ビューティフルドリーマー
青樹空良
ビューティフルドリーマー
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
「とうとう、あと七日か」
夫がテーブルの上に広げた新聞に目を落としながら呟く。
「コーヒー、おかわりいる?」
「お願いできるかな」
夫が目を細めて微笑む。目を細めなくても深い皺が一段と深くなる。髪の毛はほとんど白髪で、てっぺんはかなり薄くなっている。
「はい」
「ありがとう」
コーヒーを彼の前に置く。彼の向かいに座って、彼を眺める。
テーブルから、ゆっくりとした動作でマグカップを取る夫の皺だらけの手。
「新聞、もういい?」
「ああ、最後まで新聞が発行されているのは有り難いことだね」
「そうね」
毎朝、新聞を読むのは夫の日課だ。定年を迎えてからは前よりもゆっくりと新聞が読めると喜んでいた。今は彼が読んだあとに私が目を通すのが習慣になっている。
私は新聞に手を伸ばす。嫌でも目に入る私の手。
夫とは全く違う。白くてすべすべの、綺麗な手。水だって余裕ではじく、若い肌。
「君はいつも綺麗だね。一緒にいられて本当に幸せだった」
夫がこちらを向いて言う。
「あなたも素敵よ」
「お爺ちゃんだよ」
さみしそうに夫は言う。
「お爺ちゃんでいいの。本当に素敵なんだから」
本当に伝わっているのかしら。歳を重ねてきたあなたが、私にはとても素敵に見えるのに。
深く刻まれた皺も、曲がってきた背中も、歳を重ねてきた証。
私にはそれが愛おしい。二人が重ねてきた歴史が、そこには刻まれているような気がする。
◇ ◇ ◇
「大丈夫? ゆっくり歩きましょうね」
夫と二人で買い物に出掛ける。乾いた夫の手を引きながら、ゆっくりと並んで歩く。
幸い、近所の大型スーパーはまだ営業してくれている。
世界が終わる時なんてそんなものなのかもしれない。人は、いつもの生活を一番大切だと思っている。最後までそれを続けたいと思うものなのかもしれない。
私もそうだから。
前から来る若いカップルが私たちをじっと見ている。すれ違うときに聞こえた。
「うわ、かわいそう。もうすぐ世界が終わるってのに爺さんの世話なんて」
「ホントホント。最後くらい好きなことすればいいのに」
「てか、爺さんなんてもう死ぬはずだったんだから放っとけばいいんだよ」
確認するまでも無い。私たちのことだ。
「あー、よかった。アタシは世界が終わるまで好きな人と離れずにいられるんだから」
勝ち誇るような女性の言葉に向かっ腹が立った。
文句の一つでも言ってやろうと、私は夫の手をほどいてカップルに向かって口を開き掛けた。けれど、ほどいた私の手を夫が掴む。見た目からは想像できないような強い力で。
「いいのいいの。言わせておけば」
「……でも、私、悔しくて」
「君は本当にいつまでも若いんだから。血気盛んなところまでね」
フフっと穏やかに夫が笑う。
「そうかしら」
「そういうところが好きなんだ。昔から。でもね、いいじゃないか。他の人からどう見えたって。僕たちだってあの人たちと同じじゃないか。世界が終わるまで離れずにいられるんだ。もちろん、君もそう思っていてくれたら、だけど」
「思っているに決まってるじゃない」
「そうか。それなら嬉しいよ」
はにかむように夫が目尻を下げる。
私もようやく溜飲が下がった。自分ではお爺ちゃんだなんて言っていたくせに、人に言われるとそうやってムキになるんだから。だけど嬉しい。そんな風に思っていてくれたなんて。
やっぱり私はこの人がずっと好きだ。若い頃と変わらずに。私は夫の手をそっと握り治す。残り少ないデートの時間を無駄にしたくない。
ショーウィンドウの窓ガラスに私が映る。
結婚してから五十年以上が経つというのに、夫と同じように歳を取ってきたはずの私は、まだ二十代の娘の頃と同じ姿をしている。そのことが私は寂しい。
本当なら、同じように歳を取っていけるはずだった。あの病にすら罹らなければ。
不老不死病。私がその病だと知ったのは、いつまで経っても変わらない外見に疑問を持ったことがキッカケだった。年相応に老いていく夫に比べて、成長していく子どもたちに比べて、私はいつまで経っても若いままだった。
