燃え尽きた②

そんなこんなでAM9:55、私達は身支度を整えて、橋田くんのお宅の前に着いていた。学校からバスで10分ちょっと、という場所にあるその二階建ての一軒家は、町の再開発から逃れるように少々ひっそりとした場所に建っていた。でも、きっと豊かなコミュニティがあるんだろうな、と想像される掲示板やポスターが沢山見られる。橋田くんのお宅もその印象に違わず、築年数はある程度経っているだろうけど、広めのお庭にはちゃんと整備された花壇があって、明るい雰囲気だった。


凛太朗先輩は用意した手土産を持って、門扉に取り付けられたインターホンを押した。ぴんぽーんと軽い音がして、ややあって、スピーカーから女性のか細い声が聞こえる。

あまりにそれが聞き取りづらくて、凛太朗先輩はスピーカーに耳を近づけ、私と愁先輩は顔を見合わせた。

「どちらさまでしょうか…」

昨日さくじつお話をさせていただいた、連城高校生徒会の鍵塚凛太朗と申します。息子さんのことを詳しく伺いたく、生徒会役員二名と共に参りました。」

「あぁ…」

何だか落胆したような声だった。もともとハリの少ない声がさらに小さくなって、もうほとんど聞こえない。

「どうぞ、お入りください…」




門扉を通り、玄関のドアを開けてくれたのは橋田くんのお母さまだった。家の外観から受ける印象とは打って変わって、お母さまは酷く痩せこけていて、見るからに憔悴していた。私達はとりあえず客間に通されて、座敷に座って待っていてと言われた。

綺麗に整えられていて、電気も問題なく明かりを灯しているのに、この部屋はなぜか暗い雰囲気で満たされている。息苦しさを感じるまであるかもしれない。ちゃぶ台の前に、襖に近い順から愁先輩、凛太朗先輩、私と座る。言いたいことはたくさんあるけれど、とりあえず静かに待っていた。

少しすると、お母さまが戻ってきて、お茶と茶菓子をお盆に乗せて持ってきてくれた。私達の正面に座って、私の方からお茶を配ってくれる。愁先輩の前に湯飲みを置こうとしたとき、ふいにお母さまの指がつんのめって、湯飲みが倒れ、愁先輩の胸あたりにばしゃっとお茶がかかってしまった。凛太朗先輩が素早く湯飲みを置きなおすけれど、中身は半分くらいこぼれてしまった。

「申し訳…ありませっ…」

お母さまは湯飲みを持っていた手をちゃぶ台に突いて、肩を震わせていた。もう片方の手で顔を押さえているけれど、その指の隙間からしずくがぼろぼろと零れる。

「息子は…今…どうしているかと考えると…」

何の言葉も出ない私の向こうで、愁先輩は学ランを脱ぐと、お母さまの隣に行き、そっとその肩を抱いた。

「大丈夫です。…僕達が、全力を尽くします。」

その声を聞いて、凛太朗先輩は大きくうなずく。お母さまはもっと大きな声を上げて泣き出した。嗚咽ともとれるその声を聞きながら、私は、自分の心がかけらも動いていないことに気が付いて、体を固くしていた。

凛太朗先輩も、愁先輩も、お母さまの心境が分かるんだ。…私には、全然わかんない。親って、こんなに子供のことで一生懸命になるものなのかな…。




お母さまが落ち着いてから、私達はもう一度仕切り直しということで自己紹介をした。ちなみに愁先輩の学ランは乾燥にかけてもらっていて、今、先輩は黒いタンクトップ一枚だ。なぜか生徒会は一年中冬服(学ランとセーラー服)を着ていないといけない決まりだから、こんな事態になったのに、合法的に学ランを脱ぐことができて愁先輩はちょっと嬉しそうだった。


「昨日、お話を伺いました、連城高校・生徒会会長の鍵塚凛太朗です。」

まず初めに、折り目正しく凛太朗先輩が挨拶をする。”鍵塚”という苗字を聞いて、多分日本国民の80%が思い浮かべるのが『鍵塚グループ』だろう。旧華族の家系らしく、戦前は大手財閥としてその名を馳せたとか。今でもその圧倒的資金力・企画力はすさまじく、金融業を中心として、建設、造船、工場内製作なんかを手掛けている。

先輩はその本家次男。跡取りではないものの、鍵塚の血筋の者として厳しく育てられたことがよくわかる。

案の定お母さまも「やっぱり…あの、鍵塚グループの…」とびっくりしている。凛太朗先輩はいつもの苦笑いでほんのすこしだけ頷いて見せた。

「生徒会副会長の上杉愁と申します。」

その横で愁先輩がきれいなお辞儀を披露。先輩は、凛太朗先輩とは違う方向で有名人だ。ついこの前まで生徒会と共にバスケ部も兼任していて、エースだった。一年生の頃からスタメン入りして、この学校を全国制覇へと導いた。しかもMVP選手のオマケつきで。我が校始まって以来の快挙だったらしく、その勢いで功労賞もゲットした(ちなみに連城高校の功労賞は三年間学校に通って、一度受賞者を見ることができたら奇跡と言われるくらい審査が厳しい。受賞者が10年以上出なかったときもあったとか)。

