ヤサシサノオスソワケ

「……はぁ」


 頭が痛い。

 これは頭痛とかではなく、俺が気付いてしまった現状に対する疲れとも言うべきものだ。


「……はぁ」


 ヤバイ……ため息が止まらない。

 まずこの世界……俺が生きるこの世界では頻繁に男女間における貞操観念であったり、価値観の逆転が起きている。

 認識そのものもそうだが、テレビで放送されるニュースや番組などもコロコロ変わって……というか一番恐ろしいのが、俺は今までそんな意味の分からない世界に違和感は抱いても普通だと思っていたことだ。


「……クソが」


 ムカつく……一番ムカつくのは、逆転が起こった世界……何故か男が心底大事にされ女が軽視される価値観の中で、俺は母さんに対して暴言を言っていたことを思い出したのだ。

 あんなにも優しい母さんを……父さんが居なくなってからずっと育ててくれた母さんを。


「いや、分かってはいるんだよ……この世界が終わってるってことに」


 そもそも、この変化が頻繁に起こっていることを俺以外の人は誰も察していない……気付いていない。

 つまり異端なのは俺だけなんだ……母さんも友達も、学校の誰も……道行く人々も誰も気付いちゃいない。


「……………」


 それとなく母さんだけでなく、友達にも話してみたんだ。

 分かるか? その時に何を言ってるんだと、母さんは流石になかったが友達から向けられた異端を見るような目……あれはグッと心に来るぞ。

 貞操観念の逆転が頻繁に起こることで、世界の均衡は崩れても全くおかしくなんてないのに……どちらの人々も、これが普通だと信じて疑っていない……なんで俺だけこんな風に気付けたんだろうな。


「そして今日は……逆転した日だ」


 堂々とした母さんではなく、オドオドした母さんの姿で分かった。

 ……もうさ、こんなの全世界の人々が俺に対する特大級のドッキリだと言われた方が遥かに安心する。

 そもそも俺がおかしくなってるだけかもしれないし、ここまで来るとどっちの世界が元々正しいのかさえ分からなくなってきた……あぁいや、俺のこの感覚が正しいに決まってる!


「……学校、行くべ」


 俺は半ば諦めながら学校へと向かった。

 貞操観念の逆転が頻繁に起こるということは、男としての身の振り方もある意味で頻繁に正反対になるわけで……まあ満員電車に乗ったりすることもないし、人の多い場所に行くこともそうないので気にすることもないが……普通に涎を垂らす勢いで男の股間を触ろうとする女も出てくるって話だし、そんなのはエロ漫画だけにしとけって感じだ。

 それから無事に学校に着き、何もする気が起きなくて机に突っ伏す。


(この逆転が起きている間は、男の傲慢さがあまりにも目立つ。そこまで女性を嫌いになるかってレベルなんだよな)


 そういう意味では、各々の家庭環境は最悪でもあるらしい。

 一部では男が母親を慕う家もあるけど稀らしく、今の俺は母さんからすれば最高の息子らしくて……それだけでもこの世界終わってるよ。


「なあ、ちょっとジュース買ってきてくれよ」

「私……が?」

「お前以外誰が居んだよ。ほら、行ってこいって」


 そうクラスの男子が女子に我が物顔で命令している。

 こんなの普通なら大炎上物なのに、逆らえない様子で言う通りにする女子が不憫でならない……しかもクラスのみんなはそれが当たり前だと思っているし、一部の女子からは男子に対する憎悪の視線が向けられている。


(この憎悪も……逆転が再び起こったら白紙に戻るってんだから、本当にこの世界どうなってんだよ)