二十二世紀になってから確認された、まだ治療法も発症の原因すら解明されていない病だ。細胞が劣化しないことから不死、とは付けられているがまだ本当に不死なのかはわからない。なにしろまだ研究が進んでいない。発症例が少ないということもあるが、まだ新しい病気なので、研究が道半ばというのもある。
最初に発症した人がまだ死んでいないことが確認はされている。その後発症した人の中で死人はまだ一人も出ていない。大きな怪我をしても、病気をしても、不老不死病に冒されていない人に比べて治癒能力がとても高くなっているらしく死ぬことが出来ないそうだ。それで、不老不死病と呼ばれている。
年齢的にはすでに八十近いはずの私も、まだどこも衰えておらず大きな病気一つせずに生きてきた。きっとこのままいけばいつまでも生き続けてしまうのだろう。それが何百歳になるかまではまだわからない。
一部の人は罹ることを望んでいた。私にも理解出来なくは無い。ずっと若い肉体のまま、長い人生を生きられるのだ。人類の夢だと唱えている人もいて、どうすれば罹ることが出来るのかと研究する人もいる。
だけど、本当にそれは幸せなことだろうか。
人類の夢、なのだろうか。
年相応に老いた夫を見て思う。ずっと思っていた。私は、この人と一緒に歳を取りたかった。共に死にたかった。
◇ ◇ ◇
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと一日になりました」と言う。
いつものように夫と二人で朝食を取る。いつもの光景。とても幸せな、私の日常。
いつかこの人に置いて行かれてしまうのではないかと発症してからずっと、それだけを恐れていた。
この日常に、あなたがいないことが怖かった。
「ああ、よかった」
「何が?」
「今日が世界の終わりの日で、よかったの」
日に日に、死に近付いていく夫を見ているのが怖かった。
この人のいない人生を一体何百年生きなければならないのかと心配で。
この日をずっと待っていた。世界の終わりのカウントダウンが始まってから、ずっと。
電源が切れるようにこの世界自体が終わってしまうらしいから、夫も私もきっと同じように終わることが出来るのだろう。
それ以上の幸せがどこにあるというんだろう。
テレビの中からニュースキャスターが「悔いの無い一日を」と言う。
私は夫に最後のコーヒーを差し出す。
夫は目尻に深く刻みながら微笑む。
私は彼に微笑み返す。
◇ ◇ ◇
「幸せそうですね」
私はモニターを見ながら、ため息を吐く。この言葉を口に出すのはもう何度目なのだろう。
「そうだな」
同僚はすでにモニターに目すら落とさない。でも、私は気になってしまう。それに、これは研究の一環でもある。患者の脳内の様子を観察すること。今日も問題は無い。
分厚い窓ガラスの向こうで頭部に電極を装着されてベッドに横たわっているのは、今モニターに映っていた女性だ。夫が亡くなった悲しみに耐えられず、それでも生を終わらせることが出来ない事実に苦しみ抜いた結果、彼女は覚めない眠りにつくことを早々に選んだ。
彼女がここで眠りについてからすでに百年以上が経過している。
不老不死病。その研究は未だ続けられている。最初の発症者が出てから随分と時が流れたが、治療法は見つかっていない。我々人類に出来ることといえば、こうして患者を眠らせておくことくらいだ。もちろん、まだある程度の年齢に達しておらず、自我を保っている患者は別として。
肉体と精神の寿命は概ね一致している。不老不死病という病が人類を襲うことが無かったら、きっと人類はそれを知ることは無かったのだろう。
不老不死病に罹ったものは肉体的に死ぬことは無い。ただし、じわじわと精神を蝕まれていく。年齢が二百歳を越えたあたりでほぼ全ての患者は精神崩壊を起こす。つまりは廃人になる。
それが不老不死になるということだ。それはもはや夢では無く、悪夢としてここに存在する。
「しかし、ろくでもないことをしてくれたもんだよな」
「ですね」
同僚の言うろくでもないこと。それはこの患者たちを生み出してしまった処置のことを言っている。本当にろくでもないことをしてくれたとしか言いようが無い。もちろん、最初から不老不死の人間を作ることが彼らの目的では無かった。問題は結果だ。
そもそもの発端は少子高齢化の問題だった。現役世代の減少に歯止めがかからず、人口は減少の一途を辿っていた。その時代では現代よりも深刻に考えられていたらしい。
最初はただ子どもが産める世代の、その時期の肉体年齢をほんの少し延ばそうということが目的だった。
