第2話 猫と僕らの放課後

「やあ。待たせたね」と、天然なのかキャラ付けなのかわからない、芝居がかった調子で宇田川が裏門にやってくる。

「図書室か?」

「そう。返却期限三週間切れてて怒られちゃった」

「宇田川、意外とそういうところあるよな」

 俺は学校内での宇田川のことをあまり知らない。家庭内のことも知らないけど。とにかく、俺たちの友情は放課後この裏門を出て、それぞれの帰路への分かれ道が来るまでの間に収束していた。

 もう季節は真夏に差し掛かり一学期も終わろうとしていたが、この時点で宇多川と学校内で会話をしたことはない。というか、校内で宇田川を見かけたことも数えるほどしかなかった。隣のクラスであることは知っているのでたまに通りがけに探してみるが、基本授業中でなければ教室の中にはいなかった。気ままに校内散歩でもしているんだろうな、と今ならわかるが、出会った当初は本当に存在しているのかすら怪しくて不気味だった。


「さあ行こう。放課後おさんぽ部の活動開始だ」

 俺たちの放課後には、いつしかそんな呑気でどんくさい名前が——宇田川によって一方的に——つけられていた。

 ジリジリと焼け付くような日差しが肌にまとわりつく。暑い。少しでも日陰を求めて適当に路地に入った。

 この活動のコツは、視野を広く保つことだ。地面に物が落ちていることもあるし、個人商店の看板に興味をもつこともある。何もないような日も多い気がするが、振り返ってみると意外とそういう日の方が少なかった。


 一匹の猫が目の前を横切る。

 宇田川と一緒に立ち止まり、猫の行方を目で追った。猫は堂々としなやかに民営の児童館の敷地へ入って行く。

 ぼんやりとその軌跡を目で辿っていると、宇田川が口を開いた。

「浅田、僕は今本当の自由を知った気がするよ」

 宇田川は胸を打たれた、とでも言わんばかりの声色でそう話しはじめた。

「見た? 今、あの猫、自転車の車輪と車輪の間、ペダルの下を当然のように潜り抜けてあの児童館に入っていったよね」

 確かに、あの猫は児童館の前に駐輪してある自転車を障害物だとは一切思っていない様子だった。

「僕が猫だったら自転車は一つのオブジェクトとして避けて通ると思うんだ」

「ああ。なんとなくわかるけど。でも猫って車の下とかも躊躇なく入るし、そういうもんなんじゃないか?」

「いやいや、車の下はまた別でしょ。暗くて狭くて、冬は暖かい。外敵から身を守るためのスペースとして確実に存在している。だけど、停めてある自転車に関しては、猫にとっては存在していないようなものなんだよ」

「そんなわけないだろ」

 あまり児童館の前で突っ立っていてもよろしくない気がして、歩みを再開する。

「シビれたよ。ああ、あそこって猫なら通れるんだって今初めて認識できた。そして、あそこを通る選択肢が猫にあることに感動した。いいもの見れたなあ」

 猫からしても鬱陶しいほどの過大評価だろう。それでも宇田川は、今の光景にそれだけ感銘を受けたのだ。面白い。

「つまり本来宇田川は無意識的に、自転車の隙間には見えない透明な壁のようなものを感じていたということだろ? その感覚はなんとなくわかるよ。ゲーム脳すぎる気もするけど」

「現実の隙間って当たり判定ないんだなぁ」

 当たり前だ。

「じゃあさ。そこにある侵入禁止のバリケードの間だって猫は通れるわけだけど、それはそういうことじゃないんだよな?」

 ちょうど目の前にあった、赤いカラーコーン二つを黄色いバーで繋いで作られたバリケードを指差す。宇田川からすれば愚問である確信はあった。そういう感性のやつだ。

「当たり前じゃん。あれは猫にとっては凱旋門みたいなものだ。いや、猫の自由さならきっとあのバーで逆上がりくらいしてみせるかもしれない。ナメるなよ」

「猫だってそこまで自由じゃないよ」

 バリケードで逆上がりをする猫を想像してみる。前脚をバーにかけて、飴細工のように胴を伸ばし、芋虫のように身を丸めて一回転。それどころか、大車輪のように連続回転までして見せた。猫の伸縮自在な体がグルグルと大サーカスを演じる。なるほど、猫は自由だ。宇田川、俺は今本当の自由を知った気がするよ。



