第3話 天気がいい日の放課後

 放課後。部活へ向かうクラスメイトを昇降口で見送って裏門へ向かう。宇田川は先についていたようで、錆びた門に寄りかかりながらスマホをいじっていた。少し興味が湧いて、後ろから覗き込む。そこに写っていたのは全くの無だった。

 覗き見防止フィルターが貼られているわけでもなく、宇田川の持ったスマートフォンには真っ白な画面がただ映し出されていた。そして宇田川はその画面をただ眺めている。怖い。

「……浅田」

 底知れない恐怖で固まっていると、笑いを含んだ声で宇田川が名前を呼んで振り返った。俺が固まって動けなくなることを予見していたようで、恐ろしさが増幅する。

「ビビった?」

「え」

 宇田川は不敵な笑みを浮かべていた。

「浅田が来る気配したから、仕掛けてやろうと思って。僕が無の画面見つめてたらどう思うかな〜って」

 聞くと、この無の画面は随分前から前もって用意していたらしい。それだけでなく、実はもうこれまでに何度か仕掛けてきていたと言う。

「浅田って意外とプライバシー尊重する方なんだな。やっと引っかかってくれて嬉しいよ」

「こんなこと言いたかないけど、お前キモいよ」

 宇田川はふふふと笑って受け流す。相変わらず読めない男だ。気配を察されていたのも癪だし。


 ともかく、俺たちは裏門から路地に出た。宇田川曰く、放課後おさんぽ部の活動開始らしい。

「今日はなにがあるかな〜」

 呑気に鼻歌でも歌い出しそうな陽気さで宇田川は歩みを進める。今日は天気が良い。その上気温もちょうど良く、暑くも寒くもない非常にレアな日だった。一年中こんな日が続けばいいのに。日本の四季はもはや四季ではないという言説が定期的に話題になるが、その通りだなと思う。どうせなら常春か常秋にでもなってほしい。花粉症患者には恨まれそうだし、そもそも真夏と真冬の勢力が強すぎて実現しそうにないが。それはともかく、今日という日は宇田川が上機嫌なのも理解できるほどに気持ちの良い気候だった。

 目の前から散歩中の犬とその飼い主がやってくる。犬の種類に大して詳しくない俺でも知っている、ダックスフンドだった。好奇心旺盛らしく、しきりにあたりの匂いを嗅ぎ回りながら縦横無尽に蛇行してズンズンこちらに近づいてきた。飼い主の女性は五十歳前後に見える。非情なことにこの路地は緩やかな勾配の坂道になっており、彼女たちからすると上り坂だ。婦人は無邪気な犬と正反対に、明らかに疲れが滲んだ表情で必死に犬についていっていた。

 程なくしてダックスフンドが俺らの足元まで近寄ってくる。婦人は少し後方でゼーハーと息を切らしながら「ラムちゃん! だめだめ!」と、飼い犬を咎めていた。

「ごめんなさいねぇ。この子人懐っこくて」

 追いついた婦人が俺たちに謝罪する。宇田川は「いえいえ〜」なんて言いながら足元の子犬を撫でていた。

「大変ですね、その……特に上り坂は」

 考え無しに大変ですね、と口走った先に繋ぐ言葉がなくて焦る。「私が高齢にみえるから大変だと言いたいのか」と気分を害されたらどうしよう、と慌てた。咄嗟の判断で、全人類が共通して苦労するであろう坂道について言葉を付け足した。世の中の人のほとんどはそんなに捻くれた思考をしていないとわかっていても、なんとなくその可能性をいつも捨てきれない。

「そうなのよぉ。私にもう少し体力があればいいんだけどねぇ。もう折り返しちゃおうかしら」

 幸い、このご婦人の共感するところに響かせることができたらしく、ほっと胸を撫で下ろした。

 ラムちゃんと呼ばれていた犬は宇田川の足元をぐるぐる回り、しゃがんだ宇田川の膝に前脚を乗せてちぎれんばかりに尻尾を振っている。

「かわいいなあ」

 宇田川がそう漏らすとラムちゃんは一際高い声でキュンキュンと鳴いて、宇田川の頬を舐めた。

「あぁ、こら! ラムちゃん! お兄ちゃんごめんねぇ」

「いえ、むしろ嬉しいです。実家じゃ動物飼えないんで」

 宇田川はラムちゃんにされるがままだ。本当に。よじ登って制服の襟元にまで鼻を突っ込み舐めまわされている。

 あらあらと和やかに見守っていた婦人も流石に看過できなかったようで、青い顔をして「ラムちゃん!」と悲鳴に近い声を上げながらラムちゃんを抱いて、宇田川から引き剥がした。宇田川とラムちゃんはお互い名残惜しそうに視線を交わしていた。妙にドラマティックなワンシーンだ。