生物の身体を構成している細胞には寿命がある。細胞の中にあるDNAは分裂を繰り返すことで段々と短くなっていく。そして、限界の回数を超えることで最後には細胞は分裂することをやめる。いわゆるヘイフリック限界というものだ。これは老化にも係わっていて、DNAが短くなればなるほど老化は進むし、病気にも罹りやすくなる。
これをほんの少し操作し、細胞分裂の限界回数を増やすことで老化を遅らせる。そうすることで子どもを産める時期を延ばす。健康寿命を延ばす効果があり、若い肉体を維持することが長く出来るようになるのだからいいことづくめだ。研究により安全性は確認されたとして、処置は全ての新たに生まれてくる子どもたちに施された。度重なる動物実験や、その後の治験によって確かに安全性は確認されたはずだったのだ。その時点では。
そして、現代ではすでに廃止されている。廃止されたのは副作用が確認されたからだ。
そのほんの少しだけ操作した遺伝子。そこに予期しない変異が起こるなど、その時の研究者は誰も予想していなかった。それが後の不老不死病を生み出すことになるなどと。
最初に生まれた世代には何も問題は無かった。問題はそのしばらく後に生まれてきた世代だ。不老不死病が確認された当初は、原因すら特定していなかったというから無責任なものだ。突然変異的なものだと議論されていたらしい。全ての人が罹るわけでは無く、患者がごく少数だったため原因を特定するまで時間がかかったと言われている。
彼らはある一定の年齢まで成長すると成長が止まる。成長が止まるというのは語弊がある。老化が止まる。彼らは若い肉体のままの細胞を維持することが出来る。老化は止まり、寿命はほぼ無くなるに等しい。健康な細胞を維持する能力が強いため、病気にも罹らず怪我もすぐにふさがる。
患者が出始めた当初は夢のような病気だと思われた。むしろ人類の進化だと。精神の寿命というものが明らかになるまでは。
今でも少数だが新たな患者は生まれている。発病すら未だに抑えることは出来ていないのだ。
「治療法が見つかる日は来るんでしょうかね」
「他人事みたいに何言ってんだよ。その為に俺だって頑張っているんだろうが」
「ですね」
「とはいえ、こんなに研究が進まないとな。諦めたくもなってくるってもんだ。一度限界を超えることを覚えてしまった細胞は次々と変異を繰り返して新しい治療法を考えたところで結局イタチごっこだ。自分たちの作りだしたものだってのに止める手立てが無いなんて皮肉なもんじゃないか。なにしろ食べ物すら摂取しなくても、限界を超えて増殖した自らの細胞を元に新しいエネルギーを生み出して生きていられるなんてもはや化け物に等しいじゃないか」
お手上げ、と言わんばかりに肩をすくめる。
「言い過ぎですよ。彼らだって人間です。諦めるわけにはいかないでしょう」
「悪かったな。しかし、昔の科学者ってのは何を考えていたのかね。俺たちの仕事はもう先人の尻ぬぐいばかりだ。自分たちの手に負えないもんなんて作り出すもんじゃないとつくづく思うね」
同僚が溜め息交じりに言う。私も同意見だ。
不老不死病の治療は、もはや半ば諦められている。研究は遅々として進まず先人たちは匙を投げた。その結果、患者に幸せな夢を見せたまま眠らせておくという処置が行われているという訳だ。狂ったままの彼らをそのままにしておくよりは人道的だ、という考え方に基づいてのことらしい。それもわからないでもない。
しかし、生み出しておいて、後は未来を生きる人間に投げっぱなし。それで済むとでも思っていたのだろうか。少しは後のことも考えて欲しかった。
モニターの中では二人が手に手を取って世界の終わりを迎えようとしている。夫と見つめ合う彼女の幸せそうな顔を見ればそう思わずにはいられない。繰り返し繰り返し、彼女は自分の望む世界の終わりを夢に見ている。
私はそれを本当の終わりにしたい。その世界の終わりを、彼女の終わりを。それが不可能であると言われていても。
そうすれば、あなたに続く私も救われる。
「おやすみなさい。お母さん」
いるかどうかもわからない神様に願いながら、私はモニターを切った。
ビューティフルドリーマー 青樹空良 @aoki-akira
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