刻み付けた名前

「あ~あ、もう楽しい時間が終わっちゃうんだねぇ……」

「そんなガッカリしてもらわんでも……」

「ガッカリするよ!!」


 グッと、水瀬が顔を寄せてきた。

 あれからカラオケ店を出た後、俺たちは再び適当に過ごし……こうして夕方になったことで別れの時間になった。

 正直、途中で世界が変わったのは驚いたが……それでも楽しかった。

 もうさ……少し受け入れたと言うか、俺は俺なりにこう思った――水瀬からされたこと、あれをこっちの世界で味わえる特権として楽しんでやろうって!


(最低……かなぁ? でも、少なくとも二つの世界を行き来して精神がおかしいことになりそうなんだこれくらいはさ)


 こう思うとある程度の余裕は出来た。

 ただ、ある程度男だから好き勝手出来るとかそういう傲慢なことは考えることはなかった……まあラッキースケベを通り越した出来事を経験しているわけだけど、迫られたのであれば逆にそれを間違いのない範囲で楽しもうじゃないかってそう思ったんだよ俺は。

 もちろんそれでも完全に踏ん切りが付いたわけじゃないけどな。


(……ほんと、どうせなら一生逆転した世界なら楽……じゃないけどここまで気を遣うこともないのにな)


 真面目な話、俺がここで水瀬にエッチしようと提案する。

 彼女なら間違いなく良いよと言ってくれるだろうし、むしろ提案した瞬間に暗がりに引っ張り込まれそうな勢いだが……とにかく普通ならそこまで漕ぎ付けるのに大変なこともこっちならある程度容易だろう。

 でもさ……仮にそれで子供が出来てしまったとしようか。


(そう……これもまた大きな問題なんだよな)


 これは俺が調べたことだけど、男女の溝が深まるということはそういう行為さえも少なくなるということで、性行為をしたくても出来ない女性が増えるということは同時に産まれてくる子供も減る。

 それもあって子供が出来たら補助金が出る仕組みだけど、当然世界が切り替わればここも変わってくる……だからもしも、こっちで喜ばれる行動をしても世界が変わった瞬間地獄に叩き落とされるわけで。


「……ねえ、凄く難しいことを考えてる顔してるよ?」

「おっとごめん」

「謝らなくても良いけどさ……その、そんなに嫌だった?」

「え?」

「今日私と過ごしたこと……」


 考え事に没頭するあまり、水瀬を不安にさせてしまったようだ。

 ……あんなに大胆なことをしたり、エッチなことを誘発させようとしてくる彼女が、こうして不安そうな顔をすると途端に申し訳ない気持ちになるしそんな顔をしないでくれとも考えてしまう。

 これに関しては水瀬は計算しているわけではなく、あくまで本当に不安がっているからで……そこもまたズルいんだこれが。


「そんなことないって……その、ああいうエッチなやり取りは非常にどうかと思うわけだけど、水瀬みたいな子と一緒に居て嫌なんてことは絶対にないから。それだけは安心してほしい」


 とにかくその不安そうな顔をしてほしくなくて、ちょっと恥ずかしいことまで口にしたけどこれは本心だ。


「っ……はぁ♡」

「み、水瀬……なんか今日多くないそれ」

「だって仕方ないでしょ? そんな嬉しいこと言われちゃったらお腹の下辺りがキュンキュンしちゃうもん」

「そ、そうなんだ……」


 お腹の下辺りって……えっと。

 変に想像してしまいそうになり頭を振る……そうしていると、いつの間にか彼女は俺の真正面に立ち、ジッと見上げていた。


「……本当に不思議な人だよ。だってこんな男の子が居たら世の中の女は絶対に放っておかないよ?」

「毎回毎回そう言われる度に思うよ。俺はただ、相手が女性であっても自分が上の立場みたいに思っちゃいないだけだ」


 けど……こうなる前の俺がそうだった形跡もあるし、この世界で女性に対し上から目線になる奴はどんなことを考えてるんだろうな。


「好井君は本当に優しいなぁ……う~ん、しばらくすれば何人の女の子がメロメロになってるんだろうねぇ」

「……………」


 普通にしてるだけではあるんだがな……。

 けど……俺はあくまで普通にしているつもりだが、事情を知っている人間がもし居たとすれば俺のこの在り方は卑怯だと、そんな風に過ごしていれば女の子にモテるに決まってるとでも言うのかな……。


「ねえ、また難しいこと考えてない?」

「……最近、考えることが多くてな」

「ふ~ん……ねえ、こっちおいで」

「え?」


 水瀬に手を引かれ、俺は近くの公園へ。

 そのまま木陰へと連れて行かれ……彼女はほらと言って、俺に向かって胸を突き出す。


「また、屋上の時みたいに触って良いよ?」

「な、なんでそうなるんだ!?」


 こんなところに連れて来られたのもおかしな話だが、どうしていきなりそういうことになるんだよ!


