のとおり、大和は自らの主砲に耐える装甲を持つ。一撃で大和を無力化するためには、主砲砲弾の10倍程度の運動エネルギー(46億J:TNT火薬1トン以上)を有した攻撃としたい。鉄塊の重量を主砲砲弾の百倍、150トンとすると、(2)式を用いて算定すれば、大和の上空約3キロからの落下でこの数値を達成できることがわかる。

 150トンの物体を3キロの高さにまで持ち上げることが、太平洋戦争当時の技術で可能であろうか。航空機では、アメリカ最大の爆撃機B-29(注8)でも、爆弾搭載量は約九トンが限界である。B-29については、燃料重量も含めた離陸時重量は60トン以上あるので、むしろ機体による体当たり攻撃の方が効果が高いと思える。しかしながら、機体が全長30メートル、全幅43メートルと大きく、大和の一点に荷重を集中することが難しいこと、必要なエネルギーを得るための落下速度を算定すると音速を超え、当時の機体では衝撃波により空中分解してしまうこと、等が課題であり、実行は困難であるとみられる。

 では、重量物自体に飛翔能力を持たせる方法はどうであろうか。

 第二次大戦においてドイツ軍はV2ロケット(注9)を開発し、ロンドンやベルギーのアントワープをミサイル攻撃した。V2ロケットは300キロ以上の射程を有し、弾頭には約1トンのアマトール火薬を装備している。アマトール火薬はTNT火薬より強力であり、1トンでTNT火薬1.2トンに相当する。したがって、大和を破壊するに十分なエネルギーを発揮できる上、V2を購入した武蔵は大和に危険を冒して接近する必要もなくなる。

 しかしながら、V2ロケットは、命中精度が悪いという致命的な弱点がある。初歩的な慣性誘導システムしかなかったため、弾着の散布界は7~17キロと非常に広い。散布界を半径3.5キロの円と仮定し、大和の上面投影面積を全長×全幅として最大限に見積もっても、散布界の面積が約40平方キロ(4000万平方メートル) であるのに対し、大和は1万平方メートルでしかなく、的中率は0.03%に満たない。4000発に1発である。第二次大戦中、ドイツ軍が発射できたV2ロケットの総数が3000発強であることを考ると、短時間のうちに大和に命中することは期待できない。これでは、大和への攻撃手段として採用はできない。


(注8)

 数値はWikipedia「B-29 (航空機)」他による。


(注9)

 数値はWikipedia「V2ロケット」、ピクシブ百科事典「V2ロケット」他による。V2ロケットについては、信頼性も低く、発射後の故障や暴発で、ロンドンへ向けて発射された千発以上のうち、到達したのは約五百発にすぎないとのデータもある。また、そもそも、同盟国である日本の戦艦を攻撃しようとする武蔵に、ドイツ軍からV2ロケットの供与がなされるのかについても疑問がもたれる。



 Ⅶ 海と思はば山としかくる心


『五輪書』の、「さんかいのかわりといふ事」の項に、「敵にわざをしかくるに、一度にてもちいずば、今一つもせきかけて、そのに及ばず、各別替りたる事を、ほつとしかけ、それにもはかゆかずば、亦(また》各別の事をしかくべし」とある。敵に技をしかける場合、一度でだめならもう一度やるが、二度目でもだめなら発想を転換して攻めるべきである。また、それでもだめなら敵の意表をつく更なる策が必要であるとの教えである。

 前章まで、さまざまに大和攻略法を考えてきたが、いまだ決定的な方策は得られていない。武蔵のいう「意表をつく更なる策」の検討が必要である。『五輪書』は、先の文章にこう続ける。

「然るによって、敵山と思はば海としかけ、海と思はば山としかくる心、兵法の道也」――敵が山と思うなら海を、海と思うなら山をしかけよ、それが兵法の道だとの主張である。

 史実では、1945年3月末には呉軍港、広島湾、関門海峡に、アメリカ軍の多数の機雷が浮かび、大和は作戦中止により待機していた山口県の徳山沖から、呉軍港に戻ることもできない状況となっている。

 これまで、大和は呉に停泊しているとしてきたが、攻撃時期も戦略のひとつとする武蔵は、機雷により大和の航行ルートが大幅に制限されたこのときを、攻撃の好機ととらえた可能性が高い。ルート上に事前に罠をしかければ、大和が回避できる可能性は非常に小さくなる。

 実際に大和は4月6日午後に徳山沖から沖縄へ向けて出撃するが、愛媛県と大分県に挟まれた豊後水道を抜け、夜に宮崎沖の日向灘へ出たところで早々にアメリカ軍潜水艦に発見されてしまっている。

 武蔵はいかなる罠を考えるか。

 海上を進む大和は、当然、潜水艦を含む敵艦船、あるいはその艦載機による攻撃をまず警戒するはずである。すなわち大和は、敵は“海”あるいは“空”だと考えている。

 日本軍は大和の沖縄出撃に際し、アメリカ軍の艦船が沖縄東方に存在することを前提に計画を立てていた。このため、大和は鹿児島県の大隅半島と種子島の間を抜け、そのまましばらく西進する予定であった。

