第五話

母からの呼び出し

 今日は初雪だ。晴れて雪平と結ばれてしばらくが経つ。私たちは未だに別々の部屋で暮らしていたが、それは女将たちに関係を悟られないためだ。

 けれど、それも時間の問題だとは思っていた。

 そして今日、恐れていたことが起こった。母から呼び出しの手紙が来たのだ。

 私は何度目か分からない溜息を吐いた。

「どうしたの?」

 気が付くと背後に雪平が立っていた。

「雪平さん……どうしよう」

「ん? 何がだい」

「母さんから呼び出されたのよ」

「言ってきたらいいじゃないか。親子なんだから」

「そうじゃないのよ。母は支配的と言われる蛇の中でも特に支配的な人で、情報通で、この呼び出しだってきっと私たちの事を……とにかく怖い人なのよ」

「そうかい」

 雪平は顎を撫で、空を見る。

「よし。一緒に行こう」

「正気なの? 怖い人だって言っているじゃない」

「聞いていたさ。それでも、僕たちが夫婦になるには避けては通れないだろう」

 私は言葉がなかった。その通りなのだ。その通りなのだが、常識が通用しないのが母と言う人物なのだ。母が赤だと言えば、青い果実も赤くなる。そういう人だ。

「あなたなんか一飲みにされてしまうわ」

「そうしたら助けてくれよ。腹を裂いて出る訳にはいかないからな」

 雪平はケラケラと軽く笑って見せる。私にはその神経が理解できなかった。

「あなた、どうかしてるわよ」

「そうかもな。僕はそういう奴なんだよ」

 どれだけ話しても雪平の気持ちは変わらないようだった。私は言い知れぬ不安を抱えながら、荷造りをするのだった。

 この期に及んで雪平は、積もった雪がきれいだなんて言いながら山を登っている。今から自分が何と対峙しなければいけないかなんて考えてもいない様子で。

 母は私の行き先を決める話をしていた時に「あんたの希望なんて聞いてない」と言い放った。母は怪我をした自分を心配してくれた人に「偉そうな事を言うな」と吐き捨てた。

 母との思い出はいくつもある。尻尾で遊んでくれた事も確かにあった。母は確かに恐ろしい人だ。けれど、そうではないのだ。母はただ支配的になってしまうだけなのだ。

 決して優しくないわけではなかった。だから従ってしまったのだ。

 きれいな箱をくれたり、楽しい海なんかの話を聞かせてくれたり、頭を撫でてくれる事もあった。一緒に寝てくれた事もあった。

 けれど、怒ると何をするか分からない。そうなると話も通じなくなるし、大蛇の姿になって大暴れする事も考えられる。

 人間の雪平が行って、無事で済むわけがないのだ。

「心配いらないよ。うまくやるさ」

 雪平は私の不安を知ってか、柔らかく頭を撫でる。

「とにかく、何かあったら逃げる事だけを考えて。私は大丈夫だから。いいわね?」

「あぁ。分かったよ」


 江戸を東に抜けて峠道の途中から山の中へ入る。そうすると昔は使われていたが今は獣道のようになってしまった道があって、そこを進んでいく。その先に古いお堂があって、そこが私たちの住処だ。

 お堂は私たちが直しながら使っているのでこんな山奥には似つかわしくないくらいにきれいだが、見る者がいなければ問題ない。

 自分が化け者だと分かった蛇は、その時点でここへ来る事になっている。ここで化ける練習をするのだ。

 狸や狐のように元から化けるのがうまい種族なら子供でも連れて江戸へ降りるが、蛇はそうはいかない。驚いたりした拍子に解けてしまうのだ。

 あとはおかしくない程度に読み書きそろばんを習う。読み書きのできない大人なんて、今の江戸にはおそらくいないだろうから。

 普段はこの近くで親と暮らしていて練習にだけ来る蛇の子らもいるが、たいがいはここに住み込みだ。

 化け者だと分かった時点で、親とは時の流れが違うという事だから別れる事が多いのだ。

 来る途中、蛇の子らが戯れている姿を見た。今は休憩中のようだ。

 私はお堂の前で深呼吸をする。

「いい? 少しでも危ないと思ったら逃げるのよ」

「分かっているよ。おさくちゃんは心配性だなぁ」

 すると、私が開ける前に扉は開かれた。

「入りな」

 母だ。人の姿の母はそう言うとさっさと中に入って行ってしまった。雪平の事は目に入っていないのだろうか? 私は首を傾げながら付いて歩く。

「おくのはどうしているかね?」

 おくのは私の姉の名である。

 母はここを仕切っていると言っても過言ではない。だから姉の話が耳に入っていないはずはないのだ。どこでどんな仕事をしているとか、誰と良い仲になったとか。

 だから、これはただの世間話である。

「知らないわ。関わっていないもの」

「そうかい」

 母は雪平が私の隣に座っても、いない者かのように話を進めた。私には逆に、それが恐ろしくて仕方がなかった。まるで嵐の前の静けさだ。

「それで」

 母はギロリと雪平を見た。私は来た、と思ったが、雪平は呑気なもので「初めまして」なんて頭を下げている。

「私が呼んだのはお前だけなんだがね」

 私は覚悟を決めて紹介する。

「母さん。この人は雪平さんって言う人で、謎解き屋をやっているの。それで……」

 恐ろしくてその次の言葉が出なかった。

「娘さんとお付き合いをさせていただいております、雪平と申します」

 雪平は頭を下げた。もう駄目だった。

 母は大蛇の姿になり、目の前の机を跳ね飛ばす。そしてその体に雪平を絡め取り、シャーと脅しをかける。

 私も蛇の姿になったが間に合わなかった。だいたい、私はまだほんの三尺程度なのだ。母に敵うはずもない。

「母さん、話を聞く気はある?」

「ないね。まさかお前が人間を連れてくるような馬鹿だったなんて」

「話を聞く気がないなら、私も話す事なんかない。雪平さんを放して!」

 母は彼を締め上げてはいないらしく、雪平は涼しい顔をしている。本当にこの男はどういう神経をしているのだろう。母が少しでも力を入れたなら体がくの字に曲がるというのに。

「人間は駄目だと教えただろう。この馬鹿娘!」

「なんで駄目なのか聞いてない! 好きな人くらい自分で見つけるの! いいから雪平さんを放してよ。傷つけたら許さないんだからね」

 私は母に噛みついた。初めての反抗だったかもしれない。私なんて毒もなければ牙も小さいのだから大した傷ではないし、母にしてみればちょっと痒いくらいのものだったろうけれど、それでも母は雪平を放してくれた。

 そのままで雪平は丁寧に頭を下げて「お付き合いを認めてください」と言ったのだ。

「話して分かる相手じゃないわよ」

 私は人の姿になって、雪平に言った。

「そんな事を言うものじゃないよ。たった一人の母じゃないか。今は少しすれ違っているだけなんだよ。話ができるならそれが一番いいんだ」

「あなたは聞いていなかったかもしれないけれど、母さんは、話を聞く気はないって言ったのよ。そんな人と何を話せって言うのよ」

「おさくちゃん。落ち着いて。大丈夫だよ。だってお母さんは僕を殺さなかったじゃないか」

 そうなのだ。私もそれは不思議に思っていた。怒りに任せてめちゃくちゃに暴れているだけだといつも思っていたけれど、もしかしたら違うのかもしれない。

 私がそんな期待をした時だった。母も人の姿に戻った。

 もう攻撃の意思はないという事だ。信じられない事だが、雪平の言葉が通じたのだ。


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