 宇田川はそもそもかなりの猫好きらしく、「猫っていいよなあ」としきりに猫の良さを語り始めた。

「人間に媚びたかと思えばそっけなく振る舞うし、かと思えばまた甘えてくるんだ。結構な生存戦略だよね」

「まあそんなイメージはあるけど。飼ってるのか?」

「いいや。僕、猫アレルギーなんだ」

 気の毒なやつ。そうなると、動画や写真でしか猫とは触れ合えないのか。

「動物番組にありがちな、動物にアテレコするやつあるだろ。宇田川はあれについてはどう思ってる?」

「あれね。僕、やったことあるんだよ」

「え?」

 子役声優でもしていたのか?

 というか、なんとなく、ああいう人間の身勝手さを動物に押し付けることは苦手な——むしろ嫌悪しているタイプだと思っていた。

「それ、深掘りしてもいいやつ?」

「まあ別に……? ちょっと恥ずかしいけど」

 そりゃ、恥ずかしいだろう。猫撫で声の赤ちゃん言葉で喋らされていたんだろうか。

「まず、僕が猫になるだろ」

「は?」

「そんでそれを妹に撮影してもらって——」

「違う違う違う、待て待て待て」

「え?」

 え? じゃないわ。なんでそんな風にキョトンとできるんだ。

「お前が猫なの?」

「うん。僕猫だよ」

「違うよ」

「まあ今のは冗談だけど。でも僕の動きを妹に撮ってもらって、それがなんの動きなのか忘れた頃に自分でアテレコしたことは、ある」

「そこも冗談であってほしかったな」

 データあるよ、と宇田川が言うので少し迷ってから見せてもらうことにした。


 スマホで撮られた縦画面の動画だ。場所はおそらく自宅のリビングで、白く清潔そうなラグの上でスウェット姿の宇田川が四つん這いの姿勢をとっている。流行りの音楽と、そこにナレーションがご丁寧に字幕付きで加わった。妙な裏声で、一瞬合成音声かと思ったが、よくよく聞くとその声は宇田川自身のものだと分かった。

「ボクはマンチカンのやっくん!」

 暑くて仕方がなかったはずなのに、瞬間寒くなる。

 泰文だからやっくんか。理解したところでどうでも良かった。

 なんでよりにもよって猫の中でも短足の品種を、人間の中でもスタイルがいいやつが名乗るんだよ。

「ぴょんぴょんぴょ〜ん!」

 マンチカンのやっくんはラグの上からソファに飛び乗った。録画させられている妹もギョッとしたのか画面がブレて乱れる。顔も名前も知らない妹に心の底から同情した。

 やっくんはソファの上をぐるぐると動き回る。恐らくソファの匂いを嗅ぐ仕草をしているようだ。とにかく不気味なほど、動きが不器用でぎこちない。ブリキの人形が動いたらこんな感じかなと思うほど、腕を動かすだけで不自然だった。もはや才能とも言える。今、目の前にいる宇田川の挙動は普通なのに。それが余計に不気味だった。

 ひとしきり匂いを嗅ぎ回ったやっくんはピタッと不自然に静止し、処理落ちしたのかと疑うほどぎこちなくその場で丸くなった。

「ねむたくなっちゃったビャ〜ン」

 ビャ〜ン。

 ニャ〜ンとかミャ〜とかだろ。なんだその猫。「猫の鳴き声=ニャ〜ン」の固定観念に風穴をあけるリアルな鳴き声というわけでもないし。いや、宇田川が知っている猫はそうなのかもしれない。アレルギーなら実物に触れる機会も極めて少ないだろうし。浅慮なのは俺の方で、世の中探せば「ビャ〜ン」の猫もいるのかもしれない。