「だって好井君、触るの好きじゃん……悔しいけど、今の私には好井君を元気付ける方法がこれしか分からない。この状況においてどんな言葉が適切かも分からない……だから私はこうして好井君が大好きなおっぱいを触らせてあげることにしたの」

「……確かに嫌いじゃないけどさぁ!」


 おかしい……本来ならおっぱいってのはこう簡単に触れる物じゃないのに、この世界ってやっぱりおかしい……いやおかしかったわ。


(郷に入っては郷に従え……か)


 それもそれでおかしいことは分かっているのだが、俺は水瀬が放った言葉の魔力に逆らうことが出来ない。

 普段の世界だからこそ出来ないこと……その誘惑に、俺は男として逆らうことが出来なかったのだ。


「……………」

「あ……♡」


 俺はまた、彼女の胸に触れた。

 柔らかく大きい……語彙力を失ってしまうけれど、こうなってしまうほどにあまりにも素晴らしい物なんだこれは。

 あぁそうだ……さっきもそうだったじゃないか。


「触るだけで良いの?」

「……え?」

「揉みしだいて良いよ?」


 モミシダイテイイヨ……?

 それは一体どこの国の言葉なんだろうか? どう発声すればそんな言葉が口に出来るんだろうか……?


「……揉みしだくって……えっと」


 あ、発音出来たわ……ってちがああああう!

 揉みしだいて良いってつまりはそういうことだよね? ただこうやって触るだけじゃなくて揉みしだくってことだよね!?

 俺はしばらく考えた後、好奇心に従うように少しだけ強く水瀬の胸を揉んだ……揉みしだいた。


▼▽


「はぁ……はぁっ!」

「流歌!?」


 蓮と別れた後、流歌は駆け足で家へ帰った。

 猛スピードで家に駆け込んだ流歌に彼女の母は驚いていたが、そんなことを気にする余裕もなく流歌は部屋へ向かう。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 息が荒く、それだけ長い距離を走ってきたことが窺える。

 流歌は深呼吸をしながら息を整え……そしてすぐ、彼女の瞳には分かりやすくハートマークが浮かんだ。


「もうダメ……もう我慢出来ない!」


 流歌は一気に下着姿へとなった。

 結局のところ、蓮に胸を触らせてからずっと我慢していた……あれは確かに浮かない顔の蓮を元気付けたい気持ちはあったが、それ以上に自分の欲を満たすというものもあった。

 彼に触れてもらうことで、力を強くしてもらうことで自分でするよりも刺激的な感覚を得られるように。


「さいこぉ……♪ こんなのもう忘れられない……素敵だよ……素敵すぎるよ好井君♪」


 この世界において、女性の性欲はあまりにも強い。

 それは遺伝子そのものに刻まれているが如く強いのだ――それが気になる男子に、それも優しくしてくれるだけでなくデートまでしてくれた男子に胸を揉まれたのだ……こうならないわけがない。


「好井君……好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君好井君!」


 流歌の頭の中にはもう蓮のことしかない。

 今、自分の体を慰めているのは自分の手……それを彼女の脳は蓮の手だと認識するかのように妄想を抱かせ、今までにないほどの感覚を流歌へと与える。


「っ……!!」


 流歌にとって、蓮はやっと出会えた男子だ。

 自分を否定せず、利用しようともせず、心配もしてくれてお出掛けにも付き合ってくれて……体にも触れてくれて、何より女性に対して悪い感情を持っていない彼を絶対に逃がせない。


「……好きだよ、好井君」


 彼を逃したらもう、理想の男性には出会えない。

 彼を逃したらもう、一生エッチなことも出来ないし、こんな気持ちになることもない……そんな感情を流歌はしっかりと体に刻み付け……そして世界は再び入れ替わった。


「……あれ?」


 姿見に映る流歌は裸で、とてもではないが他人には見せられないような恥ずかしい蕩け顔を晒している。

 流歌はどうしてこうなっていると首を傾げたが、刻み付けられたその存在を彼女は口にした。


「好井……君」


 あぁもう、全てが噛み合った。

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