3:鳩波家の子息

椅子に腰掛けてしばらく

先に口を開いたのは、玄さんの方だった


「誠に申し訳ない」

「あ、いや。気にしないでください。ほら、ピンピンしていますし」

「それならいいのですが…あの」

「ああ。自己紹介が遅れましたね。燕河蒼時です。帝都新聞の歌劇部門で記者をやっています。以後お見知りおきを」

「燕河さん。私は鳩波玄。こちらは母の鳩波菜穂子。紫苑から聞いていると思いますが…私たちは気にしませんので、普通にされてくださいね」

「ありがとうございます。しかし、これが通常なので」

「なるほど。ところで、帝都新聞の歌劇部門と言えば、帝都の観劇者界隈で必須とも言われる歌劇報の編集部ですか?」


歌劇報

燕河さんの雇用先である帝都新聞社が発行している帝都の演劇及び歌劇に特化した報道紙だ

劇団の情報や、劇に関する質疑応答などが掲載されているそれにはかつての私たちもよくお世話になっていた


「ええ。まさかとは思いますが…」

「私も愛読していますから。まさかこんなところで記者さんとお会いできるだなんて」

「いやいや。こちらこそありがとうございます。まさか華族の方にもお目通りが叶っているとは…光栄です」

「紫苑から聞いていると思いますが、私は身体が丈夫ではなく…外に出歩ける日が少ないのです。燕河さんが携わっている歌劇報は出歩けない私が紫苑たちの舞台に関する情報を手に入れることができる代物ですから。いつもお世話になっています」