その上にこのため息が出るくらいのビジュアル。さすがにお母さまが動揺を見せることはないけれど、うちの生徒だったら、耐性がないと鼻血を出す人もいるほど。

こんな二人に紛れて、何だか肩身が狭いなぁと思いながら、私もできるだけ背筋を伸ばして腰を折った。

「同じく生徒会副会長の高宮果子です。」

「女の子なのに生徒会なんて…本当にすごいですね。」

嫌味でこういうことを言ってくる奴もいるけれど、お母さまは一切の含みもなく、私に笑いかけてくれた。さっきまで取り乱した姿だったけれど、本来はこういう、温厚で包容力のある方なんだろう。

お母さまの言うことは全然間違いじゃない。生徒会はそもそも、全校生徒が参加する全校生徒選抜武闘大会を勝ち抜いた七人のメンバーで構成されている(もちろん辞退することも可能。ただ、全校生徒に参加権利があって、武道等何かの格闘技の経験がある人がほとんどである上に、そこで功績を残した生徒は生徒会だろうがそうでなかろうが成績や評価が上がるともっぱらの噂なので、大抵の人は参加する。ちなみに理紗は辞退した)。男も女も関係なくトーナメントが組まれるから、どうしようもなく、女子生徒は早期退陣を余儀なくされることが多い。しかも生徒会三役は大会での順位に応じてあてがわれるので、三役に女子がいることなんてめったにないだろう。とにかく、そんなこんなで、私は今年の選挙で最終順位二位となって、第一生徒会副会長の役を手にした。


「では、お母さま。」

凛太朗先輩が切り込む。自然と前のめりになって、耳をすませた。

「橋田くん…のことについて、教えていただけませんか。」

お母さまは小さく目をしばたたかせた。その瞼からまた、ぽろりと、悲しみのしずくが落ちていった。




「息子は…あの日、最後に顔を見た日、…確かに、家にいたはずなんです。」

空気に混じるような声を、何とかして聞き取る。お母さまは、溢れてくる涙を止めることができないらしく、ボックスティッシュから引き出したティッシュペーパーを綺麗に折りたたんで、時々目元にあてがっていた。

「それは、どういうことでしょうか。お宅にいらっしゃった、ということは、息子さんは、お母さまが気づかない間に外出されてしまった、ということでしょうか。」

「いえ…」

愁先輩の(似合わない)丁寧な敬語に対して、お母さまは消え入るような声を返した。

「今も、息子の靴はシューズボックスに入ったままなんです。

バンドの練習から帰ってきて、『あともう少しでライブだ、これまでで一番大きい会場でやるんだ』って、楽しそうに言って、部屋に入って行って…。

2,3時間後に晩御飯だって呼んだら、返事がなかったんです…。そのときはまた、どうせ昼寝でもしてるんだろうって思って、大したことを考えずに、二階の、息子の部屋に行って、そうしたら…」

言葉を詰まらせたお母さまは、また大きくむせび泣いた。

「息子だけがいないんです…ギターも楽譜も全部そのままで、ベッドに座っていたあとまでくっきりついているのに、いないんですっ」




私は想像する。いつもの生徒会室。定例会議に行く道中。私は大抵一番最後に生徒会室に着くことが多い。歩きながら、色んなことを考える。七聖先輩、よしよししてくれるかな。真白はまた私を妙なテンションでからかってくるんだろうな。凛太朗先輩と愁先輩はいつものように達者な口で言い争いしてるだろうな。当たり前の景色を思い浮かべながら扉を開けると、そこには誰もいなかった。椅子も書類もさっきまでいた気配が濃厚に漂っているのに、肝心の本人達だけがいない。ただ、残っていたのは…




私は自分の背筋が震える感覚を思い出した。日常が奪われたその瞬間、普通に存在しているだけの自分こそが異質な存在に思えてしまう。その恐怖なんて、きっと、想像したくらいで到底味わえるものではないんだろうけれど、

「…そうですか…それで、残っていたのが、あの、写真の…」

凛太朗先輩がおずおずと聞く。そうだ、重要なのは…。

お母さまはもう声にならないらしく、こくこくと首だけで頷くと、一度大きく深呼吸をしてから、私達に立つよう促した。

階段を上って、案内された先は二階のとある部屋。お母さまが、両手でドアノブを捻る。

案の定、そこは橋田くんの部屋だった。お母さまを先頭にして中に入ると、そこらじゅうに散らばった楽譜や綺麗なままの教科書なんかが目に付く。ほとんど条件反射のように、”抜け殻”という言葉が脳裏に浮かんだ。

