雨天絶叫

宵埜白猫

雨天絶叫

 会社からの帰り道、雨で混む地下鉄に乗り込んで発車を待つ。

 人が多いこと以外は特に代わり映えのしない光景。

 あと何年これが続くんだろう。

 私はイヤホンを耳に当て、暗く沈みそうになる思考を音楽で上書きした。

 陽気な音楽の奥で、周囲の人のざわめきが聞こえる。

「ねぇ、あれ……」

「絶対やばいよね……」

 部活終わりと思しき女子高生も胡乱なものを見るような目で、車両の外をうかがっていた。

 私がそれに気づいたのは、様子が気になり音楽を止めたのと同時だった。

「あぁぁぁぁあああぁぁああぁぁぁぁぁぁぁああああ!」

 耳に飛び込んできたのは、形容しがたい絶叫。

 怒りとも恐れとも取れないその声は、妙に私の胸をざわめかせた。

 本能がその声に対する理解を拒絶する。

 これ以上聞いてはいけない。

 理由は分からないが、そう思った。

 音楽をかけてごまかそうと画面に指を伸ばしたその時。

 声の主が現れた。

 髪を金色に染めた二十代ほどに見える男。

 持っているのはショルダーバックが一つ。

 服装もラフだが、清潔感のある恰好だった。

「あああああぁあぁあぁぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁああぁ!」

 腹を抱えるように体を曲げて、絶叫。

 スマホに伸ばした指が、空中で停止する。

 理由ははっきりと分かっていた。

 目の前にいる理解不能な男に対する、恐怖だ。

 お願いだからそのまま通り過ぎて。

 私の願いも空しく、男は車両のドアを潜った。

 周りにいた人達はそれとなく男から距離を取った。

「大変お待たせいたしました。まもなく発車いたします」

 得体の知れない男を乗せたまま、車両のドアが閉まる。

「あああぁぁぁあああぁぁぁああああああぁぁあぁあぁあ!」

 男はしばらくドアに手を置いていたが、ゆっくりとそこを離れ、車内を徘徊し始めた。

 絶対に目を合わせてはいけない。

 目を合わせた瞬間、男は私の世界に居場所を持ってしまう。

 こうして接触していない間は、あくまで私とは無関係なのだ。

 たまたま同じ車両に乗り合わせただけの赤の他人。

 一週間もすれば忘れる相手だ。

 無難にやり過ごそう。

「あああぁぁああ……」

 パタパタと音を鳴らしながら、男が私の前を歩く。

 私は早鐘を打つ胸にそっと手を置いて気を静めた。

 しばらくして、車内に次の駅に到着するというアナウンスが流れた。

 そういえば、やけに静かだ。

 車内の様子を伺おうと顔を上げた瞬間。

「ひっ!」

 あの男と目が合った。

 どこを見ているのか分からない濁った眼だったが、その直線上に私がいるのは確かだった。

 男の体に力が入るのが分かった。

 ゆらりと、彼の足が前に出る。

 口元が震えている。

 私はただ目を閉じて拒絶することしかできなかった。

 今更もう、遅いかもしれないが。

「あああああぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁあああぁあああああああああああああぁぁああああ!」

 男の絶叫が次第に近づいてくる。

 正面から聞こえた声が耳元で響いたとき、違和感を覚えた。

 遠ざかっていく。

 絶叫は続いているが、明らかに声は遠くから聞こえるのだ。

 そっと目を開けると、もう男はそこにいなかった。

 どうやらホームに降りたらしい。

 ……助かった。


 その後も妙な緊張感を抱えたまま、私は乗り換えの駅に降りた。

 さっきの数分間が、ただでさえ仕事で疲れていた体をさらに重くした。

 上げるのもやっとの足で、長い階段を上る。

 乗り換えの改札を通り、ホームへ。

 ここで電車を捕まえてしまえば、あとは十五分程度で家の最寄り駅に着く。

 今日は強めの酒でも飲んで早く寝よう。

 幸い明日は休みだ。

 前に買ったウィスキーを開けるとしよう。

 そんな思考で不安を中和する。

「まもなく、電車が到着します。黄色の線の内側まで下がってお待ちください」

 聞きなれたアナウンスとともに、電車の走行音が響いた。

 線路を打つ雨は、その勢いを強めている。

「この電車は――」

 到着した電車の案内をかき消すように、その声は響いた。

「うわぁぁぁぁあああぁあぁあぁぁぁ!」

 先ほどと同じく、感情を汲み取ることができない、不快な絶叫だった。

「うぉおおおぉぉおぉおおおおおおおぉおおおおお!」

 先ほどと違うのは、叫んでいるのがスーツを着た老齢の男性であること。

 そして手に持ったバッグと服装から見て、おそらく仕事帰りであろうことだ。

 当然、彼の周りに立つ人達の視線も湿度が高くなる。

 幸い、近づいてくる気配はない。

 頭が地面に着きそうなほど背中を反らして叫ぶ男性を一瞥して、私は彼から離れた車両に乗り込んだ。

 ドアが無事に閉まるのを確認して、私の口からため息がこぼれた。

 今日はとんだ災難だった。

 特に何をされたわけでもないけど、無駄に警戒したせいで気疲れがひどい。

 あとはこのまま何もなく家に帰れればいいけど……。


 私の不安とは裏腹に、電車はなんのトラブルもなく最寄り駅に到着した。

 それが普通とはいえ、あまりにも平和に着いたものだから、ホームを降りて念入りに周りを確認する。

 誰も叫んではいない。

 不審な動きをしている人もいない。

 そこまでしてやっと、いつの間にか入っていた肩の力が抜けた。

 それにしても、不思議なこともあるものだ。

 乗り換える度にあんな人がいるなんて、偶然にしても気味が悪い。

 せめて最寄り駅にはいなくてよかったと考えたところで、ずきりと頭が痛んだ。

 その痛みは、ゆっくりゆっくりと広がっていく。

「あ……」

 苦悶の声が小さくこぼれた。

 それと同時に、広がっていく痛みの正体に気づいた。

 これは、情報だ。

今日の仕事でミスをしていた部分マカロンの作り方ゲティスバーグ演説小学生の頃片思いしていた相手の思い人恐竜絶滅のビッグファイブ光源氏の正体自分の余命ポメラニアンの生態死後の世界日本の少子高齢化を止める方法愛媛で一番おいしいレストラン憎んでいる相手が今どこで何をしているのか今後どんな人生をたどってどんな死に方をするのかユーマの正体ピラミッドの謎おいしいお米の炊き方バビロンの空中庭園の作り方寝るのに一番効果的な時間人生で夢を叶えるための選択肢がいつどこにあったのか……

 情報の種類は雑多で、収まる気配がない。

 過去も未来も現在も関係なく、この世界のあらゆる情報が頭の中に流れ込んできているのだ。

 とにかく、帰って横にならなければ。

 前を向くと、周りの人間がみんな私を見ていた。

 その視線には覚えがある。

 それにさっきから聞こえるこの音。

「あぁぁああいぁあぁぁあぁぁぁあぁあぁぁ!」

 流れる情報の奥で聞こえるこの絶叫は、聞き覚えがある。

 止む気配のない雨の中で、怒りとも恐怖ともつかない、不快な叫びをあげているのは、私だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨天絶叫 宵埜白猫 @shironeko98

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