「そうでしたか…。嬉しい言葉をありがとうございます。今後も頑張りますね」

「ええ。よろしくお願いします」


…燕河さんには言わない方がいいことが一つある

鳩波玄は歌劇報の「舞鳥」に関する記事しか読んでいない

まあ、彼は「紫苑たちの舞台に関する情報を得ている」と言っているし…暗に「舞鳥以外の情報はどうでもいい」と言っているようなものか

燕河さんはそれに気がついてはいないけれど

ついでに、彼は舞鳥の記事を創刊時代からスクラップしている

それも燕河さんには言わない方がいいだろう


「玄さん」

「ああ、母さん。そろそろ時間だね。では、私と母はここで失礼します。紫苑、燕河さんにあまり迷惑をかけないようにね」

「善処しま〜す」


とりあえず、こう言っておけば玄さんはニコニコ笑顔で引いてくれるはず

玄さんと菜穂子さんとは「家に帰ってから」話をすると約束して、私と燕河さんは二人の後ろ姿を見送った


「…なあ、鴇宮先生」

「なんでしょう」

「お前あれ恥ずかしくないの!?自分の書いたものを褒められるとか!」


どうせこの反応になると思ったから、玄さんには言わないでいたが…

燕河さんは歌劇報の「舞鳥専属記者」をしてくれている

つまりのところ、玄さんが好んで読んでいる上にスクラップにまでしている記事は…全て、燕河さんが書いた代物なのだ

照れくさそうに顔を覆う彼は足をバタバタさせ、その照れを地面に伝えてくる


「慣れですよ、慣れ」

「慣れんの!?」

「慣れます。慣れなきゃ作家なんてやれませんよ」

「鴇宮先生も、最初は恥ずかしいとか思ってた?」

「ええ。なんなら書いた作品は自分以外の目に触れることは一生ないと思っていたのですが…」

「ですか?」

「机に置きっぱなしにしていた原稿を、玄さんに見られましてね!あはは!」

「うわぁ!」

「当時は頭から血でも吹き出したのではないかと思うぐらいの羞恥心に飲まれました!」

「いやぁ!」


乙女のような仕草で顔を覆う彼の悲鳴もまた乙女

燕河さんは私と十歳離れた成人男性であるはずなのに…なんでしょうね。この敗北感は


「災難すぎるだろそんなの!」

「今でこそ転機だったと断言できますが、当時の私にとっては災難でしたね」

「ほうほう」

「見られたことはとても恥ずかしかったですよ。けれど、玄さんが言ってくれたんです。これを、私と君だけが知る物語にするのは勿体ないと」

「…へえ。それが今回の公演であり、再始動した舞鳥初回公演「自由の旅路」?」

「はい」

「なるほどなぁ。今度、鳩波のお坊ちゃんにお礼言っといてくれよ」

「なぜですか?」

「まあまあ。気にするな。とりあえずお礼だけ頼むわ」

「訳がわかりません…」


燕河さんはそう告げた後、劇場の敷地を後にしてしまう


「どういうことでしょうかねぇ」

「燕河さん、昔俺にこんなお礼を言ったんだ。「お前らの初演を見た日、自分も自由になろうって。将来を自分で決めてみようって思った」…と」

「朱音」


私を追いかけてきたのか、朱音が物陰からにゅっと出没する

いつからいたかなんて無粋な質問はしないでおこう

どうせ話の最初からいたのだ。今はそんなことよりも、話の続きだ


「自由の旅路は燕河さんにとっての転機なんだよ」

「そんなの初耳です」

「紫苑には言うなって言われていたから。でも、あんな言葉の少ない依頼をしてきたんだ。君だって理由がわからないまま鳩波さんにお礼を言うのは無茶だろう?」

「そうですね」

「だから俺が少し口添えを。鳩波さんの一言が無ければ君の戯曲は日の目を見ないままだった。つまり燕河さんも転機を失い、軍人家系の三男として言われるがまま軍人になっていたんじゃないかな」

「…」

「今の彼がいるのは紫苑の戯曲があったからこそだけど、鳩波さんの一言も必要だろう?だから鳩波さんにお礼を言って欲しいと俺は思っているよ」

「…それなら自分で言えばいいのに」


それに自分の転機だとか言っておきながら、燕河さんは私にお礼の一つもしてくれていない

それを演じた朱音や、おそらく団長の春子さんにも告げているだろう。彼はああ見えて律儀な人だから

それに、初対面で玄さんにもお礼を言おうとしている

きっかけである存在だ。お礼を述べたくなる気持ちを理解できないわけではないけれど

…私だけ何も知らなかったのは、寂しいです


「華族と一般市民…その身分差は、君が思っているよりとても大きいものなんだよ、紫苑。そう簡単に会えるような存在ではないし、会話だって難しい」

「同じ世界に生きているけれど、別世界の人間のような」

「そうだね。それはとても悲しいことだけど、今は仕方のないことだから。君が橋渡しになってくれた方が、燕河さんも確実にお礼を伝えられるし」

「…はい」


「なんだか寂しそうだね」

「だって、朱音には事情を話していたのに…私には何一つ事情を教えてくれなかったので」

「いつか、自ら話してくれるはずだよ。君がもう少し大きくなって、燕河さんが大人らしい大人になってから…絶対に」

「…そうですかねぇ」

「うん。俺が保証するよ」


朱音は十五歳なのに、妙に達観している気がします

役者という人間は皆そうなるのでしょうか

…それならあの女もまともであるはずなのですが


「さて、紫苑。そろそろ」

「ああ、そんな時間でしたか。お客様もお帰りになりましたし…そろそろ仕事を始めないといけませんね」


ただ、その一言だけで気持ちが変わる

普通の日常は、ここまでだ


「しかし、朱音」

「何かな?」

「先程の言葉が、貴方の考えならば…貴方も、その」

「ああ、身分差のこと?確かに気にはしているけれど…」

「朱音は私が華族と知っていても態度が変わりませんよね?どうして?」

「紫苑は相棒だから。それでいいじゃないか」

「なるほど」


その理屈でいいのかと問いたいが、彼がそれでいいというのならそれでいい

私も、その方が気を楽にできる

劇場内に入り、先程まで人がごった返していた空間を進み…私たちは舞台入口に立つ

ここから先は、非日常

私たちの、戦場だ


「さて、紫苑。ここから先は戦場だよ。覚悟はいいかい?」

「勿論。頼りにしていますよ、相棒」

「こちらこそ。背中は任せてよ、相棒」


二人で扉を開く

その先では、共に戦場を駆け抜ける仲間が私たちの帰りを待っていた

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