「たった今、この瞬間だって、息子が戻っているかもしれないと期待している自分がいるんです。」

そう言ってお母さまは力なく床に座り込んだ。咄嗟に愁先輩がしゃがみ込んで、背中を支えようとする。その手を、お母さまはもったりとした動きで押し戻した。


「私、あなたのことを、息子だったらいいのにと思ったんです。」


はっとした愁先輩は手を引っ込める。その様子を見て、お母さまは諦めたような悲しい笑顔を浮かべた。

「息子はあなたみたいに白い制服を着れるような優秀な子ではありません。それでも、私にとっては唯一無二の、大切な子供のはずだった…」


「それなのに、息子と背格好が似ているあなたを見ていたら、違うとわかっているのに、息子と一緒にいるような感覚になれたんです。

こんなことしてはいけないと、理解しているつもりだったのに、”制服を脱いでもらったら、どれだけ似ているだろう”だなんて、思って…」


痛々しい涙がお母さまの痩せこけた頬を伝っていく。凛太朗先輩は指だけで、愁先輩に”距離をとれ”と合図をした。

「この部屋は、息子がいなくなったときから、一度も入っていません。も、そのままにしてあります。

どれだけ荒らしてもいい、部屋ごとひっくり返してもらったってかまわない。

ただ、息子を返してください。お願いします…お願いします…」

うわごとのようにお母さまは『お願いします』を繰り返しながら、足を引きずるようにして出て行った。


残された私達三人は、あっけにとられて、しばらく動けなかった。本当はここに、あの扉の裏に隠れているであろうギターケースを見に来たのに、それが頭の中から出て行ってしまうくらい、衝撃的だった。

家族が欠けるって、あんなに人の心を傷つけるんだ。もうこれは私でもわかる、その気持ちを知っている知っていないではなくて、ただ本能にきりきりと詰め寄る痛みだった。

だから、だからこそ私達は、ちゃんと仕事をしなければならない。厳しい現実にも向き合って、あるべきものをありのままの姿へ。


「愁、大丈夫?」

真っ先に正気を取り戻したのは凛太朗先輩だった。声をかけられた愁先輩は、びくっと体を震わせた後、唇の先だけで少し笑って見せた。

「あぁ…気にするな…」

そう言いつつ、さっき学ランを脱いで涼しくなったはずなのに、なぜか冷や汗をかいている。顔色も青白くなっていた。気丈に振る舞っていても、きつさが誤魔化せない、そんな様子だった。

これは長くはもたない。早く撤退しないと。

凛太朗先輩も同じ気持ちだったらしく、さっそくというようにドアノブに手をかけた。


扉がゆっくりと動き、その陰に隠れていたギターケースが顔を現す。その姿はあの写真と全く同じ角度、位置、色味で、本当に”一度も入っていない”のが容易にわかった。

が目に入る。もまた同じく、写真と寸分違わず、同じ様子で横たわっていた。

を食い入るように見つめる。もはやここまでくると、”怖い”だなんだと言っている場合ではなく、ただただ探究心でいっぱいだった。

実際に見たは、やっぱり手のひらと同じか少し大きいくらいだったけれど、想像より細かった。ここまで近づくと、黒いと思っていた見た目は、火で燃やされた焦げ跡だったのがわかる。人体の一部にしては不可思議なパーツ。それが妙に自分を安心させた。


凛太朗先輩は意を決したようにに近づく。私もそのあとに続くように踏み出そうとして、体を動かした瞬間、頭がぐわりと揺れた。

辛うじて踏みとどまる。それでもめまいは止まらず、むしろひどくなっていった。何で、こんな大切なときに…。せめて凛太朗先輩には気づかれませんように。そう思いつつ、全身にありったけの力を込める。

触れてはいけない、そう気づいたのはいつごろだったか。めまいと必死になって戦っている間に、この原因は何かと考えていて、突発的に頭に浮かんだのがそれだった。

人間の本能、それは時として理論を超える、だなんてノー勉で挑んだテストの開始3分前に理紗に言ったことがあったっけ。そのときの”本能”の力は散々だったけれど、今ならはっきりと分かる。これ、だめなやつだ。

「り…」


「これ…」

りんたろうせんぱい、と言いかけたその時、先輩は声を漏らし、こちらを振り返った。幸いにも、凛太朗先輩は謎のめまいには苛まれていないらしい。

「これ、ふ…果子っ」

安心したとたん、力を入れて張りつめていた体から何かがすとんと抜け落ちる感覚がした。あ…これ、本気でだめなやつだ。目を閉じながら、私は床に向かって落ちていく。


死んじゃうのかな、私。どうせなら世界くらい救って死にたかった。


脳みそまで落ちてしまったのかと思うようなことをぽつぽつ考えながら、私は、受け身をとることさえできなくて、ただただ、重力に身を任せるしかなかった。


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