 宇田川は立ち上がりながら膝を両手で払う。そして。

「本当に、あの、僕にとってはご褒美みたいなものなんで」

 宇田川が恍惚とした表情でそんなことを言うもんだから俺は思わず頭を引っ叩いた。ご婦人は確実に戸惑い、ドン引いた表情をしていた。

「いや、こいつほんとに! あの〜! こういうやつなんで気にしないでください! ハハハ……俺がしつけときますんで!」

 なんつって! なんて付け足しそうな勢いで捲し立てて宇田川の袖を引き、その場から逃げ出した。最後の一言は確実に余計だった。「うちのラムちゃんもしつけが足りないからあんなことしたってわけ!?」なんて思われていたらどうしよう。ああ、どうか杞憂ですみますように。


「お前なあ」

「ごめんごめん。でも本当に嬉しかったんだよ」

 離れた路地で宇田川の腕を解放する。宇田川は全く反省していない様子だった。

「なんていうか、動物に蹂躙されると興奮するんだよね。動物にとって自分が捕食対象だと思われているのだとしても、僕はそこに自分の存在意義を見出すと思う。単純にじゃれついているのだとしても、構ってくださりありがとうございます! という気持ちでいっぱいだ。ともかく、人間は動物よりも人類の方が優位であるという傲慢さを捨てきれないけれど、動物側はそうは思っていないぞということを身をもって知れると僕は本当に嬉しくてたまらない」

「まさか今日二度も言うハメになるとは思わなかったけど、お前本当にキモいよ」

 どうかその気持ちがそれ以上歪まないことを願う。すでに遅い気もするが。

「そういや、猫が飼えないのはアレルギーだって聞いたけど、犬は? そもそも家がペット禁止とかか?」

「ああいや。うちのマンション別に犬でも猫でもオオトカゲでもペットは飼ってオッケーなんだよ。でも犬はアキが——あ、アキって妹ね。秋穂だからアキ」

 宇田川の妹といえば、あの例の動画の被害者、もとい撮影者だ。

「アキがちっちゃい頃近所の犬に追いかけ回されちゃって。それがトラウマで今でも犬ダメなんだよな」

「へぇ。それは確かに飼えないか」

「だから親に勝負かけるとすればオオトカゲなんだよな」

「スルーしてたんだけどな、オオトカゲ」

「食費かかるし、近くの獣医じゃ診れないからって断られた」

「打診したことあるのかよ」

 つくづく、マイペースな男だなと思う。この男の親はどんな感じの人たちなのだろう。

 低いフェンス越しに空き地をみる。心地よい風が吹き抜けていく。

「一回、マンションの共用通路に犬がいたことがあってさ」

 風を受けながら宇田川も空き地を見つめた。真新しい土地売り出しの看板の周りにだけ雑草が生えていない。生い茂る背の高い雑草たちに遠巻きにされて、看板も居心地が悪そうだった。

「え、と思って見てたらすぐに飼い主の人が階段駆け降りてきて捕まえてたんだけど。あれを僕一度でいいからオオトカゲでやってみたいんだよな」

 看板に思いを馳せていたら、宇田川の話を聞き逃しそうになった。別に聞き逃してもいいような気もするが。

「生き物をそんな目的で飼うなよ」

 とりあえず、脳の自動出力で出された、力のこもっていないツッコミを入れてみる。

「浅田さあ、今蛇行してたでしょ」

「は?」

「もう、僕の話ちゃんと聞いてよ。まったく、なにが「俺がしつけときますんで」だよ。リードが必要なのは浅田の方じゃないか」

 カッと顔が熱くなる。余計なことを思い出させるな。本当によく口が回るやつだ。

「どうせなら僕の首筋に鼻つっこんで熱烈なキスでもしてくれ。ダーリンと呼んでくれても構わない」

 したり顔の宇田川に、眩暈がした。あの犬の名前を受けた洒落だとしても、その意図がいくらわかりやすく見え透いていたとしても、友人相手によくそんなことが言えたものだ。

「お前、本当に——」

 三度目は飲み込むことにした。まともに相手をするだけつけ上がり、面白がっているということに今更気がついた。

 今日が天気のいい日で本当に良かった。この陽気が、宇田川泰文という男の異質さを幾分か誤魔化している。もし記録的豪雨の日などであれば、俺はこの男をいよいよ人間だとは思っていなかったかもしれない。

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