 おかしいのは俺だけ……それだけで疎外感がある。

 まだまだ受け入れがたいようなこともあるだろうけど、こうも逆転したりで気を遣うことが多すぎるんだ……俺、その内鬱にでもなるんじゃないかって不安になる。


「……はぁ」


 だからため息はもう……はぁ。

 結局、その日は昼休みまで何を考えるにも身が入らず、母さんが作ってくれた弁当を手に屋上に俺は逃げた……のだが、そこで俺は見たんだ。


「あの……真治君……お弁当を――」

「おい、まさかそんなことで俺を呼んだのか? なんでお前みたいなのが作った弁当を食わなきゃいけねえんだよ」


 ……あのカップルもこの世界ではこれだ。

 どっちが正しくてどっちが正しくないのか……そんな戦争物のアニメで語られそうなセリフを考えていた俺だが、次に続いた光景には流石に口をあんぐり開けてしまう。

 パシンと、凄い勢いで伊藤が水瀬の弁当を地面に落した。


「あ……っ」

「今度から作ってくんじゃねえぞ。また蹴られたいか?」

「……いや、でも――」

「じゃあな。クソ女」


 伊藤がこっちに歩いてきたので、俺は見つからないように隠れる。

 屋上に一人残された水瀬は、悲しそうに啜り泣きながら散らばった弁当の中身を片付けている。

 ……こんな風に女性が虐げられているのが普通だって?

 そんなことおかしいだろうがと、俺は自分だけがおかしいだけだと分かっているのに屋上に出た。


「……好井君?」


 あいよ~好井すくい蓮ですよっと。

 普段の美少女顔が嘘のように涙を流す水瀬の様子……やっぱり、美少女のこういう顔を見たら手を差し出したくなるのは男の性だ。


「ご、ごめんね汚くして……私、ドジで零しちゃってさ!」


 水瀬はそう言うが更に俺は気付く。

 どうやら伊藤に髪を乱暴に扱われでもしたのか、彼女の綺麗な黒髪の一部がクシャッとなっている。

 こんな風になってまで伊藤と付き合っているのは、きっと今と違う伊藤との日々があるからなんだろうなって思う。


「……俺さ、めっちゃ大食いなんだわ」

「……え?」


 嘘、大食いじゃなくて普通だぞ。

 俺はそう言って雑に片付けられた弁当を覗き込む……ちょうど敷いていたシートの上におかずは散らばったようで、形は崩れていてもゴミが付いたりはしていない。


「それ、捨てるだけならもらっても良いか?」

「えっと……え?」


 きっと水瀬は何を言ってるんだと思ってるに違いない。

 どうもこの世界だと基本的に男は何をしても……という語弊はあるが、あまり怒られることはなさそうなので俺はパクっと卵焼きを掴んだ。

 手が汚れるのも、汚いからダメと言われようとも俺は口の中へ放り込んだ……甘い……そして絶妙な塩胡椒なんかの味があって美味い。


「これは水瀬が作ったのか?」

「……うん。私が作ったよ?」

「美味い、最高に美味い」

「っ……!」


 美味いって伝えると、水瀬は分かりやすく顔を赤くした。

 本来、俺なんかがこんな行動をしたところで変に思われるだけだが、それをして水瀬が照れるという世界線になっちまってるんだ今は。


「……まあ、虫の居所が悪かっただけじゃねえか? こんな美味い弁当を食べないなんて勿体ねえよ」

「……いつも食べてくれないけどね真治君は。でも、付き合ってくれてるから彼女としてやれることがしたいなって」

「健気だなぁ……マジで良いお嫁さんになるぞ」

「お、お嫁さん!?」


 みんな言ってるけど、本当に伊藤が羨ましいぜ。

 俺たちは今、高校二年で一年の頃からクラスが同じだ――だからこそ水瀬が色んな面で優秀というのは知ってる。

 頭も良くて見た目が良くて、スタイルもめっちゃ良くて料理も出来てっていうパーフェクト女子……そりゃモテるし、伊藤もみんなに羨ましがられるってもんだ。


「ふぅ」

「あ……全部食べちゃったね」

「いやごめん……手が止まらなくなるくらい美味しかったから」


 気付けば完食してしまった……それだけ美味しかった。

 さてと……一つの弁当を完食したってことは、これから母さんの作ってくれた弁当を食べるのは中々にキツイ。

 だがこの世界で弁当を残しでもしたら母さんがどんな顔をするか……じゃあ捨てれば良いじゃないかって話だけど、親の作ってくれた弁当を捨てるとかそんな罰当たりなこと俺には出来ない。


「……好井君、王子様みたいだね」

「俺が王子様ならほとんどの男は王子様以上だぞ」

「そ、そんなこと……」


 よし、とにもかくにも母さんの弁当も食べてしまうぞ。

 そう意気込んだ俺だが、ここから教室に戻るのも嫌だということで水瀬も自分の弁当をここで食べることに。

 まさか水瀬と二人で弁当を食べる日が来るとは……そう思いながら、やけに視線を向けてくる水瀬と過ごすのだった。

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