 やっくんは右手を前脚に見立てて、自身の目の周りを擦っている。なめらかさとは全くの真逆をいく挙動だ。

「え〜……あ、親指が痒いビャ〜ン。ボクは猫だから親指が痒い時は顔で掻くに限るビャン」

 え、一発録り? 音声の編集とかしてないんだ。最初に言葉に詰まったせいで音声と映像が少しズレている。字幕つけるくらいならカット編集くらいしろよ。宇田川的にいいんだ、それは。

 猫に親指ないだろ、とか、顔が痒いから掻いてるんだろ、とか、見え透いたボケには突っ込まない。もうそんな段階ではなかった。


 例えるならば、映像のカロリーが高すぎる。胸焼けしてまともなことを考える気力が奪われていく。夏の暑さもあってぶっ倒れそうなほど気分が悪くなってきた。

 眩暈に耐えようと目を瞑っているうちに、動画は終わっていた。

「どうだった?」

「ここ数年で一番すごいもん見た気がする」

「バズるかな」

 やめとけよ。その言葉はもう、声になっていなかったように思う。



 自販機でスポーツ飲料を買って飲む。心地よい冷たさが染み渡って生き返るようだった。

「浅田、あそこ猫いるよ」

 猫はもういいよ、と思いながら宇田川の指さす方を見ると、団地の窓から一匹の猫がこちらを見ていた。あの動画を見た後だと、実際の猫の方が俺たちよりも随分と賢そうに見える。

 あたりは少しずつ暗くなっていた。赤みがかった濃い影が後ろに長くのびていく。

「夏の影って、昼は青いよね。冬も青いけど、夏の方が断然色が強い気がする」

 まさか宇田川も影の色に言及するとは思わなかったので驚いた。ただ、宇田川と居るとなんとなくこのようなことはまま起こる。感性が交わる部分がどこかにあった。相手の視線の先を辿れば考えていることがお互いにわかるような、そんな感覚だ。

「今も青いといえば青いけど、でも夕焼けの赤が混ざってもっと黒っぽいね」

「宇田川」

 半歩先を進んでいた宇田川が立ち止まる。細い黒髪が優しく靡いた。

「なんで裏門なんだ?」

 宇田川は一瞬目を見開いて、そして「今更?」と破顔した。

「別に理由なんてないよ。ていうか気にしてないと思ってたし」

「まあ大して気にしてはなかったけど」

 宇田川はなぜか上機嫌に笑っていた。

「たとえばさ、大人になった時、浅田との思い出を振り返るだろ。俺にとって友人との思い出といえばそのほぼ全てが、今のところ君との思い出なわけだし」

 俺にとってもそれはそうなるだろう。光栄なんだか、悲しいんだかわからないが。

 クラスメイトにも友人はいる。しかし、思い出を振り返るとなったらやっぱりこの奇人を思い出す気がする。

「別にどちらかの教室でたわいない話をするだけでも浅田となら楽しいと思うよ。でもさ思い出に浸る時、そのシーンのすべてが閑散とした教室のすみっこだったら、なんだかがっかりすると思うんだよね。教室の隅に溜まった埃っぽい思い出しかないんだなって大人の俺だったら思うだろうから。だったら、いろんな天気でいろんな路地で、いろんな猫の記憶があったほうが彩られていていいじゃないか」

 俺は別に、教室の隅に溜まった埃っぽい思い出でもいいよ。そもそもそういう性質の方が近い気がするし。しかし、宇田川のこういった捻くれた性質にもなんとなく共感ができた。

「そんな打算的な考えがあったのか」

「まあ、単純に路地裏散歩してとりとめのないこと考えることも好きだしね。それをその場で君に共有できるということがかけがえないことも、嘘ではないし。僕にとっての青春はこれがいい」

 宇田川は俺に向かって微笑む。

 恥ずかしいことを臆面なく言える、その姿勢は羨ましかった。あのアテレコ動画を撮れる時点でこいつに羞恥心なんてものはカケラもないのだろうが。

「裏門っていうのもさ、なんかいいじゃん。ぼんやり待ってても他の生徒の邪魔になんないし、よくわかんない道祖神もいるし。僕あいつにたまに花供えてるんだよ」

 もしかしたらいつか供えられていたあの赤い花も、宇田川が供えたものかもしれない。それを本人に聞いてもきっとはぐらかされてしまうだろう。

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