 この、鹿児島南部海底には、東西20キロ、南北17キロの広範囲にわたる、巨大な“鬼界カルデラ”(注10)が存在している。

“山”である。

 大和はまさにこの直近を通航している。

 鬼界カルデラの7300年前の噴火は噴出物の総体積が百立方キロを超え、VEI(火山爆発指数:Volcanic Explosivity Index)7に分類されている。過去一万年で世界最大規模の噴火であり、火砕流は海をこえて鹿児島県の薩摩半島や大隅半島を襲い、当時の南九州の文明を壊滅させた。数百年間、照葉樹林が回復しなかったという。火山灰は東北南部にまで達したことが確認されている。

 1932年、岩手在住の詩人・童話作家である宮沢賢治は、「グスコーブドリの伝記」を雑誌発表している。賢治は同作で、主人公のブドリが火山の噴火を人工的に起こす様子を繰り返し書いている。火山を制御するということが、その頃すでに、専門の学者でなくとも発想しえたことが伺われる。それから13年が経過した1945年であれば、武蔵が鬼界カルデラの利用を思いつくことは容易に想定される。

 鬼界カルデラの北縁部は一部海上に出ており、薩摩硫黄いおうじま、竹島と呼称されている。このうち、薩摩硫黄島は、現在でも、火山噴火予知連絡会や気象庁による分類で、国内の最も噴火の可能性の高い火山のひとつに数えられている。島の東部の大宗を硫黄岳が占めており、この硫黄岳の噴火口が、鬼界カルデラに刺激を与え、噴火を起こすのに最適な場所と考えられる。武蔵はここに遠隔で起爆できる高性能爆弾を設置するであろう。

 先に述べたとおり鬼界カルデラの噴火は凄まじく、7300年前の噴火エネルギーは10の20乗J、TNT火薬数百億トンに相当する。例え、武蔵の起こす噴火がこの噴火の百分の1規模に留まったとしても、数億トン分である。大和の装甲を貫通するどころか、艦体ごと一瞬で消滅させてしまうことになる。

 過剰すぎる攻撃であろうか。いや、そうではない。『五輪書』の「そこをぬくといふ事」の項で、表面上勝ったように見えても、相手に戦意が残っている場合は逆襲を受ける恐れがある、心底敗北したと思うまで徹底的に攻撃せよと武蔵は述べている。

 海底火山である鬼界カルデラは、まさに大和の“底を抜く”のである。

 ここにきて結論が得られた。大和対武蔵は、武蔵の完勝といえよう。五輪書に従うだけで巨大戦艦大和にも打ち勝つことが可能となる。

 武蔵恐るべしである。


(注10)

 鬼界カルデラについては、“巨大海底火山「鬼界カルデラ」の過去と現在”(海洋研究開発機構(JAMSTEC)ホームページ)等を基に記載。噴火エネルギー算定は、火山学会「火山についてのQ&A」の情報より行なった。



 Ⅷ おわりに


 大和と武蔵のどちらが強いのかについて、論考を行い、武蔵が強いとの結論を得た。

 しかしながら、一見矛盾するようであるが、筆者は、ここで検討した方策を武蔵が実際に行なうとは考えていない。

 武蔵は自分の戦いの詳細を文字に残していない。『五輪書』においても最初の二戦は相手の名が記されているものの、その後の「六十数戦無敗」についてはそれすら記載がない。

 他者による武蔵の事績に関する資料は、武蔵の養子である宮本伊おりが1654年に建立した小倉おぐら碑文ひぶんを嚆矢としている。武蔵の死から9年後である。吉岡一門との戦いはここで初めて記載され、武蔵は門弟数百人をひとりで打ち破ったとされている。その他の資料はすべて数十年から百年以上のちに編纂されたものであるにもかかわらず、戦いの内容はしだいに詳細化し、かつ、変化している。

 例えば巌流島の戦いは、『五輪書』に一切記載がなく、小倉碑文でも吉岡一門との戦いより扱いが小さいが、後の書では大きく紙数が割かれ、武蔵のもっとも人口に膾炙した戦いとなっている。

 これは、18世紀半ばに、歌舞伎や浄瑠璃等で巌流島の戦いが敵討ちものとして上演され、人気を博したことによる。小倉碑文で単に「岩流がんりゅう」とのみ記されていた武蔵の相手も、この時期に「佐々木小次郎」というフルネームを与えられている。

 その後も武蔵は、読本をはじめ、小説や映画、コミックの題材として繰り返し取り上げられている。

 メディアミックスである。

 この成功は、武蔵自身が武人であると同時に著名な文人でもあったことが大きく寄与していると考える。武蔵は書画工芸に秀で、とりわけ彼の絵画作品は江戸期にすでに評価が高かった。現在、晩年に描かれた五十数点が残っているが、国の重要文化財に指定されている作品も数点ある。

 もちろん、武蔵の武芸者としての実力を疑っているわけではない。武蔵が真の実力者であると世間に認知されていなければ、そもそも舞台化などされていなかったはずである。

 ただ、メディアミックスの常として、事績に「若干の」演出が付け加わっていくことは避けられない。武蔵が記していない戦いの詳細は、後世に世間が求める内容が盛り込まれ、真実として語り継がれていく。いまから百年後に、「武蔵は戦艦大和を火山噴火で消滅させた」が通説となっていても驚くにはあたらない。

 そのためには、昭和に現れた武蔵は、『五輪書』にただこう付け加えるだけでよい。


“昭和二十年、我、大和に勝てり”


 武蔵恐るべしである。

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