第9話 PETと正解

 ジュウジは冷蔵庫から牛乳を取り出した。それから砂糖にシナモンの小瓶。

 ジュウジはジュウジに戻ると、いつもホットミルクを作る。鍋で牛乳を沸かして、砂糖をたっぷり入れて、かき混ぜて丁寧に溶かして。ミルクの甘味を砂糖で増強したものをマグカップに入れて、最後にスパイスとしてシナモンを強めに入れるのが好きだった。ミナミとの思い出の味なのだという。子どもの頃から、共働きの両親がいなくて寂しくて寒い夜はミナミがこのホットミルクを作ってくれて、姉弟仲良く飲むのが楽しみだった。表に出たジュウジは俺にそう話してくれた。

 ホットミルクはコロンも好きだから、牛乳は常備している。シナモンをコロンは使わないが、買い出しに出たときは必ず買わせている。

 コロンはシナモンが苦手で、ホットミルクも砂糖ではなく蜂蜜をたっぷり入れる。蜂蜜とミルクの相性は語るべくもないので、順当な好みだ。だから一生、コロンにはシナモンというスパイスの良さがわからないのだろうな、と思う。

 美味しいから飲むのと、思い出を噛みしめて飲むのとでは、あまりにそこにかける思いが違いすぎる。でもコロンにはこの世界の思い出なんてない。俺は飲み食いをしないしな。

 元々人間じゃないコロンには、ジュウジの思い出の味の大切さは理解できないだろう。コロンのホットミルクにこっそりシナモンを入れてやったことがあったが、コロンは「辛いよ」と言ってホットミルクを捨てた。とんだフードロスである。酪農家に謝れ。

 シナモンの独特の香りが鼻腔をくすぐる。俺はこの時間が好きだった。なんだかんだ、人と過ごす時間の方が俺は好きなんだと思う。

「ドット、ごめんな」

 ジュウジは俺に謝った。俺は気にしてないと毎回言うのだが、ある種の二重人格を相手にしているような俺に申し訳なさを感じているようだった。

 シナモンの香り、俺は好きだけどなあ、と俺は思う。たぶん、あったかいからだ。

 ただの喋るぬいぐるみの俺に体温はない。もさもさの毛がわさわさとあるのと柔らかい触感が、俺に体温があると人に錯覚させているだけだ。[PET]と違って、俺は元々動物じゃなくて、体温なんてないから。

 それでも喋るからには感情があって、人のぬくもりを感じることができる。雰囲気とかも感じ取れる。感情があるから、ちょっとは人間の感覚が理解できて、生きていると言えるのだろう。

 そんな俺にジュウジは現状を語る。

「今回俺が出てきたのは、トラウマを踏まれたのもあるけど、修繕の魔術師がいる必要がなくなってきているから、『コロン』の意識があっちの世界に戻り始めているからなんだ」

 あっちの世界とは、神とやらがいる世界だろう。コロンにとっては元の世界だ。天国か地獄かは知らないが。

「コロンが必要なくなってきてるってのはどういうこった?」

 俺が問いを放つと、ジュウジはゆっくりとホットミルクを嚥下し、ほう、と息を吐いてから告げた。

「動物愛護団体がいつか危惧した通り、死なないペットを作ったことで生態系……というか、動物が繁殖して子孫を残すという生物学的文化から外れてしまった。

 さっきの女の子が話した通り、不死身だった[PET]が死ぬように書き換えられたことによって、人々は新しいペットを手に入れる方法がなくなってしまった。そうなったら、ペットに依存することが当たり前になってしまった人々はどうなっていく? ペットを飼うことすらできなくなった人々は……最後の縁だったペットを失ってしまった人々は……」

 掠れていく声をホットミルクで湿らせて、ジュウジは今にも泣きそうな顔で言いたくないであろうその先を続ける。

「人は、弱くなってしまった人は、もう生きられない。そもそも独身の心を癒すために飼っていたペットが、この世から消えたら、もう人は生きていけない状態にまでなる。そういう独身が多くて、子どもが少なくなって……繁栄をしなくなった人間が、繁栄できなくなるまで少なくなって、そうしたら、その先に待つのは」

 ジュウジは詰めていた息を吐き出すように告げた。

「終わりだ」

 人間は減少の一途を辿り、やがて滅びる。そんな未来がほとんど確定されて、神様は匙を投げたのだろう。だから、コロンに「もう頑張らなくていいよ、無駄だから」と帰還を促しているのだ。

 ジュウジは両手で顔を覆い、己の無力に慟哭、あるいは懺悔をする。

「何のために僕は、修繕の魔術師に体を渡したのだろう? 人を救うためだったはずなのに、人が死を選ぶ世界になって、神からも見放されて、姉さんを救えなかった罪を贖うこともできず、結果的に世界が滅びゆく手助けをしてしまった! 僕に、僕の存在に、何の意味があったんだろう……っ」

 情けないよ、とジュウジはべしゃべしゃに泣いた。俺はただそれを見ていた。何か言葉をかけても、それは傷口に塩を塗るだけだ。だから俺は何も言えなかった。

 だってジュウジの言ったことは俺にも当てはまるからだ。

 癒しを求めて、死なないペットを願った人々の願いをコロンは叶えた。それが、[PET]が苦しまないように、という偽善で、人々の癒しを奪って、本末転倒になって。一体何がしたかったんだろう。

 ──ただ一つ、ジュウジには逃げ道がある。

 ジュウジは人だから、死ぬことができる。まだその自由だけは残されているのだ。

 けれど、それを提案するのは躊躇われる。ジュウジが身を削ってまで、人々のために頑張っていることを簡単に死なんかで無為に帰していいのだろうか。死人に口はないというが、その選択をしたとき、ジュウジはひどく後悔するのではないだろうか。

 自殺した姉のような人を出さないために奔走したものの末路が自殺では、あんまりだ。

 ジュウジもコロンも本当に無意味になってしまう。だから言わない。

 人は意味が欲しくて生きている。生きる意味。悲しくても続ける意味。苦しくても進む意味。意味さえあれば、人はなんでもできるような気がしているのだ。それが間違っていても、そのときそれが意味を成すと思えれば、人は報われた気持ちになれるのだ。

 今の人々は……ミナミが死んでからの人々は、ペットと生きることにしか意味を見出だせなかった。だからきっと、これから滅んでいく。ぬいぐるみのぬくもりではとても補えない傷を抱えたまま生きていけるほど、人は強くない。

 人は強くないんだから、人であるジュウジが強くあり続ける必要はない。

「もう無理すんな、ジュウジ」

 コロンと一緒に、お前もたくさん頑張ったよ。

 それでいいじゃないか。

 泣きじゃくるジュウジの背中を俺は撫でながら、そう語りかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る